第1章 緋色のギター

第1話

2021年10月某日 A.M 4:10


「終わった」


 緑色の作業着を羽織り、煙草を吹かせながら波田なみたは自販機の横に立っていた。記者会見の日からそろそろ7年が経つ。髪はあの時からずっと黒髪ショートで、当時の面影はもう無い。


 歌手人生から身を引いた彼はここ妻夫木物流で働いていた。彼はその知名度から日中に働くわけには行かず、別の職を探す必要があった。そんな中、仕事を探していた際にたまたま募集していたこの妻夫木物流を見かけたのだ。さらに、この会社の仕事概要だと人とあまり関りが無いようであり、機械を動かして決められた作業を行うことで良い。怪我をしている彼の身にとっては現状で最高の環境だ。


 その日のうちに電話をした時の衝撃はまだ彼の脳裏に刻み込まれている。社長の妻夫木義男つまぶき よしおがたまたま電話を取ったのだが、何せ声を聞いてすぐに「採用!」と言い、自分が世間でどんな風に思われているのかを説明しても、「とりあえずやるだけやってみてくれ。肌に合わなかったら別の仕事を紹介する。とりあえず来い!」と言われたのだ。騙されているのかも知れないと思ったが、仕事の初日に妻夫木物流に行くと、恰幅の良い人柄の良さそうな男性が出迎えた。当時はまだ彼のことをよく思っていない人ばかりで、彼の身は決して安全なものではなかった。しかし、この妻夫木は彼を毛嫌いすることなく、他の新人と同じように職場の説明を始めた。


 小さな会社だ。もし、スキャンダルに巻き込まれてしまうと、業務に凄まじいほどの影響が出る可能性もある。だからこそ、波田はなぜこの会社が自分を雇うのかがわからなかった。それは7年経った今でも教えてもらっていない。だが、きちんと給料も入る。この仕事場は悪くない。雇ってもらえるのだから別にいいか、という理由で波田は考えるのを止めていた。


「よっ!波田。また煙草吸ってんのか」


「そういう輪塚は珈琲か?ほんとに、よくそんな苦いもの飲めるな」


 気さくそうな波田の同僚である輪塚浩(わつか ひろし)の仕事も終わったようだ。いつもの缶珈琲を片手に波田の隣に座る。このやり取りはもはや慣れたもので、ただ互いの戦場から帰ってきてお疲れ様と言っているだけ。ここで二人はしばらく、喧騒という毒牙が取り除かれた街の一部となる。やがてタバコは短く、缶珈琲は底をつく。これが二人の無精ひげを生やした44歳のおじさん同士が行う酒の無い晩餐会だ。


「なぁ、波田聞いてくれよ!」


 仕事終わりでクタクタの波田をよそに、テンションが常に高水準な輪塚は波田の隣に座ると同時に話し始めた。


「なんだ」


「娘が、可愛いんだ…」


「さて、自販機でジュースでも飲むか…」


「おいおい、聞いてくれよ!俺の可愛い愛娘がさぁ」


「待て、聞かないとは言ってない。長くなりそうだから、ジュースを買おうと思っただけだ」


「んだよーだったら奢らせろ!なんでもいいぞ」


 輪塚は波田を自販機から追いやり、娘に作ってもらったと自慢していた財布から五百円玉を取り出すと、惜しげもなく投入口に差し込んだ。ガタン、ゴトン!輪塚はもう一本珈琲を買い、波田はリンゴジュースを選ぶ。しかし、自販機が吐き出したのは別の段にあったオレンジジュースだった。押し間違いではない。波田はいら立ちを隠せなかった。


「せっかく奢ってもらったのに、自販機の野郎間違えやがった」


「まぁいいじゃねぇか。ジュースなら飲めるだろう?それよりさ!こっちは娘の可愛いところを語りたくてうずうずしてるんだ」


「はいはい。もうすぐ11歳ぐらいだったか?」


 パン!輪塚は待ってましたと言わんばかりに手を叩き、えせ落語家は三文芝居を始める。


「そう!11歳だ。この前、運動会があったんだがよ。徒競走で一生懸命に走ってるんだぁ。それでも!それでも!十分に可愛いんだが、ただでは終わらなかった。なんと、コーナーに差し掛かった時、真っすぐに俺のところに突っ込んできたんだ!心臓が飛び出るかと思ったぜ!まぁすぐにコースに戻るように言ったんだけど、あれは…あれはダメだよ。お前にもこの幸せを分けてやりたいものだぜ」


