第20話 雪織千尋の再会




 九月一日。昨日と変わらない朝がきた。

 帰宅してからもなかなか眠れなかったので、睡眠時間は短い。それでもぎゅっと凝縮された眠りを得たためか、昨日のことは長い夢だったような気がする。


 いや、本当に夢だったらどうしよう。

 ベッドから起き上がり、目をゴシゴシ擦っていると、昨日人見君に借りたTシャツが視界の端に見えて、途端に心臓がびくっと揺れた。


「お母さんおはよー!」

「千尋、めずらしく朝から元気ね。よく寝れたの?」

「うん。パン食べる」

「ちぃ姉が朝からそんなテンション高いなんて……さては、宿題終わってないなー」

「今日提出分は終わってる」

「あら! よかった! あなた勉強できるのに、いつもテストに名前書き忘れたり、テスト範囲間違えたりしてるじゃない? 昨日忘れたって言ってたから、てっきり一式かと思って心配してたけど、少しは家にあって進めてたのね。無事に出せそうでよかったわ」

「まだ全部は終わってない」

「あらそうなの?」


 お母さんと話していてもどこかうわの空になってしまう。早く学校に行きたい。行って、確かめたい。





 着いてすぐ、体育館で退屈な始業式。それでも、久しぶりに集まる面々はそれぞれ懐かしくも新鮮だった。


 つい、A組の列に目がいってしまう。

 とはいえわたしはD組だし、出席番号順に並んでいて、後ろのほうなので、ここから見ても後ろ頭ばかりでよくわからなかった。


 いなかったらどうしよう。

 殺人鬼の“カトウ“も、助けてくれた人見君も、みんな昨日わたしが見た夢で、存在しなかったりして。


 式が終わり、解散となり生徒は教室へとはけた。

 昨日借りたTシャツは時間的にまだ洗濯できてない。明日、アイロンをかけて持って訪ねようかな。でも、今日、本当にいるのかだけでも確認したい。

 ぼんやり廊下を歩いていると、背中に声がかけられた。


「あのっ」


 振り向くと大きなアフロの男子生徒がそこにいた。そのシルエットに強い既視感が走り脳が揺れる。


「一目見たときから好きでしたっ! オレとっ! 付き合ってください!」

「ごめんなさい」


 頭を下げて一言告げ、すばやく目的地へと向かう。


 A組の、おそらく彼のロッカー前にいる人見君を見つけた。


 見た瞬間足が動かなくなった。

 昨晩夜の校舎で初めて認識した幻みたいな人は実在した。朝見てもかっこいい。神々しい。


 人見君はロッカーに物を入れていた。わたしを見て小さく口を開けて「おっ」というような顔をしたので、小さく手を振った。口元が自然に緩んでしまう。


「まっ、まっでくでぇー!!」


 ドタドタとした音と共に背中のほうからアフロの男子生徒がおいかけてきた。わたしの前まで来てぴたりと静止する。


「とっ……友達からお願いします!!」


 古典的に、頭を下げて手を出すポーズをされた。

 付き合ってくださいはバッサリいけるけれども、友達の申し込みは少し断りにくい。でも、友達「から」って、先を想定した言葉だしなぁ。そう思って考え込んでいると、人見君がわたしの前に出て、男子生徒の差し出した手をギュッと握った。


