第4話

「じゃあやはり、俺は木梨君と一緒に上本さんを運んだのか」


「はい、有刺鉄線でハイプ椅子を繋ぎ合わせて即席の担架にしたときは驚きました。波田さん自身も有刺鉄線を巻いてあの喧騒の中を自ら突っ込んでいったんですよ?あなたにとって僕はその場にいた一警察官だったでしょうが、僕にとっては肝が据わるきっかけとなった事件でした」


 木梨はフライドポテトとスティックサラダを交互に口に運んでいった。木梨の様子を見ながら波田は考える。自分は木梨のように、ここまで誰かのファンになったことがあるのだろうか。


 波田は多くの作品を吸収し、学んで自らの力とする。力にする過程では、自らの身を顧みないほどの研鑽を積むことは当たり前だった。周りにそんな人物はいない。世界中探してもほとんどいないだろう。だから目の前の自分のファンである木梨を見て、自分は絶対にこの者になることができないと悟った。ミュージシャンだけではなく、演者としてあらゆる人物を演じてきたが、絶対に届くことのない壁を見た気がした。


 超えられない壁を知ったと同時に、自分は果たして現役時代にここまで思ってくれるファンを顧みたのだろうか。頭の中を探る。ファンの何かを変えていたとしても、自身の何かを変えるほどの努力は足りていたのだろうか。


「波田さん?」


「君と一緒に患者を運んだ人物は狂っているな」


「ですが、その背中を見て僕は多くを学びました。そして、警察官として何を思っていけばいいのかも、知ることができました」


 運ばれてきたフライドポテトをつまみながら波田は尋ねた。


「警察官の心得か?警察学校で習うものじゃないのか?」


 木梨は波田を見つめなおす。


「助けられなかった人々への向き合い方です。これは言葉で知っていたとしても、実際に現場に入らなければわからないことでした。波田さん、僕はあなたを助けられなかったことを後悔しています」


「確かにな。あの日にどんなことがあったのかは思い出せない。事実としては知っているが、記録では…何だったかな」


「記者会見が終わった後に後頭部を殴られたんですよ」


 テーブルに置いている木梨の拳が震えていることに波田は気がついた。彼はフライドポテトが入った籠を木梨の前に差し出す。まだバスケットは熱を伴っている。


「気にすんな。ミスは誰でもする」


「上司にも言われました。事件と共に忘れられない言葉があるんです」


 あの言葉は胸の奥にしまっている。いつでも、取り出すことができた。


『警察はスーパーヒーローみたいに全てを解決できるわけではない。敗北から始まることも多い。ただの人間なんだ。それでも、自分が諦めてしまうと守れないものが増えてしまう。割り切ることができないこともある。仕方のないことだ。だが、次は救ってやると思っておけ』


 彼が心を探索していることが、羨ましい。まだ向き合うことができない。


「そんな思いを胸中に秘めているのなら、立派な警察官じゃねぇか。ほら、ポテト冷めるぞ」


 波田がトントンと籠を叩くと、頷いた木梨がつまみ始めた。彼が食べている間に、波田は再び思考の海に落ちる。木梨に対し、引っ掛かっていることがあった。


 ただこの話をするだけなら、先のやり取りは必要無かったのではないのか。さっきまでの木梨の仕草、行動、発言の仕方はまだ粗があるにしろ、どれも一夜で習得できるものではないだろう。努力は感心するべきものだ。演じる上での努力の仕方は、誰から学んだのか。木梨は波田のファンであり、おそらく波田が役者を行っていた時のやり方を真似ているのだ。それならば、彼は―


「今日、君が俺に会いに来た理由がわかった。俺のケアをしようっていうことだな。正直に答えてくれ」


 次のポテトを口に運ぼうとした木梨は笑みと共に食べるのを止める。


「えぇ、僕はそのつもりです。ただ、波田さんにその気があるのなら、という条件付きです」


「無いな。こっちとしてはほぼ初対面の人物にケアを求めたいとは思わない。勉強や努力は認めよう。ただきついことを言うが、君はプロではないからな。もしきちんとした治療許可を貰っているのなら頼むよ」


「グサグサ言いますね」


「大人を辞めて、正直になっただけさ」


 手に持ったままのポテトを思い出したのか、木梨は口に運ぶ。食べている様子を見ながら、波田は独り言のように語りだした。


「正直ついでだ。もう時効だろうから話す。正確には記者会見の一週間前ぐらいからの記憶が飛んでいるんだ。その一週間前はたしか、作っていた曲が中々上手くまとまらなかったんだ。それから飛んで病院の中だ。家は覚えていたが、財産は何もなかった。後で聞いたら、俺が全部迷惑をかけた人に還元されるよう、弁護士に頼んだようだな。弁護士でもそこまでやってくれていたのかと思ったよ。いくら何でも過労だ」


「その、聞いてもいいのかと思いますが、上本さんとは連絡は取られていないんですか?」


 波田は雑に置いていたコートの中からスマートフォンを取り出し、連絡先の項目を表示した。その中には今の彼の仕事における連絡先しか書かれていない。


「事件の後、上本さんは年齢もあるだろうが弁護士を辞めていたみたいだ。ネットで事務所を検索してもヒットしない。そして俺の携帯は騒動の時にデータと共に粉々に砕け散った。一言お礼を伝えたかったが、時間も経ち過ぎた。合わせる顔がない」


