第30話 雪織千尋の逃亡





 人見君は倒れたあと、彼のクラスメイトの屈強な男子二人によって保健室に運ばれた。

 最初は自らのパンチにやられ気絶したかのように見えた人見君はやがて小さな寝息を立てて眠り始め、昼休みが終わってからもそこから出てくることはなかった。


「寝不足だったのかなぁ……」


 ぼんやりつぶやいていると、美和子が席に来て小声で言う。


「あのー、あたし今回は千尋に言われたからほんっと超我慢してなんにもしてないんだけど……」

「うん」

「人見の動きが派手過ぎて、すでに学年中どころか教職員にまで広まって面白がられてるみたい」

「それは仕方ないね……」


 元々が他人にろくに干渉せず、そっけない対応をとる人見君。

 恋愛方面はモテてもまったく音が聞こえない。そんな効率重視の乾燥サイボーグだった人見君が何が原因かはわからないがご乱心してわたしを追いまわしていたのだから、物珍しがられても仕方ない。


「千尋、原因はわかりきってるでしょ」

「うーん。わかりきってるかなぁ、あれ」


 ぜんぜんよくわからないんだけど。

 人見君がわたしに恋をして錯乱したというのが周囲の考えるおおかたの見方なのは知っている。

 しかしわたしとしては、本人からはっきり言われたわけでもないことをやすやすと信じてぬか喜びはしたくない。


 わたしは親譲りの容姿が目立つので比較的誰かに好かれたとか勝手に言われやすいほうだが、ただの噂で実際そうでなかったことも多い。それに、イメージを作られやすいのか中身にガッカリされて幻滅されることも多い。

 なにより周りが勝手に言う噂の不正確さというものはつい最近も強く実感したばかりである。


 正直なところ、夏休み最後の日、それからそのあと手を繋いだときまでは彼から好意があると期待していたところもあった。しかし、そのあと彼がなんだかんだ誰にでも親切なことを聞いてしまった。


 わたしには彼の考えていることがわからない。

 今の動きは常識の範疇を超えている。あんな動きから真意を察せるほどの洞察力はない。

 わたしはわけのわからない動きを無理に捻じ曲げて好意とは受け取れない。周りは勝手に推測するかもしれないが、わたしにとって、わけのわからない行動は、わけのわからない行動でしかない。


 ただ、はっきりしたことはある。人見君は、わたしが告白しようとした相手が彼のことだとは思っていなかった。だからわたしは拒絶はされていないし、振られてもいない。彼はわたしのことを心配していた。それがお節介なのか、別の何かなのかは聞いてみないとわからない。





 帰る前に保健室に行ってみようかと考える。

 鞄を置いたまま教室を出ると、目の前の廊下を組木君が歩いていた。


「あれ、組木君、今帰り?」

「うん。あ、恭介大丈夫だった?」

「たぶん……て、いってもわたしにもわかんないんだけど……」

「体が元気そうならいいけど……雪織さんが顔にグーパン入れてぶちのめしたんでしょ? そう聞いてるけど」

「ち、違うよ! それひどい噂だよ。なんでわたしが人見君をぶちのめすの?」

「あ、違ったんだ」

「わたしが人見君を倒せるわけないじゃない……」

「いや、恭介、雪織さんのパンチは避けないと思って……」

「だとしても練習もしてないし……前叩いたときはびくともしなかったよ」

「あ、もう殴り済だったか。恭介やたら頑丈だからねぇ。三階から落ちて無傷だったこともあるよ」

「そ、そうなんだ……」

「中学のときもうっかり二階からシャベル落としちゃった子がいて、恭介の頭に落下して当たったんだけど、シャベルのほうがへこんで壊れてたし」

「それは頑丈だね……」


 この人も、人見君もどこか掴み所のない会話をする人だ。だから余計わからなくなる。


「人見君てどんな人なの? よくわかんないんだけど」

「恭介はものすごくわかりやすい奴だよ。今も昔も……おれと違ってまるで裏がない」

「う、うん……」


 裏がないから余計に言動が不可解なんだけど……あれが表って、どうなってるの。


「でもおれは最近、恭介ってあんなやつだったんだなー、と思った」


 組木君は昔から人見君のことをよく知っている。その彼がわずかに口元を緩めて嬉しそうにしたから、それはべつに悪い変化ではないのかもしれないと、そんなふうに思えた。


「雪織さんはもう帰るの?」

「うん、その前に保健室行ってみようか、迷ってるんだ……」

「ちょっと様子見ていってやってよ」

「え、じゃあ組木君も一緒に行く?」

「そうだねえ……行こうかな……あ」


 組木君がスマホを取り出して眺めた。そうして口元をユルユルに緩めた。


「ごめん、無理」

「えぇ、来てくれないの?」

「おれ、急いで帰る用事できちゃった」

「ああ……それなら仕方ないね」


 ものすごく内容の予想がつく用事だ。これは仕方ない。


 組木君に手を振って、そこで別れた。





 保健室に入ると、戎先生が入れ替わりで衝立の中から出てきた。従兄弟だとか言ってたからそれなりに親しいのだろうか。


 わたしのことを横目で見たけれど、特に何も言わずにすれ違う。なにげなく振り向いて見ると、扉のところでひらひらと手を振ってから出ていった。相変わらず、なんとなく教師らしさがない。


