第5.5話
電話で来てくれと言ったが、はたして彼は訪ねてくれるのだろうか。彼が今住んでいる場所を上本は知らなかった。受け取った情報によると、波田が上本の家に到着するには数時間はかかるらしい。
「久方ぶりに買いに行くとするか」
上本は重い腰を上げ、団子屋に向かうための身支度を始めた。身支度は少しの着替えと貴重品を持つのみ。着替えに関しても下はジャージを2枚、上は厚手のパーカーを纏う。
あの日、頭を殴打された上本の命に別状は無かったが、彼の右手には麻痺が残った。それからというもの、もうネクタイを締めることは無かった。年齢もあったが、これが自分の引き際と考えて事務所を畳むことにしたのだ。色々と失ったのも確かだ。だが上本に後悔は一切ない。最高の仕事だった。弁護士としての仕事ではなく、上本剛一郎という一人の人間としての課題をやり終えた気がしたのだ。それに事件が落ち着いてから会った知人からは昔よりも元気になったと言われたこともある。色々と丸くなったとからかわれたこともあったか。
上本が外に出ると、清々しい程の秋晴れだった。秋が戻ってきた空はただ買い物に行く一人の老人を、柔らかい風で包み込む。今は通勤や通学する人も通らない。元々人通りが少ないこの道は散歩するには最高の舞台だ。そして少し歩くと、浅い川に橋が架かっている場所に辿り着く。上本はこの歩井口橋からただ水を流れるのが好きだった。今の季節だと、ススキか。川の淵に無造作に生えている草がただ揺れているのを眺めながら一息ついた。少し歩いただけでこうなのだ。
「運動不足はいかんな」
教え子でもない、ただの顧客だったはずの波田に自らの足で茶菓子を買いに行く。上本はこの不思議な関係を楽しんでいた。友人とも違う。この心地よい関係にどう名前を付けようか。頭を掻きながら、上本は再びお団子屋へと足を進めた。
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