第22話 雪織千尋の夕暮れ




 誘ってしまった。

 昨晩と比べて昼間に不自由さを感じてしまい、妙な鬱憤が溜まっていたのかもしれない。


 人見君はごく自然に「うん。どこ寄ろうか……」と考えていた。だからわたしはまるで、それが変なことではなくて、当然のことのように感じられて、誇らしいような気持ちになった。


 しかし、誘っておきながら行く場所に困った。中学までは高校の方角とは反対側のエリアに通っていて、またそちらのほうが栄えていたので、そちらの駅周辺にばかり詳しくなった。高校と自宅の間はほぼ住宅街で面白みもないため、開拓が進んでいなかった。


 それでも、長く住んでいるので何があるかはだいたい把握している。車で行ったりして、場所が現在地と結びつかないだけで。


「あの、どこか神社の近くに河原に出る道があった気がする……んだけど」

「ああ、意外にあっち行かないよな。行ってみる?」


 うすらぼんやりした要望を伝えると、人見君がすぐに理解してくれた。





 人見君と、夕方の河川敷に来た。

 隣り合って座って、川の向こうに赤くとろけた陽が沈んでいくのを見ていたら幸福な気持ちになった。


「わたし、人見君とは初めて会った気がしなくて……」


 もうずっと前から好きだった気がする。やっと会えた。そんなふうに思う。実際に人見君がひとみちゃんなら、それもある意味正しい。


「俺も、前から知ってたみたいな気がする……ていうか、ちょっとだけど、前から知ってた」


 人見君がそう言ったからわたしは口元が緩むのを止められなかった。


「雪織の……好きなやつって彼氏?」

「彼氏なんていないよ……」

「じゃあ、あれは加藤を振るための方便だったのか?」


 アフロ……じゃなかった加藤君に言ったことを覚えていたらしい。もし彼氏がいたら、加藤君に追いかけまわされたことは、揉めごとに繋がるかもしれない。


「人見君て……結構世話焼きだよねぇ」

「……なんでそんな話になるんだ? 俺は対人はドライなほうだから、周りにもそう言われていると思うが……」

「ううん、そんなことないよぉ」


 人見君は乾燥冷血人間と言われているらしい。本人も他人に対してドライな認識をしているようなのだけれど、実のところ根は世話焼きな人間な気がしている。

 加藤君との会話を思い出しても結局放っておくことはせず、わたしのこともきちんと送ってくれた。彼の母との関係性を考えても、他人に対してというより、自己に対してドライなタイプに感じられる。


「……人見君は?」

「何が?」

「…………好きな子とか……彼女とか」

「いない……あ、いや……」

「んん? どっち?」

「彼女はいない」

「モテるのに?」

「誰がそんなことを……」

「人見君のお母さん」

「…………ああ」


 人見君が眉根を寄せた。


「あと、去年三年の先輩に好かれてたっていうのも聞いたな。委員会の仕事にかこつけて何度も会いに来てたって……なんの委員会だったの?」


 まったくそんな筋合いはないし、人見君に非はどこにもないのに、ちょっとぶすったれた感じの責めるような口調になってしまったのは反省している。なんでわたしはそのころの人見君を知らなかったんだろう。わたしの知らない彼にずっと迫っていた人がいた。

 昨日最初に聞いたときはこの上なくどうでもよかった情報が今こんなにも重要性を増している。


「俺は一年のころは風紀委員だった。……それで、ロッカーの鍵を頻繁に忘れる先輩がよく来ていた」

「……ふうん」


 ロッカーの鍵を忘れたとしても、わざわざ人見君に言うことではない。風紀委員はほかにもいるのだから。

 確かに同じクラスの委員に頼めという決まりはないから法の抜け道みたいなものかもしれない。彼もそれはわかって相手をしていたのだろう。上級生に断りにくいのを加味しても、やっぱり彼の根はお人好しなんだろう。


 わたしはそれ以上を聞ける立場でもないし、そっぽを向いて黙った。そのとき無造作に動かしたわたしの小指と、人見君の小指が重なって、そこから電流が流れたみたいにぞくぞくして、ドキドキした。