「人見君」


 白い衝立から顔を覗かせる。

 人見君は起きていた。頬にアザができていて、色が変わっている。すごく痛そうだ。


「大丈夫だった? あ、アザになってない? ……すごく、痛そう……」


 人見君はわたしが伸ばした手をそっとどけて言う。


「……触らないでくれ」

「あ、ごめん。痛かった?」

「そうじゃなくて……」

「えっ…………あ…………」


 わたしに馴れ馴れしく触れられたくなかったのだと、そんな当たり前のことを解読するのに時間がかかってしまった。あまりに単純な意図を理解すると、しゅんとした。


 来たはいいが、どうしていいかわからない。怪我人にいろいろ追及していいものか、そんなところもためらう。しばらくベッドの白いシーツの端っこを視界に入れて、黙って立っていた。


「雪織……」


 地の底から響くような声で呼びかけられた。


「……なに?」

「逃げろ……」

「えっ」

「今すぐ俺から逃げてくれ」

「ど、どうして?」

「頼むから逃げてくれ……でないと俺は……!」


 な、何その悪に心を乗っ取られた人にわずかに残っていた良心からの忠告みたいなやつ……。


「逃げるんだ」


 もう一度きっぱりと言われて「わ、わかった……!」と言って踵を返した。

 人見君がここまで必死に頼んでいるのだからとりあえず聞いてやろう。


 保健室の扉を閉めて考える。

 どこに逃げればいいのだろう。もう放課後だし、今日はひとまず家に帰ろうと判断した。教室に向かって歩き出す。


 階段前まで行ったところで背後からピシャンと激しい音がして振り返る。


 人見君が、ものすごい速さで出てきた。

 こちらに向かってくる。


「待て雪織!」

「えっ」

「逃げろ!」

「何それ! どっち!?」

「逃げてくれ!」


 人見君が逃げろと叫びながら追ってくるので逃げた。一体何に取り憑かれているんだ。結構怖い。強制鬼ごっこだ。

 まだ距離はある。階段を登り、自分の教室に入る。鞄を回収するためだ。少し走っただけで息が切れた。


 背後ですぐに前の扉が開いた。速い。移動速度が半端ない。いつぞやの殺人鬼なんて目じゃない。鞄を肩にひっかけて後ろの扉から出て廊下を走る。心臓がばくばくと波打つ。


 廊下の奥には、外の非常階段へ続く重い鉄扉がある。そこを目指してパタパタと走った。


 けれど、人見君の足は速かった。

 わたしが遅いのかもしれない。扉を開ける前に鉄扉に手をついた人見君によってあっという間に閉じ込められた。


 振り向いて向かい合わせになって人見君の顔を見つめた。


 人見君は眉間に深く皺を寄せた苦悶の表情でこぼす。


「…………逃げろと言ったのに……遅すぎるだろ」

「いや、無理だよ! 速すぎる!」


 そこから彼はしばらく黙っていた。


 廊下からは今にも沈んで消えてしまいそうな日没の赤い光が人見君の足元にまで射していた。


 一番近くの窓が開いていて、階下から「じゃあね」「おうまたなー」などと声が聞こえたけれど、その挨拶が終わると静かになった。


 一瞬だけ窓の外に意識がいっていて、戻したとき、わたしはやっぱり人見君の腕によって閉じ込められていた。遠くからだと、わたしの姿はすっぽりと隠れてしまって見えないかもしれない。わたしからも、人見君しか見えない。


 追いかけっこはもういいのかな。

 あまり逃げる気にならないんだけど。


 少しふわふわと彷徨わせていた視線を人見君に戻す。口元だとか、腕だとか、パーツごとに視線を合わせてから思い切って、彼の目を見た。


 人見君はずっと、さっきから変わらずにまっすぐ、どこかぼんやりした顔でわたしを見ていた。


 それから見つめ合ったまま、人見君がゆっくりと口を開く。


「……雪織、好きだ」


 ぽつんとした世界の端っこみたいな廊下に、その声は静かに響いた。

 わたしはたぶん限界まで目を見開いて、ぽかんとしていたと思う。


「……ほんとに?」

「ああ。間違いない」

「じゃあ……触ってもいい?」

「いいよ。いくらでも」


 さっき拒絶されたのが地味に堪えていたので、改めて彼の頬に手を添えた。


 人見君は黙って、動かずにいた。その目を見上げる。


「わ、わたしも好きです」


 わたしは特に手は動かさなかったけれど、そのままゆっくりと人見君の顔が近くにきて、唇がそっと重なった。


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