〈4〉
——だめですよ、と
下っ端に握られた手を振り解き、こちらをちらりと見やりながらジンは言う。
「彼女には先約があるんです。私とです。なので、あなたの相手をしてあげることは——そうです、司祭さんとあなた、ちょうどあぶれものふたりで
完全に人の心がない最低な提案も、しかし神の言うことなればしようがない。真っ直ぐこちらへ駆け寄ってきたジンが、そのままわたしの手を取って逃げる。入ってきたのとは反対側の扉から、この部屋の外、どこかわからないけどやたらと入り組んだ廊下へ。
手に手を取って駆ける花嫁ふたり。そのあてどない逃避行の最中、「大体見えましたよ、全容が」とジンは得意げに言う。
曰く、すべてはこの大聖堂の司祭の
と、そんなことを自信満々に言うからびっくりした。えっそんな今更、というか、わたしが「司祭のこと?」って聞いた時点でその辺全部実質的に自明のことでは? なんて、彼のその得意そうな顔を見てはとてもそんなことは言えない。かわいそうなので。
「うん。わたしもジンと同じ考え」
その同意に、でもなんだか微妙な顔をするジン。疑いの目というかなんというか、普通に「この娘、なんと負けず嫌いな!」と思っているのが丸わかりの顔だ。つくづく思う。考えてることがこんなに顔に出やすい
なんて、そんな呑気を言ってられる状況でもない。なくなった。この直後、ジンの発したひとことによって。
「……やはり、出ましたね。ご覧なさいミカル、やはり私の名推理の通りでした」
突然、ジンの声の調子が変わる。なんだろう、と目を向けた廊下の先、なにやらわたしたちを待ち伏せていたらしい巨大な影。ずしん、ずしんとこちらに迫るその姿は——まあ、他にない。
「司祭様——じゃ、なくない? え、なにあの頭。ブタ? 首から上、あれ完全にブタだよね? それに、背が高すぎ。天井ギリギリ。なにあれ」
「なるほど、まさしくブタ野郎ですね。もはや人の
どうです、私は初対面なのでわかりませんが、ブタ以外の部分には司祭の面影があるでしょう——なんて、そう言われてもよくわからない。最近都会の方から来たばっかの人だし、だいたい顔がブタになっちゃってる時点で実質ノーヒントだし、なによりそれ以前の問題として——。
あんまり直視したくない、というか、
「……えぇぇ……あれが、男の人の……」
なんで全裸なのこの人、なんて、そう思いかけて、でも気づく。
——きっと、わたしのせいだ。
わたしが、もっと早く、彼の元にこの法衣を届けていたら——。
「そんなわけないでしょう。どこの世界に服を法衣一着こっきりしか持たない司祭がいるんです。目を覚ましてくださいミカル。ほら、ずっとちん◯ん見てないで」
さっさと逃げますよ、と、突然の行動。ひょい、とわたしを両腕で抱えて、そのまま来た道を引き返す。すごい。いくらわたしが小柄といっても、でも人ひとりをこんな軽々と——なんて、そう彼の力強さに感心してあげようと頑張ったけど無理だった。当たり前だ。
「え、逃げるの? なんで? 神なのに? なんかないの、すごい神パワーでブワーっとやっちゃうとか」
胸元に抱きかかえられたまま見上げる、廊下を駆ける彼の横顔。つう、と伝う一筋の汗が、その色白な肌に生々しい。彼は答える。無理です、と。こうして人としての姿を得て
嘘でしょ、って普通に思った。それじゃわたしたち捕まって大変なことにされちゃうじゃん、と、それもあるのだけれどでもそれ以前の問題。
「かわいそう。ジン、そんな神徳ないんだ……いや、信仰心とパワーの換金レートがどんなものかわかんないけど」
「失礼なこと言わないでください! みんな熱心に信仰してくれてますよ! してくれているんですけど、でもほら、その集金装置であるところの教会が、この有様でしょ?」
つまり〝敵〟にピンハネされてる形になって、残った分ではこれがやっとなんです、とジン。なるほど。みんな神様に祈りを捧げているつもりで、いつの間にか違うものを信仰させられていたわけだ。そう思うと、結構ひどい話のような気がする。敬虔なら敬虔なほど、横流しされる量も増えちゃうわけだし。
単純に思う。今わたしたちが助かるために、というのもあるけど、それ以上にその、根本的な問題として。
「どうすればいいの?」
シンプルな問い。ジンの答えは、やはり簡潔だった。
