第29話 人見恭介の覚醒
1
気がつくと夕暮れの保健室にいた。
窓から射し込んだ赤い光は白いシーツを照らしていた。
俺はなぜこんなところにいるのだろう。
何かに取り憑かれていたかのようなここ数日の記憶を想起しようとするがデータが重すぎてなかなか読み込まない。忘れているわけではないが、思い出すエネルギーが出ない。
何か、とてつもなく大切な用事があった気がするのに、脳が働かない。
一度身を起こしたけれど、なぜだか頬と鼻がズキズキと痛かったので結局また横になった。俺の体重でベッドがギシッと音を立てる。
天井を見て、浮かぶのは幼いころの記憶。
最近はなぜ、こんなことばかり思い出すのだろう。俺が今までずっと無感情にゴミ捨て場に捨て通り過ぎてきていた悲しみや、むなしさ、憧れや怒りの感情がどこかにまとめて凍結されていたのを見せつけられているかのようだった。俺の中の誰かが大声で「さっさとそれを燃やしてしまえ」と叫んでいる。それを冷静に見ている俺もいる。
デパートの男性向け下着売り場。女の子がトランクスやボクサーパンツを履いたマネキンたちに囲まれてぽつんといて、泣きそうな顔をしている。
その日のその時間のことを再生しようとしたけれど、なぜだか今、続きが浮かばない。
だから思い出の中の彼女は、ずっと泣きそうな顔でそこに立っているままだった。
そこにいたはずの俺は、何か声をかけたはずだ。
脳内の物語の続きを見るためには何か声をかけなければいけない。
俺はあのとき、なんて言ったんだっけ。
そこにいた少年は俺とは別の人間に感じられた。俺よりよほどちゃんとしていて、まっすぐ前を見て立っている。
中華料理屋は、食事時の喧騒で溢れていて、そこで雪織が家族と食事をしていた。名前のなかったその少女が雪織千尋であることを、俺は今はもう知っている。
桜の花びらは吹雪のように散っていて、雪織は一枚の絵画のようにそこにいた。あの日の記憶も反芻する。
雷が鳴って、稲光りの中、呆然と俺を見ていた雪織の顔。
問題集を解いていく細くしなやかな指。時々こぼれた髪が頬に降りて、それをなにげない仕草で耳にかけていた。
人数分並ぶシチューは温かな湯気を立てている。
家族の団欒に呆れたように笑みをこぼす顔。
俺のイメージする雪織はどれも柔らかに幸せな少女だった。
生まれて初めて、心を揺さぶられた。その、曇りなき、汚れなき偶像こそが、俺の憧れの──────くだらない。
リアリティがない。現実的じゃない。
俺に必要がない。
そのとき、奥から扉の開く音がした。
2
「きょーすけー、殴られたってマジのマジー?」
声が聞こえて、衝立から顔を覗かせたのは戎宗太郎だった。
「おわ、派手にやったな」
「何しに来た……」
「お前が喧嘩なんて珍しいね。誰にやられたの?」
「…………べつに誰とも喧嘩なんてしてない。転んだだけだ」
「へー……」
宗太郎は口元に手をかぶせ、しばらく沈黙していたが、直後激しく噴出する音が聞こえた。見ると宗太郎が肩を震わせ、腹を押さえて大笑いしていた。
「…………帰れ」
「ぶふふふふふッ……いやだって、お前マジでガチで殴ってるじゃん! 頬骨の上あたり、アザになってるじゃん! ッブふぉっ、ぐ……バッ……! バカすぎるじゃんっ!!」
どうやら本当はおおかたの事情を知っていてしらじらしく声をかけていたらしい。宗太郎はひーと声を上げてベッドの端をバンバン叩きながら笑い続ける。完全に笑いに来ている。忌々しい。
「宗太郎……てめえが責任ある施錠をいち生徒にたびたびぶん投げてたのは監視カメラで確認すればすぐにわかることだ。クビになりたくなければ今すぐ帰れ」
「いやいや、悪い悪い」
そこまで言って宗太郎は涙を拭いてから腕組みをして、しみじみといった風に頷いた。
「いや僕、お前の年相応なところなんて初めて見たよ」
「……これは年相応の動きなのか?」
この混乱ぶりは我ながらその域を少し超えているような気がする。
「いやいやじゅーぶん若者らしさだよ。僕はね、前からお前はあんまり苦労背負い込まないでもっと若さを暴走させていいと思ってたんだよ」
「俺は背負い込んでなんて……」
「お前は普段から抑圧が強いからこういうときにそういうことになんの。わかる?」
「わからねえよ……」
「お前の場合クソ真面目とも少し違うよなぁ……お前、目的のためなら平気で法律犯せるタイプだもんな……」
「……何が言いたいんだよ…」
「いやだからさー……人生、効率重視してばっかじゃ楽しくねえだろ。もっと肩の力抜いて楽しめよ」
急に大人ぶった表情で言って肩を叩いてくるから、少し腹が立った。
「うるせえよ……」
「……お、ふてくされてる。珍しいなー。じゃあな骨も折れてなさそうだし、安心したわー」
言いたいことだけ言って勝手に安心して出ていった。
アレが大人とは思いたくないが、ある意味大人の身勝手さを体現したようなやつかもしれない。
やがてすぐ宗太郎が扉を出ていく音が聞こえた。
何しに来たんだあいつは……。
再び枕に頭を預け、完全に油断していたところだった。
「人見君?」
涼やかで甘やかな声が聞こえて衝立から雪織が顔を覗かせた。びっくりして瞬時に半身を起こす。
雪織は少し気まずそうにしていたけれど、そのままおずおずと俺のベッドの脇に移動してそおっと顔を覗き込んでくる。その顔は暴力的なまでに整っている。
「大丈夫だった? あ、アザになってない? ……すごく、痛そう……」
雪織が心配そうな顔をして、手を伸ばし俺の頬のあたりにそっと触れてくる。
そこで俺は唐突にはっきりと理解する。
何もかも、もう手遅れだった。
相変わらず、雪織と自分が関わる未来はまったくイメージすることができない。だから俺は、俺の中の美しい初恋をぶち壊そうとする衝動と闘っていた。そうしてそれはやはり壊したほうがいいのだと、改めて、そう実感した。
「触らないでくれ」
静かにそう言うと、雪織が怯えたように手を離し、その顔を見てまた後悔をする。
俺は──────やっぱり。
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