「確かに、その幸せは知らないな。でも、俺には素敵な幸せを受け取る権利は無いからな。輪塚が俺の分まで楽しんでくれよ」


 輪塚の左の口角があがる。


「当たり前だ!でもな、俺は強欲だ。お前からも幸せを分けてもらいたい。何度か頼んでいるが一度でいい、俺と一緒に演奏してくれ!俺はベース、波田はギターとボーカル。学生時代から誰かと一緒に楽器を弾いたことがないんだ。なぁ、頼むよー」


「いい年したおっさんが引っ付くな、気持ち悪い。それに、俺が音楽をするわけにはいかないだろ?」


「世間はもう忘れてるって。それに俺はお前のファンだったんだぜ?俺たちがまだ潤っていた頃!テレビも何もかもが混沌としていたあの時代!そんな中煌々と煌めいた、まさにスター。それが波田洋介だ。昔のお前が見たら泣くんじゃねぇか?」


 ガシャン!波田はジュースを一気に飲み干し、蓋のついていないゴミ箱に投げ入れた。彼がノールックで投げた空き缶は綺麗な放物線を描きながら、自分の新たな持ち場に吸い込まれていった。


「10年前の俺が見たら悔しくて唇を歯ですりつぶしちまうだろう。ただ、7年前の俺が見たら膝をつき、感無量の涙を流すはずさ。それより―」


「それよりなんだ」


「娘の話はいいのか?もっと話しておかないと、あのジュース一本じゃおつりが来ちまうぞ」


「…だな。じゃあお前がパンでも用意しておくべきだったと思うような話をしてやる。俺が多めに払ってやる番だ。覚悟しておけよ」


 答えるように、波田は静かに口角を上げた。輪塚は話が上手い。頻繁にこうして話を聞いては、時間を潰す。まだ太陽が昇る気配は無い。つまらない話し合いが、彼らの大切な時間だったのだ。




 波田は帰宅後、いつものルーティンを始めた。まずはコンビニで買ってきたいくつかの弁当と、ジュースを机の上に放り投げる。そして手洗いとうがいをしてシャワーに直行する。そして弁当をつまむように食べて、ジュースを片手に何かの動画を流しておくのだ。


 波田は一人になってから気がついたことがあった。家に音が無い。嫌というほど聞き、洪水の如く流れていった音が一人になるとピタリと止むのだ。とても耐えられず、帰宅後は常に何かの音を端末から吐き出させていた。時に音楽であり、ドラマであり、自然の音であったこともある。とにかく音が鳴っていないと気が済まない。音が止むと、世界に取り残されたような気がして眠れることが無かった。


「薬飲むの忘れてたな」


 処方された安定剤を台所に取りに行った。彼が眠るには音だけではなく、いくつかの薬も必要だった。皮肉なことに、家から音が失われると不安だが、彼の頭の中は騒がしい魔物にとりつかれていた。薬は症状を緩和させるもので、決められた量を守っていた。


 この家の台所はワンルームにおける最低限の設備しかなく、照らすための明かりも経年劣化でカバーのプラスチックが黄ばんでいる。そんな蛍光灯カバーに一匹の蛾がとまっていた。


 しばらく見とれてしまったが、ここに来た理由を思い出す。薬を飲まなければ。波田は水を注いだコップを口に運ぶ。しかし、コップは口を拒否してシンクに叩きつけられる。手の震えと共に、乾いたシンクにゆっくりと水が広がっていく様子を眺め、冷蔵庫に入ってあるジュースを取りに行った。波田は7年前から水が飲めなくなっていた。水道水や浄水機の濾過水、ミネラルウォーターまでもが彼の口に入らなかった。頭が勝手に拒否信号を出して、気持ちとは反する行動をとってしまう。幾度もリハビリを試みたが、どれも失敗ばかりだった。


 シンクに落ちたコップを眺めながら、彼はもはや体の一部となったその薬をジュースと共に飲み込む。子供の頃にあれだけ欲していたジュースは、今やただの液体に過ぎない。残りを飲み干し、コップをカタンと置いた。衝撃に驚いたのか、気まぐれなのか、さっきの蛾が蛍光灯乗り換えてきた。


「どこから入ってきたんだ。今日は泊っていくか?」


 波田は訪問者に挨拶を済ませ、使った食器もそのままで雑に敷かれた布団に潜り込んだ。しかし、彼が横になるのは世界が起きだす頃、だがすぐに眠れるわけではない。街の余白に体を預けるよう無心になりたくても頭にちらつくことが多すぎるのだ。熟睡できたことはあの日から一度もない。波田は日に日に自分に対する嫌悪感で胸が広がっていく。だから、彼は少しでも人の幸福な話を聞きたいのだ。幸福である人が隣にいれば、自分の気持ちが楽になるのではないだろうかと、日々人の話を聞く。だが、自身を癒すどころか、傷つけている行為であることを彼はまだ知らない。

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