「ぶっ殺すしかありません。神パワーで、ブワーッと。ただ、それには元手が要ります」
実にわかりやすい。いまここで用立てできる元手は、つまりわたしのそれだけってことだ。わたしひとり分でどの程度のブワーッが可能か? わからないけど、どのみち選択肢がそれしかないならやるしかない。
問題は、信仰って一体どうやるの? という点。
もともと、あまり信心深い方でもない。実はわたしは生まれ育ちがちょっと複雑で、そのせいで神を恨んだりしたことすらあった。あるいは、仮にわたしが敬虔な信徒であったとして、逆に彼を信じるのは余計に難しいんじゃ? とも思う。だってこの状況、一旦私情を抜いて客観的に
みんなの信望も厚い教会サイドの皆さんと、そこから信仰を奪おうとする怪しい色白住所不定無職、って構図だ。
「ちょっとミカル!? 嘘でしょ、今更そこ疑うことってあります? 後ろ見てみてくださいよほら、あなたを手込めにしようと追ってくる全裸のブタ男ですよ?! どう見ても悪では?」
「よくないと思う、そうやって人を見た目で判断するの」
そうやんわりと窘めるわたしに、「私これだから正論って嫌いです!」と泣きそうなジン。駆けても駆けても抜け出せない廊下は、どうやら何かの力により歪められているらしい。実質的にもうあの怪物の腹の中みたいなものだと、そう淡々と説明するジンの、その顔に流れる滝のような汗。呼吸は荒く、なによりいまわたしの抱えられている胸元、そのバクバク爆ぜる感覚が伝わる。
迫ってくる。後ろから、ちん◯ん丸出しのブタ頭が。
そういえば、もしあれに捕まったら——あるいは、もしあのまま最終選考に進んでいたとしたら。
「ねえジン。やっぱあのブタ司祭、ジンの方選んでたのかな。じゃあなんだろ、わたしって。引き立て役? あのほら、スイカにちょっと塩振ると甘」
「知りません! もうどうでもいいじゃないですか、そんなの!」
そうでもない。いいから聞いて、とわたしはその先を続ける。苦しそうに喘ぐその顔を見つめて。
——ねえジン。わたし、手違いで混じっちゃっただけだけど、本当はちょっと嬉しかったんだ。わたしはなんの変哲もない平凡な人間で、こんな風に誰かから選ばれるみたいな、そんなことって今までなかったから。夢みたいだった。すごく幸せだって思った。なんなら、最終選考で急にブタおじさんが出てきたとしても、わたしは喜んでお嫁さんになっていたかもしれない——。
「いや、嘘かも。さすがにブタは……いやブタくらいなら愛嬌あると思えばあるけど、いくら家の中だからって全裸でうろうろ」
「いいから! 要点! 要点まとめて! せっかく真面目に聞いてたのに!」
わたしは続ける。つまりわたしにとってあのブタ全裸ちん◯ん、普通に生きてたら一生叶わない夢を見せてくれたそれは、いわば神様みたいな存在なのだと思う。嘘でもいい、醒める前に死ねたならきっと幸せ——すぐにそんな考えに至ってしまうのは、生い立ちのせいでいろいろ苦労した頃の名残だ。詳しくは言わない。そんな時間もないし、思い出すだけでもちょっと悲しくなるから。
あんな見た目でも、どう見ても邪悪な存在でも、あれはきっとわたしの初めての神様。
——でも。
「それを、ジンの神パワーでブワーッとやんないと、ジンが手込めにされちゃうんだよね」
ぽたり、と彼の顎先から、わたしの口元に流れ落ちる汗。しょっぱい。わたしのそれと同じ味。バクバクと跳ね回る心臓も、苦しげな荒い呼吸も、どう見ても同じ人間、そのものだ。
出会ったばかりで、あるいは錯覚かもしれないけれど、でもわかる。
不安で心細かったところに、初めて声をかけてくれた人。
逃げるのに、わざわざわたしを連れ出して、助けてくれようとする人。
——そんなジンに、わたしはもう、ひどい目に遭ってほしくはない。
この気持ちをきっと、友情というのだと、わたしは信じる。
「——ちょ、ミカル——ええ?」
戸惑うジン。わたしも同じだ。同じ気持ち。
彼の体が、なんか淡く発光し始めたから。なにこれ。
言われた通り神様を信じようと思って、でも考えたのだ。
さっきジンの言った通り、信仰が横流しできるものであるのなら。神様を信じてるつもりで集めたものを、その敵が使うことができるんだったら。
——じゃあ、その逆は?
