第25話 人見恭介と尾ひれ
1
朝が来た。
朝はいろんなものがクリアに見える。
夜に見えた幻や幽霊も見ていた夢も、朝がくれば溶けるように綺麗に消えてなくなる。
夏休み最後の夜にあった出会いはその後のあれこれで急速に色を失った。俺はなぜ夜に見た夢を現実だと錯覚しそうになっていたのだろう。
雪織千尋はきっと、兄弟の行った大学に行き、きちんと勉強をして就職する。どこかで出会った一流企業に勤めている家柄のいい青年と結婚して、幸せな家庭を作るだろう。あれだけ容姿に恵まれているのだからそれは容易く現実にできるはずだ。
たとえば俺と二人で、安いアパートで静かにボソボソ飯を食ってる未来はイメージできない。あり得ないとさえ思う。異なるふたつの世界線は、時空は交わらない。
だからといって俺が彼女の将来を考えて身を引いたとか、そんなことではない。そんな細かなことは考えてもいない。そもそも自分が彼女と未来を過ごす絵面なんて、何も浮かばないのだ。イメージができなかった。
夜が明けて、そのことに急に気がついた。現実が見えただけだ。
しなやかな猫族と食事をしていて、自分も猫族だと錯覚しそうになったが、自分がグリズリーとかハイエナとか、種族違いだったことに急に気がついた。
あるいはうっかり会ったアイドルと食事を共にしたが、翌日テレビに出てるのを見て冷静になったみたいなもんだ。
俺は俺の生活に戻り、彼女も元いた場所に戻る。顔見知りにはなったから挨拶はするけれど、未来はこれまで通り、それぞれ交わることのない生活が続く。
変化といえば、時々思い出していた桜の下で眠る彼女の映像に、中華屋でおいしそうに青椒肉絲を食べる彼女や自宅の玄関先で震える彼女の姿が混ざるようになったくらいだ。
俺はこのまま目指してる大学に行って、そこで生活をして、時々それを思い出すのだろう。
三、四年後までのシミュレーションはできても、もう少し先の未来となると、いまいち浮かばない。ただ、仕事は確実にしているだろう。
そのあと、俺は誰かと結婚をするのだろうか。
女性関係は、いい年齢になって持て余したら風俗にでも行くのだろうか。しかし俺は貧しさの記憶からそんな刹那的なものに金を注ぎ込める気がしない。かといって性欲のために面倒な関係性を構築する気もさらさらない。同じ理由で金を使う趣味に傾倒しているイメージも湧かない。未来の俺は何が楽しくて生きているのだろう。そんな、今まで考えたこともなかったようなことを考えた。
たとえば直也のやりたいことも好きな女も、おそらく将来への目的意識とは無関係にそこに在る。それらは、彼の芯の部分にしっかりと存在している。
直也が持っている『存在の輪郭』のようなものを、俺は所持していない。
目の前の道を作るのに懸命で、道を作っている俺自身の形成は見ることもしていなかった。
雪織と話したことで将来への揺るぎなかった目的意識への疑いが一瞬芽生えた。
俺は何なのだろう。
俺が求めているものはなんなのだろう。
俺は一体どこに行きたいのだろう。
そう考えはするが、頭のどこかに冷えた視線の自分がいて、その思考そのものがくだらないものだとそう言っている。
具体性のない展望や希望についてなんて、考える必要がない。思春期もモラトリアムも時間の無駄だ。感情で迷うことと頭で考えることは違う。
生きていくことは、まず、なんとか食っていくことだ。一部の人間に許された娯楽の追求だとかはできる環境ではない。全ての結論はもう出ているのだと。
だから俺はくだらない感情には蓋をして、いつも通りの生活に戻っていた。
雪織と会っても心が波打つことはなかった。
彼女は健康で、豊かで、明るい陽射しの下にいる。
俺は彼女と関係のない場所で、彼女の幸せを心から願っている。
朝が来る。
夜によく見えなくて形を見間違えていたものも、朝にははっきり見える。いろんなものがクリアに見える。
何度も何度も朝が来る。
2
そんな、なんでもない朝の教室だった。
「D組の雪織さんに彼氏ができたんだって!」
休み時間に近くの席で話す女子の、そんな声が耳に入ってきた。
俺は自分の席で目をつぶり、静かにしていたが、その一瞬ぴくりと肩が動いてしまった。
「え、あの超美人さんに? 相手誰?」
「それはまだわかんない」
「校内の人かな」
「……妻子持ちって噂もあるよ」
思わず勢いよくガタンと立ち上がった。
妻子持ち!?
なんだその聞き捨てならない話は。
立ち上がったはいいが、そのあとのアクションのやり場に困り、今起きたかのように頭をガリガリ掻いた。
女子たちは一瞬びっくりしたようにこちらを向いたが、すぐに元の話に戻る。
「なんか、妊娠させられてるって噂もあるんだよね……」
「えっ、妻子持ちに? 悲惨すぎる……」
聞き捨てならない……。
後ろの席で次の授業の準備をしていた女子が聞こえていたのだろう、話に割り込んでくる。
「雪織さん、あたしはまだ告白してないって聞いたよ」
「え、じゃあなんでだろ。妻子持ちの、避妊しない男に告ろうとしてるってことかな」
「うーん、話を総合するとそうなるね……」
「そうだよきっと!」
ますます聞き捨てならない。
雪織は、絶対に幸せな結婚をすべきなのだ。
生活に困ることがないのはもちろん、通常より豊かな暮らしの中、優しくて家事育児に積極的な人格者の夫とストレスを感じることもなく穏やかで笑いの絶えない家庭を育んでいく予定なのだ。子供は三人。みな聞き分けがよく賢くて優しい。
高校生にして妊娠して親とぶつかり合い、家を飛び出して酒場で働きながら育児をしてアル中になり、手首はためらい傷だらけ、酒に溺れる日々の中、ギャンブルに手を出し、しまいには借金だらけになって風俗に身を沈めてはならないのだ。
あの、西洋ファンタジー夫婦の守る賑やかな家庭はいつからか食卓の席がひとつ空いて、嬉しい話題、楽しい話題があったときにふと空いた席が目に入り、一瞬静かになるのなんて……あってはならない。
だから、その告白は絶対に阻止しなければならない。
扉をガラッと開けて入ってきた女子が近くに来て言う。
「新情報! 雪織さんの相手、組木直也だって! 妊娠について話してるの見てた人がいるって!」
脳天に向かって血液がグワっと上がった。
直也……あいつ………………絶対に許さん。
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