「うわぁ! 雪織ちゃんの手、思ったよりゴツゴツして大きいんだね!」


 満面の笑みを浮かべたアフロ君が顔を上げて人見君を確認して顔をしかめた。


「なんだよ人見ィ! どけ! オレはやっと見つけたんだぞ! 運命の相手ってやつを!」

「加藤……諦めろ。脈はない」

「痛い痛いっ、この手を離せ! お前はなんなんだ!」

「俺はただ、ものすごく困っている女子生徒を放っておけないだけだ……」

「どう見てもそんなに困ってないでしょ!? ほら! ニコニコしてるしぃ!」


 いけない。人見君が王子様みたいで、ついニコニコしてしまった。

 精一杯困った顔を浮かべることにした。振り解いて確認した人見君が「やっぱり困ってる」と言い頷いた。


「オレのこと、少しでも知ってからでもよくない?」

「わたし……」


 わたしは唐突に浮かんだ、今まで使ったことのない断り文句をぽろんと出した。


「好きな人がいるんです。ごめんなさい」


 アフロ君が口を大きく上げて白目がちになり、人見君がびっくりした顔でわたしを見た。

 近くを歩いていた女子と、教室の扉付近にいた男子がほぼ同時に、一瞬だけちらっとわたしを見て、驚いた顔をした。


 どこにいたのか美和子がシュタタと走ってきて、わたしを廊下の端に押してくる。


「あれ、おはよう美和子」

「ちょっと、なになに〜? 今の、聞こえたよ」

「美和子……人様のプライバシーをごはんの美味しいおかずにしないでね。友達でしょ?」

「うっ……友達だけど……友達だから気になるしっ! わたしの血が騒ぐんだよぉっ、ていうか昨日会ったときぜんぜんそんな話なかったのに……隠してたの?」

「美和子と会ったときは本当に何もなかったもん」


 わたしが美和子と話している背後で人見君が加藤君に声をかけているのが聞こえる。


「加藤、今日はお前の残念会が用意されてるらしいから、そこで思い切り泣くといい」

「えっ、まだまだ振られてないうちからそんなの準備されてたのか?」

「もともとは通算百回振られ記念の残念会だったんだよ。それが百一回目に変わるだけだ。気にするな」


 唐突に、昨日の東校舎での声を思い出す。


『百人……百人だよ……俺がこ……した女子』


 百人というのは、こくはくした女子のことだったらしい。夜の中では不可解だったものの正体も、白日の下にはこんなものだ。


 でも、朝になっても、昼になっても変わらないものがわたしの中にあった。


 ホームルームの時間が近づいて、教室に戻ったあとも、さっきの人見君の顔が、声が、ちゃんとそこに在ったことがすごく嬉しかった。

 昨日の夕方までのわたしはこんなに身近にいた彼のことをなぜ知らなかったのだろう。ものすごく損をしていた気がする。


 でも、知り合いはしたけれど、友達と呼べるのかはまだ疑問だ。顔見知りになったし、会えば話はできると思うけど、クラス違うし、わざわざ会いに行って話すほどの親しさかと言われると、微妙なところだ。


