第6話

 有名人かもしれないという発言は、バス内で一人つり革を握っている男の注目を集めるには十分効果的だった。波田は街中に突然現れたピエロだ。何事も無かったようにうつむくが、ちょうど見上げていたお婆さんと目が合ってしまった。お婆さんは何かを確かめるように波田の目を見つめる。確かめたいことは彼が本物かどうか。そこにあるのはただの興味であり、彼を陥れようというような意志は何もなかった。


 ただ初めて見る小動物に向ける好奇心の塊は、今の状況の波田には毒である。この街でバスや電車に乗る時、通常なら人の声を聞くことは無い。本当に静かなものだ。しかし、バスの至る所から視線という音のない声が波田の耳に届いていた。


 横目にバスを眺めると、乗客たちは波田に好奇心を投げかけていた。一同が浮かべていた顔を波田は注意深く観察する。各々、浮かべているのは侮蔑のような表情ではなかった。その様は、サッカースタジアムに突然犬が乱入してきた時の困惑とワクワク顔だ。次に何が起こるのだろう?そんな期待が彼らの中で渦巻いている。


 波田は突然、顔を上げてマスク越しに自身の口元を抑えた。違うのだ。きっと違う。胸中にあった感情は、彼らに対して向けるべきでは無い。彼らの表情を見ろ。まさに復習するべき課題では無かったのか。昨日木梨と相対した結果、知ることができた事実を思い出せ。


『もしかしたら、俺はいつの間にか前に進んでいたのか?』


 思えば、人と関わらないようにこの数年間は生きてきた。仕事で出会う人間以外、全て断ってきた。ほとんどの人物が眠る夜に活動し、人目がつかないように時間を使っていたはずだ。浪費では無かったのか?こうして日中にバスに乗ることができている。だったら、俺は―


 マスク越しで見えない、波田の表情がほころんだ。そして、バスの乗客に向かって軽く手を振った。静まり返っていたバス内がざわつき始めた。本物かもしれないというあいまいな状態が彼らの琴線に触れる。騒めきは収まらない。静かだったバス内は、一人の男によって瞬く間に非日常の舞台へと姿を変える。やがて手を下ろした波田の行動に答えるように、バスの降車アナウンスが鳴り響いた。


『次は鼓草駅前、席はバスが停車後にお立ち下さい』


 ここは波田が降りるべき地だ。料金表と同額の運賃を箱に入れ、ステップを降りていく。舞台の演出のために身についたゆっくりと降りる癖はここでも発揮される。ただ階段を降りているだけなのに、自然と視線は波田に集まっていた。演出を終えたアーティストを見送るライブ会場となったバス内。そして、乗客達は思った。本当に彼は波田洋介。私たちとはきっと違う世界に生きている人物であるということを。



 可愛らしい名前の駅に降り立った波田は駅構内へとそそくさと向かった。不思議と気分が良かった。ファンに対して手を振ること自体は珍しいことではない。ステージ上でも、テレビの前の聴衆に対しても、いつも決まった形の笑顔を浮かべながらファンと接していた。しかしさっきのような、プライベートでファンと触れ合ったことは無い。


 自分にも守られるべき境界線はあるのは当たり前。分別を付けて関わろうとはしなかった。周りの人物も同様にしていたため、疑問の余地は無く現役時代は過ごした。


 考え事をしながらでも、かなりの早足で駅に向かっていたはずだが、先ほどのバスから追いかけてきたのか一人の人物が波田の道を遮った。目の前の20代ほどの女性は完全に息を切らし、俯いている。手には大きめのスケジュール帳、そして乱れた茶髪ロングの髪が波田の足を引きとめた。


「あ、あの、サインください!」


 息を切らしたまま、彼女は叫んだ。


「ただのおっさんのサインが欲しいのか?」


「はい!」


 目の前の女性は興奮のあまり、全ての言葉を吹っ飛ばしていた。本当なら、ずっとファンでした。ただの中年おじさんではありません。と、答えるはずだっただろう。しかし、元気よく返事した彼女はうやむやにしようとしている。あまりに可愛らしい反応だったので、波田は笑いをこらえるのに必死だった。


 昔から貰った有名人のサインを何かしらの方法で売る人物は多く、それが波田は嫌でほとんどサインをしてこなかった。最後のサインは30歳の頃、道端でギターを弾いていた高校生のギターに書いたことが記憶に残っていた。彼に向けられた羨望の眼差しが、波田を惹きつけた。そして、今目の前にいるこの女性も同じ視線を持っている。


 本当に不思議な縁だ。波田はスケジュール帳を受け取り、最後の空白だったスペースにサインを書き始める。何年、十数年書いていなかったはずのサインは驚くほど滑らかに書けた。


「君、名前は?」


 ようやく目の前の女性は波田と視線を合わせた。目が血走っていて、髪も乱れてせっかくの容姿のマイナスポイントになってしまっている。


冴野さえの 紗枝さえです。頭が冴える。野原の野が姓です。糸へんに少ない、そして枝で紗枝です」


 漢字には自信が無かったが、女性の説明で彼女の名前を綺麗に記すことができた。スケジュール帳には波田のサイン、彼女の名前と激励の言葉を書き込み、彼女に返す。紗枝は唇を結び、波田にお辞儀をした。


「ありがとうございました!これからも頑張ってください!」


 走って波田と反対方向に彼女は走り出した。彼女の後姿を見送る。激励の言葉って、なんで書いたんだろう。かけて欲しいのは自分だろう。こんなことをするとは、たぶん自分は変わったのかな。上本さんに報告することができる項目が一つ増えたことを、心のメモ帳に記録する。


「変に疲れたな」


 さてと、切符も買わなくちゃならないから、少し急いだほうがいいかもしれない。波田は電車の発電車の発車時間まであと何分ぐらいだろうかと左腕の腕時計に目を配る。車時刻は11時30分、今の時刻は11時25分。あと、5分。しばらくの間、波田の意識は行方不明となって体は硬直した。再び血の気が戻ってきた時、波田はこれから必要な酸素を大きく取り込んで駅に全力疾走した。

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