 波田の話を聞いた木梨はスーツの中から小さな便箋を取り出し、彼の前に差し出した。受け取った波田が中身を確認すると、そこには上本がぎこちない筆跡で、連絡先と波田への言葉が記載されていた。


 嘘だろ。おい。つい、手紙を強く握りしめてしまい、端がクシャっとなってしまう。慌てて皴を伸ばそうとするが、手紙が濡れ始めていることに気がついた。波田の様子を観察していた木梨は語りかける。


「上本さんから預かりました。一度会ってみてはいかがでしょうか?今週の水曜日以外であれば、救急隊員の小口さんとの面会とも重なることはないはずです」


 波田は手紙の内容を読むのに必死になり、木梨の言葉があまり体の中に浸透しない。しかし、手紙の内容自体もあまり頭に入ってくれない。テーブルに手紙を広げ、指でなぞりながら読み進めようとするが、この方法でも頭に与えられた時のような衝撃が、彼の視線を遮っていた。


 木梨は知識から、溢れた感情を抑えるための方法を知っていた。今の波田だと左手に触れてやると落ち着きを取り戻しやすいだろう。しかし、木梨は波田を止めることはしない。ただ彼の涙痕が無くなるのを待った。それは波田への敬意と謝罪を込めた、せめてもの償いだ。


 これ以上手紙を濡らしてはいけないと波田は手紙をコートに包み込む。読もうとすればするほど過呼吸に近い症状が彼を襲ったのだ。ダメだ。冷静では無い今、読めたとしても頭には残らない。家に帰ってゆっくり読めばいいだろう。ただ―木梨への疑問が募る。


「木梨君、なぜ上本さんとやり取りをしていたんだ?誰かに頼まれたのか」


 空になった籠を見ながら、木梨は答える。


「えぇ、頼まれました。誰とは契約違反になってしまうので僕の口からはお答えできません。一つ言えることは、あなたを思っている人々がいるということです」


「妻夫木社長も絡んでいるのか?」


「彼も善意でしょう。皆さん、あなたへの善意で動いています。一番後ろの人物の真意は僕も知りません。しかし、あなたに会いたいと考えている人は少なくありません。彼女もきっと何かを願ってあなたと相対しているのだと思いますよ」


 信じられない。こんな都合が良すぎることがあるのだろうか。彼女…その彼女とやらは何を画策しているのだ。クソ!全く考えがわからない。不安と期待が混じり合い、飲み込めない何かとなって波田の思考を侵食する。


「これ以上、波田さんに得があるお話をすることはできません。勝手かと思いますが、今日はここで切り上げてはいかがでしょか?波田さんにはゆっくりと上本さんからの手紙を読んでもらいたいのです」


「そうか、そうだな。十分、君からは良いものを頂いたよ。俺はまだまだということも理解できた。もし、次に会いたいときはこれに連絡してくれ」



 木梨の波田に対する行為は1ファンとしては感慨深いものであった。しかし、木梨としてはファンとしてあり続けるためにはこの連絡先を受け取るわけにはいかなかない。受け取った時点で、友人のような関係になってしまう可能性があった。ファンであること、背中を見続けた日々を止めるということなのだ。


 ただ、木梨は連絡先を受け取ることにした。これまで波田ファンとして彼を追いかけていたのは、決して罪悪感からではなく本当に作品が好きだったから。作品に救われたこともあった。だから、今度は自分が波田を救う番だ。いや、救うと言ってはおこがましい。少し話し相手になるだけでも、彼の気持ちが緩やかになるのであれば。快く引き受けようと思ったのだ。


 連絡先を交換後、二人はここで別れることにした。波田は考えた。これ以上は彼から聞き出すことはできないだろう。彼も一警察官であり、守秘義務を律儀に守る可能性が非常に高いのだ。


 木梨がファミレスから遠ざかっていく様子を眺めつつ、波田は自身の体が熱くなっていくのを感じた。ファンが自分にも居たのだ。ファンが自分のために動いてくれていたのだ。かつて波田は自身の体をケアするために色々なことを試した。結果は失敗であり、今も悩みは多い。でも、木梨のように自分のために勉強をしてくれる人がいるとは思ってもみなかった。勉強をしているとしても、素人だと決めつけて断った自分を恥じる。やはり自分はファンを顧みていない。変わらず自分勝手ばっかりの人間なのだ。


 波田は暗闇を真っすぐ見つめる。この何もない暗闇が自分の記憶だとしたら、進むのは、向き合うのは足が震えてしまう。だが、進まなければならない。底は見た。自分は一番底まで自分は落ちていった。ならば後は光の方向へ街灯にぶら下がる虫のように向かっていく…違う。怖いものは何も無い。煌々と光を放つ存在から背を向けて、波田は光があまり差し込まない道を歩き始めた。そう、深海魚が光を目指さないのは、決してそこに希望があるわけではない。まだ、日曜日の11時。今週は始まったばかりだ。

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