第23話 人見恭介と賑やかな食卓
1
先日も帰り際に見たが、雪織の家は豪邸とまではいかないが、広くて立派だった。築年数は古そうだったが都内にこの広さの一軒家があるだけでもそれなりの金持ちといえるだろう。
雪織家は七人家族。一番上が雪織の兄の
二番目が雪織の姉の
いかにも賑やかな弟の
母親はおっとりしていて、ざっくりした印象としては一番雪織と近い。そして父親はにこやかでほがらかな人だった。世間一般の父親のイメージより見た目は若く、いかにもモテそうだ。
西洋風ファンタジーの王子様とお姫様が幸せに暮しました、のあとの家族みたいで、中にいると自分が粗野なモンスターになったかのような気持ちになる。
彼らは俺が昔見た華やかな家族と印象は完全に一致していた。年齢も違うので確信まではいかないが、おそらくそうだろう。
まるで映画の中の幸せな家族だ。もちろんそこにも苦労や苦難は存在しているけれど、自分にとっては画面越しのようにどこか遠く感じられる。
「ちぃ姉が学校の男の人連れてくるなんて珍しいね」
「優香はしょっちゅう連れてきてたけどね」
「優姉は男の趣味悪かったけどなー」
「こら! あんたなんつうことを……」
わちゃわちゃしながらもみんなが自然に手伝って食事を食卓に並べていく。メニューはクリームシチューだった。大皿に山盛りに積まれたパンと、サラダを雪織が黙って取り分けていく。
「ウチのお鍋、地獄の釜みたいに大きいから、人見君もたくさんおかわりしてね」
雪織がそう言って俺の前にシチューの皿と、パンとサラダを並べてくれた。
パンの大皿の隣にはバターとジャムも種類がたくさん置いてあって、使わなくてもいいが、各々気分でつけたいものをつけて食べているようだ。家族の少ないわが家ではこんなことは絶対にできない。ジャムなんて買っても誰も食べずに余らせるだけだ。
ずっと賑やかではあるが、一番元気な弟でさえも「いただきます」の挨拶のときは一瞬真顔になって、手を合わせる。どこか品を感じる家庭だ。
俺はどこか馴染めないような居心地の悪さを感じながらも、温かいシチューをスプーンで掬った。
飲み込んだシチューは温かくて、素直に旨い。それを美味しく食べる人間がいることが当たり前に予定されている、気負いのない、気取る必要なく作られた味だった。
そういえば、こういう感じの家庭料理はずっと食べてなかったかもしれない。ここ数年は特に安い外食とコンビニの割合が増えていた。もともと母は料理が好きではない。
そう思ってしまったときに苦い気持ちになった。こんなことは思いたくない。母親の顔がチラつく。
よぎった感情は、こんなことで俺がみじめな気持ちになるのは、母親に対して申し訳ない、という気持ちに似ていた。けれど、実際は申し訳ないなんて殊勝なものではなく、もっと突き放したような攻撃的な気持ちだった。俺には他人の家庭のことなんて関係ない。
そう思って、くだらない思考を締め出した。
2
雪織家の食卓は、食事のあとも笑いが絶えなかった。見てると子どものころに読んだ、ネズミの大家族の絵本を思い出す。
弟が学校であったこと。妹がハマってるキャラクターグッズ。姉の友達の話。兄の職場の話。会話は昔の記憶にあるよりは子どもたちの年齢が成熟された分雑然さが薄れ、誰かが話しているときはそれを聞いて、みんなで合いの手を入れて、感想をこぼし声を上げて笑う。特に弟の虎鉄が茶々を入れて長女の優香がそれを諌める流れが多かった。
「いつも……毎日こんな感じ」
雪織が俺の顔を見て言って、少し呆れたように笑う。
彼女は幼いころから毎日、この家に帰ってきている。学校で何かあったら、家族に相談して、みんなで解決策を考えるような家庭だ。たとえば誰かと喧嘩しても、万が一いじめられたとしても、家族が全員で考えてくれる。直接的に何かできなかったとしても、いつも味方になってくれる。
嬉しいことがあったらみんなで喜び、一緒に大騒ぎしてくれる。そんな家族。
そう思ったとき、なんとなく意識が現実と乖離するような、妙な感覚に襲われた。
賑やかなパーティ会場で笑ってる途中で急に我に返ってしまったように。意識が弾き出されてしまった。
古いアパートの部屋が浮かぶ。
今の家ではなく、ずっと暮らしていた壊れかけの薄暗い木造のアパートだ。
夏は暑く冬は寒い。台風でベランダのトタン屋根が飛ばされたこともある。風呂場とトイレが特に汚くて、どこかからよく虫が入り込んでいた。天井の染みはずっと見てると何かの形のように見えてきた。
食卓にはコンビニのパンが置いてあった。あまり使われない茶碗は縁が欠けていた。母親は今の会社に入る前はアルバイトをかけもちしていて、俺が食べている間、疲れて寝ていることが多かった。
アパートの外には古臭いブロック塀があって、俺はたまにその上に乗って遠くを見ていた。大して遠くなんて見えもしないのに。いつも、あの先はどこに繋がっているのだろうと、ずっと見ていた。
母は酔っ払うとしきりに謝ってきて、俺はそれがたまらなく嫌だった。何も謝ることなんてないのに。やめてほしかった。謝ることは、俺をみじめにすることだ。俺は謝ってくる母親のことは、大嫌いだった。
もしかしたら一般的な子どもが留守番をできるようになる年齢よりは少し早く、母は夜勤を始めた。生活のため、仕方がなかった。
ひとりぼっちのアパートでは静かな夜、どこかの家から犬の吠え声がしていた。
あの犬がどこの家にいたのか、俺は知らずじまいだった。こっそり捜しにいったことはあるが、結局見つからなかった。
浮遊した思考はなかなか現実に戻せず、俺はしばらくぼんやりとしていた。
3
「雪織、ありがとな」
いとまを告げて玄関を出たときは亜空間から抜けたかのように、現実の夜の空が広がっていた。
「またね、学校で」
「ああ」
挨拶をして手を振った。手を振り返してくる雪織は、美しい人形みたいで、どこかリアリティがなかった。昨夜見たときはもう少し血肉が通っていた気がするのに。
少し湿った風を鼻先に感じて足を早める。
なぜ、こんな感覚になったのかはわからない。直也の家だって一軒家だし、ほかの友人の家に遊びにいったこともある。俺は一度だって自分の家を他人の家と比べたことなんてなかった。
それなのに俺は雪織の家と自分の家を、はっきりと比較した。
ただ、羨ましい、とは違う気がした。そんな感情は浮かばない。
ただ、黒い空を見て思う。
ああ、やっぱり、俺と彼女は住む世界が違う。
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