 わたしと彼は昼間はまだ、話せないんだろうか。夜、二人だけでいたときに存在していた親密な空気が周りに人がいる昼間には決定的に変わってしまうのを感じて歯痒い。





 ホームルームのあと、美和子が近くに来て言う。


「千尋、宿題出してた?」

「うん」

「マジで? 今日提出分結構重くなかった? あの問題集を初日に提出させるとか、みんな柴山鬼畜って言ってたじゃん」

「昨日やったもん」

「千尋、どうしちゃったの?」

「失礼だなあ」

「ちゃんと名前書いた?」

「……書いてない」


 走って職員室に行った。


「先生! さっき出した問題集、名前を書かせてください!」


 わたしを見た柴山先生は目をカッと見開いた。


「ゆ〜き〜おり〜! お前はどーしてどーしていつもそうなんだ! お前の人生はその雑さと迂闊さで大きく損をしているんだぞ! 早く捜して書きなさい!」


「はい! あ、これかな……」


 名前がない問題集を見つけて名前を書こうとすると柴山先生が言う。


「一応中も確認しろ」

「はい」


 パラパラと中の筆跡を確認する。


「ちゃんとお前のだったか?」

「違いました!」


 もう少し下にもう一冊、無記名のものを見つけた。そちらをめくる。


「こっちでした……てへ」

「ゆーきーおーりー! お前は一年の期末テストで回答欄を一個ずつズレて書き込むミスがなければ特進クラスだったんだぞ!!」


 特進……A組だったのか。べつにいいやと思っていたけど今となっては悔やまれる。わたしと人見君の人生はつくづくずっとニアミスですれ違っていたのだなと思う。


 教室に戻ると美和子がまだ残っていた。

 わたしの前の席に座って顔を近づけてくる。


「で、千尋の好きな人って誰? 嘘じゃないんでしょ?」


 美和子は友達だし、教えてあげたい気持ちもあるのだけれど、いかんせん血に植えられたジャーナリスト魂が怖すぎる。美和子の家はお父さんもお姉ちゃんも記者なのだ。しかも姉はゴシップライターときている。


 ぽろりと名前を出した日には悪気なく学年中に広まって本人に迷惑がかかる可能性がある。

 それに、詳細に関して話せば百合川さんと組木君の話にも触れることになる。

 組木君と百合川さんはひっそりと愛をはぐくんでいた。言えるものなら言いたいだろうからそれは周囲に知られたときにあまりいいことにならないからだろう。


「……どこで会った人かは、関係ない人のプライバシーに触るから、ちょっと言えない」

「じゃあ詳細はいいよ! 相手! 相手だけでいいよ! 歯茎食いしばって血出しながら我慢するからさぁ!」

「広められると相手に迷惑かかるでしょ」

「聞いてた? わたし血反吐吐いて我慢するって……! ん? 広まって迷惑がかかるってことは……学校の人なの?」


 さすがゴシップライターの血。鋭い。


「やっぱりまだ言えないかなぁ……」

「えぇぇー! 知りたいよぉぉー」


 美和子が大げさに机に体をバサーと伏せたそのとき、扉のところに人見君が現れた。


「雪織」


 わたしの名前を呼んだので肉体が出せる最大の反射速度で立ち上がり、扉まで行った。


「雪織、今夜、予定あったりする?」

「……ない何もない」

「そしたら、ちょっと付き合ってくれないか」

「いいよ。どこに?」

「直也の家」

「うん行く」


 人見君はそこから声を落とした。


「実は、昨日帰りに、百合川の家に寄ってみたんだよ」


 百合川さんは今日も当然来ていなかった。彼女の家は噂では空き家になっている。


「そうしたら、もう一通出てきた」


 びっくりして口を半開きにした。まだあったんだ。何がしたいのかよくわからない。


 数秒後、さらにはっと気づいて、美和子を見た。忘れていた。

 美和子は両手でありもしない望遠鏡を構えるようにしてこちらを見ていた。


「ちょっと人見君、移動しよう」


 背中を押して渡り廊下まで来た。


「ごめんね。さっき教室にいた子……美和子は悪い子じゃないんだけど、好奇心が異常に旺盛で、すぐ人と人を噂にさせたりするところがあるんだ」

「丹下なら一年のころ同じクラスだったから知ってる。そのころからそうだったよ」

「え、あ、知ってたんだ……そしたらごめん、わたしはいいんだけど、人見君に迷惑かかっちゃうかも」

「迷惑?」

「うん……そのー、今日あのアフロの人に好きな人いるって言って断っちゃったから、すごく気になってるみたいで……今話してるとこ見られると迷惑かかるかもしれなくて」

「べつに、俺は人からどう見られようが、気にしない」


 人見君はどこかムスッとした顔で言い切ったあと、思い出したように話を切り替えた。


「夕方……五時ごろ待ち合わせて、直也の家に一緒に行く。大丈夫?」

「うん」

「待ち合わせ、どこがいいかな。雪織のよく知ってる場所がいいと思って」


 わたしが少し方向音痴だということをしっかり覚えてくれていたらしい。


「あ……そうだね。そしたら、ここがいい」

「え?」

「学校がいいな。五時にD組の教室で」

「了解」


 二夜連続で会える。夢のようだ。

 新しく来る夜が楽しみでならない。


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