別にあれが、よからぬ存在でなくてもいい。神様でよかった。どうあれわたしたちを追ってきて、ジンにひどいことをしようっていうなら、わたしは「じゃあいいや」としか思わない。じゃあいい。要らない。神でも殺す。この命を、この魂を神の敵対者に売ってでも、わたしはわたしの大事なものを、侵そうとする〝敵〟を排除する。
神様なんて存在を信じられる、そんな自信はやっぱりないけど。
わたしは、ジンを信じる。ジンのことだったら信じられる。わたしがジンを友達だと感じていること、この感覚さえあればこの先なにがあっても平気だと、そう確信することができる。
「——だから、いいよ。やっちゃって。ブワーッと」
わたしの言葉に、ジンが応える。ありがとうミカル、と。
「いやぁ、よかったです。ホッとしました。こうなった以上はちゃんと神様らしく、あなたに格好いいところを見せたかったので」
瞬間、ふわり、と宙に浮くような感覚。なんか投げ出されたと思ったら、わたしはその場に浮かんでいた。なにこれ。重力がない。「落ちたら痛いでしょう?」と嘯く彼が、そのまま後ろを振り返る。視線の先に、例のブタ。迫り来る〝敵〟を、堂々迎え撃つジンの髪やドレスの裾が、まるで燃え盛る炎のようにバリバリとはためく。
「——悪いけど、加減はできないよ。これは〝神罰〟だ。君はミカルに怖いを思いをさせた。わかるか? 怒っているんだよ、私は」
睨み据え、振り上げた手のひらを、そのまま翳す。
刹那、激しい光と、周囲の空気を震わす轟音——。
待ち望んだ決着は、でも笑えるくらいあっけなかった。
——ブワーッ、と。
派手に吹き飛ばされ、そのまま悶え転がるブタ司祭。その全身を包み込むように、真っ白い炎の柱が立ち上っているのが見える。
「すご……なにあれ。炎?」
「浄化の
なるほど。でもそのわりには壁とか床とかに燃え移ってるように見えるけど、と、そのわたしの言葉にジンは力強く頷く。頷いてからじっとその様子を見つめて、
「……アレッ? ほんとだ。え? 何で?」
とか言う。わたしに聞かれても困る。ふたり並んでのんびり見物していたブタの丸焼きの、その周囲の景色が急にグニャグニャと歪む。そういえば、とふと思い出す。ジン、さっき「実質もう怪物の腹の中」みたいなこと言ってた気がする。それか。
「あれ? ねえジン、これやばいやつ? なんか空間ごと閉じ込められる的な」
「そういうやつで、普通ならもうおしまいなんですけど、でも大丈夫です。信仰、すっごいたくさん貰いましたので」
どうぞ、と手を差し出すものだから、ぎゅっと握り返してしまう。手と手を繋いで駆け出せば、崩れ落ちる歪んだ迷宮は——でもキラキラと眩い光の道へと変わる。すごい。もう理屈もなにもあったものじゃない。何でもありなの、と隣に目をやれば、向こうも小さく微笑み返す。なんか言え。何でもありか。
やがて駆け抜けた光の道の先、そこには——。
ゴーン、と鳴り響く、大聖堂の鐘。
聖堂前の広場、ざわめく人垣の真ん中に、手繋ぎのまま駆け出す笑顔の花嫁ふたり。
「違う。あのこれ、こう見えて男なんで大丈夫です」
じゃない。なんか言い訳の仕方を間違った気がする。男なら男でこんな格好してるのはおかしいというか、もうなにからどう説明すればいいの。
その先は本当に大変だった。自分でも説明のしようがなくて、なのにジンは全然役立たずというか、ずっとニコニコ満足げに笑うだけなのだからどうしようもない。なんか言え。本当に。
結局、逃げた。走ってそのまま、わたしの家まで。その先はまあ、いろいろだ。いろいろはいろいろ。本当に何日もかかったし、とても説明しきれるものじゃない。
ただひとつ、おかげではっきりわかったのは——。
大変だ。
ただの友達ならなおのこと、それが神様だっていうのは、本当に。
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