第5話

 自宅に戻った後、スケジュールを練ることにした。今の一週間のスケジュールはこうだ。まず、今日は木梨と会うことになっていた。えっと、次に会う予定の小口という男は水曜日。それならば弁護士の上本には火曜日までには会いたいと波田は思った。


 急な段取りであるが、できる限り早く謝罪の言葉を述べたかった。ただ今は深夜だ。波田と違って上本さんは今も昼型だろう。少し早いが、一旦仮眠を取ることに布団に潜り込む。数年間干したことのないペラペラの布団だが、使い込むうちに体になじんでしまった。当然、寝付けるわけが無かった。



 月曜午前10時。日も高く昇り始める。人と会うのなら、先方の予定を聞くのが礼儀である。まず波田は木梨から受け取った電話番号に電話をかけることにした。


 スマートフォンに電話番号を打ち終わり、あと一つ押せばいいというところ。発信ボタンを中々押すことができない状態だった。自分が上本さんにしてしまったことは取り返しのつかないこと。何を今更という気持ちがあってもおかしくはない。


 木梨がどうやって上本さんの電話番号を知ることができたのか。それがわかれば良かったのだ。しかし、木梨が口を開くことは無い。木梨がもし上本に連絡先を貰ったのであれば波田と話したいということ。一方、木梨が何らかの方法で連絡先を入手しただけなら、上本が波田に対しての思いの見当がつかない。


 波田は一回大きく深呼吸をすることで一旦気持ちを冷静にさせようと試みる。大丈夫、大丈夫だ。俺はただ予定を聞くだけだ。何も難しいことは無い。あとはこのダイヤルのボタンを押すだけで上本さんにはつながるのだ。震える指先を何とかコントロールし、ダイヤルのボタンを押した。


プルルルル、プルルルル、プルルルル、ガチャ


「はい、上本です」


 電話に出たのは本人だった。何かとトラブルがつきものだった波田の支えとなった懐かしく、安心する声が電話という文明の利器を伝って波田に届いた。しかし声を聞いた途端、波田は言葉が出なくなった。何を話せばいいのかわからなくなってしまった。話さなければ、名乗らねば。歌うことが演じることが仕事だったはずだ。声は出るのだ。


「あ、あ…あぅ」


 いつもの自分なら、なんとも情けない声が出たものだと心の中で苦笑するだろう。だが波田は今その余裕がなかった。恩人の声を聞き、凍り付いてしまったのだ。認識の外にある枷が波田を苦しめる。


「まさか、波田君か?」


 その時、絶対零度で凍っていた波田の体を、上本の一言が溶かし切った。


「はい…ご無沙汰しております。波田です……上本さん」


「そうか、そうか、波田君か!どうだ、今は元気にしているのか?」


「はい、上本さんのご助力もあり、私は元気にさせていただいております」


 彼は少し思考を巡らしているのだろう。いつもと変わらないように。その様子は波田には見えない。電話の距離がいつもよりも遠く感じた。波田は自然と背筋を伸ばし、上本の返事を待っていた。一回は硬直し、融解した体は素直にいうことを聞いてくれた。


「今日、時間あるか?君の都合が良ければ、私は直接会って話をしたい」


 願っても無い言葉だ。息を吸い込み、波田はつばを飲み込んだ。


「はい、ありがとうございます」


「では―」


 しかし、波田は上本の言葉を遮ってしまった。


「ですが…ですが私は上本さんと会う資格があるのでしょうか?私は恩人のあなたに対し、仇を持って返してしまった。しかも、もう…7年も経ってしまっている。今更、あなたに合わせる顔が無いんです。誘って頂いたのに何様のつもりだ、とは思っています。それでも、あなたから様々なものを奪ってしまった自分が許せない」


 違う、こんなはずじゃなかった。上本さんにどうやって謝るかを考えていたはず。ただ、思いの堤防が決壊して溢れたのはあまりに醜い心の奥底だった。しかし波田の独白を聞いてもなお、上本は引き下がらない。


「そうだな。君との仕事で失ったものは多い。だが、得たものもあった。あの日の出来事も、自分には良い勉強代だったと今では思う。なぁ?今日、時間あるんじゃないか?木梨君に渡しておいた手紙の中には住所も記載してある。今日でなくてもいい。だが私は君の好きだったヨモギの団子でも用意して待っているよ」


 上本が深呼吸する音が電話越しに聞こえる。波田は彼の言葉を待った。


「綺麗ごとばっかりじゃないもんな。汚れた身同士だ。自分は話したいことがある。それだけは伝えておくことにするよ。じゃ、また会おう」


 波田の耳にはツーツーツーという音が残った。目を閉じ、額にしわを寄せ、波田はゆっくりと電話を耳から離す。もう、やることは決まっている。


「髭剃り、あったかな」




 上本が記載していた住所に赴くには、かわいい原付がかわいそうな距離だった。波田が今暮らしている町は、車があった方が便利だ。近所のスーパーが遅くまで空いているおかげで苦労したことは無かったのだ。そのため車は買わなくてもいいとずっと後回しにしてきたが、今になってそのツケが回ってきてしまった。頭を掻きながら手元の端末で目的地を打ち込み、どの交通手段で向かえばいいのか調べる。


「何回か乗り継ぎが必要か、仕方ない。次のバスは…あと30分あるな」


 調べるとバス→電車→バスの順番で向かうのが一番効率的だった。昔はタクシーを使っていたが、ここ数年は乗ることは無かった。普段使いしていたあの頃が懐かしい。さて、そろそろ出ないと。最寄りのバス停までは歩くのならば最短15分ほどかかる。


 波田は久方ぶりに引き出した姿見で数年ぶりに自分の体、波田自身を見た。頬はこけたままだが、肌の血色は赤みを増した。全身に老化の始まり達が挨拶し始めるが、その分いい顔になっていた。これなら上本さんにも酷く心配されることは無いだろう。あの頃と変わらないコートを身に纏い、ドアノブを握った。。


 久方ぶりの眩しい光は、やはり肌には合わない。だがそれよりも、公共交通機関が随分変わっていた。バスに乗り込む人々が何やらカードをかざしている。整理券はもう無くなってしまったのかと一時不安に駆られるが、誰も取らない発券機が波田を出迎えてくれた。


 バスの中は特に変わった様子は無く、乗客は距離を空けながら座っていることも昔のままだった。バス内を改めて見渡したが空席はどれも微妙な隙間のため、波田はバス前方のつり革を握る。握り心地も変わらない。マスクの下で波田は頬を緩めていた。


「ねぇ?あれ波田洋介じゃない?」


 聞き間違えだろうかと一瞬思ったが、雑な思考はすぐに振り払われる。バス内に響いた声で波田は思い出していた。世間はまだ自分のことを忘れていないということを、自分が注目に値する人物であるということも。バス内が異様に静まり始める。冷汗が止まらない。車酔いなどしたことが無いのに、異常に気持ちが悪く吐いてしまいたくなった。


 波田は後ろを振り向けない。間違いなく全員の視線が自分を向いている。息が浅くなっていく、マスクも取ることができない。やがて過去の擦り切れていた思いがフラッシュバックし、彼の傷をえぐり始めた。まだ過去は離れてくれず、背中にべったりとくっついて、彼の破滅を待っていたのだ。

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