 わざわざどけるのも、意識してるかのようだし、気づいてないふうを装う。人見君とは反対側の、河川敷の先の道を見て、夜の灯がさっきよりわずかに増えているのを確認した。


 でも、人見君が気づいたのか、そこから手を動かしてしまう。

 小さな落胆のあとすぐ、わたしの手の甲の上に、人見君の手がそっと被された。


 驚いて人見君を見ると、横目でこちらを見て口元で笑った。


 なにこの人。ものすごい女たらしかもしれない……。そう思って困惑する心と、こんなことで、さっき感じた拗ねたような尖った気持ちが丸くなっていく。

 わたしの手は人見君の手が上にあると、完全に見えなくなってしまう。


 意趣返しにそこからまた動かして、手を繋いでみた。今度は人見君が少し目を見開いて、こちらを見た気配がした。わたしはとてもそちらを見れなかった。心臓がとんでもなくバクバクしている。こっそり深呼吸しようとしたけど、どことなく荒い短い息が往復しただけだった。酸素が薄い。


 顔面の温度が高くて、おでこが汗ばんできた。そこに夜風が吹いてほんの少し頭が冷える。


「……人見君、手大きいね」

「うん。昔から手と足はでかかったから、そのうち背も伸びるって言われてたな」

「伸びたんだね……」


 デパートで会ったひとみちゃんはわたしと同じくらいか、少し小さいくらいだったと思う。今は明らかに平均より高い。骨太な感じも手伝って、絶対に女子には見えない。


「まぁ、俺自身はべつに何も変わらないけど……無駄に絡まれなくなったのはよかったな」

「うん……」


 日がとっぷりと沈んでしまったころ、人見君が立ち上がった。


「そろそろ帰るか」

「うん。人見君は夕ご飯何食べるの?」

「俺は……今日はコンビニ寄って弁当でも買うかな」


 どうやら今日も人見君のお母さんは遅いらしい。


「……うちに来ない?」

「…………へっ?」

「うち人数多いからひとり増えてもあんま変わらないんだよね。行こう」


 さすがに急だし遠慮されるかな、なんて思いながら歩いていたけれど、幸い特に固辞する声は聞こえてこなかった。だから早足でさっさと自宅に向かって進む。


「雪織」

「えっ」

「家……そっちじゃないと思う」





 玄関前で中学の制服を着た弟の虎鉄こてつに遭遇した。


「んあッ! ちぃ姉、誰それ!」

「同じ学校の人見君……挨拶して」

「そ、そうか! あっ、こんにちは! 俺は雪織虎鉄です! 中学二年生ですー!」


 小鉄は慌ただしくぺこりと頭を下げて玄関に入った。中からドタドタ音声が聞こえてくる。


「母さん母さん! 大変だ! ちぃ姉がイケメン連れてきた!」

「えー! 梨花りんかも見たい見たい!」

「いらっしゃい〜。もうできるから座っててね」


 かくして人見君はわが家のどでかいローテーブルのわたしの隣に収まった。


「こんばんは〜。千尋の姉の優香ゆうかです」


 いつも呼ぶまで部屋にこもっているお姉ちゃんがしれっと現れた。聞こえていたのだろう。すでに半笑いでニヤついている。


「ただいまあ」と玄関から声が聞こえて虎鉄がいち早くドダドタそちらに向かった。


「お父さん……あっ! 兄ちゃんもいるっ」

「そこでバッタリ会ったんだよ。な?」

「うん。なに大騒ぎしてんの虎鉄は」

「聞いてくれよ! ちぃ姉が! 男つれてきたんだよ! イケメンだよイケメン!」

「へえ。何系?」

「えーっと……いや見ればわかるし! 早く早く!」


 大はしゃぎしている弟にお母さんが檄を飛ばす。


「虎鉄は着替えてきなさーい」

「はあい」


 兄と姉はいない日も多い。今日に限って全員集合だ。


 ほどなくして食卓は誰が何を言ってるのかわからない感じに賑やかになった。


「千尋、運ぶの手伝ってー」

 お母さんに台所に呼ばれる。横に行って小声で伝える。

「人見君はすごく勉強ができるんだけど、実は昨日宿題を手伝ってもらったの」

「え、彼頭脳派なの? 体つき肉体系だけど……まぁ確かに顔は知性的だもんな」


 いつの間にか背後にいたお兄ちゃんがスーツのままニヤニヤしながら口を挟んでくる。


 お皿を持って居間に戻ると梨花が人見君の隣に座って「ねえねえ、人見君はちぃ姉と付き合ってるんですか?」などと遠慮のない質問をぶつけていた。


「こら、梨花、そういうのは微妙なことなんだから向こうから言われるまでは聞かないのー」


 お姉ちゃんが制止を入れて、全員食卓についた。


 人見君は家に着いたときからどこかぼんやりしていたけれど、思い出したようにわたしの顔を見て小さく笑ってくれた。



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