第19話 人見恭介の寄り道
1
雪織を無事に自宅に送り届けた俺は、自宅への道を歩いていた。
不思議な夜だった。
昔、中華屋で一度見かけただけの女の子。それから、もっと前デパートで迷っていた子。そして、桜が舞う中、眠っていた子。記憶の中のバラバラの断片が、すべて同じ、雪織千尋というひとりの人間の形と名前を得て、俺の前に現れた。
さっきまでの密度の高い夜の記憶は、記憶の貯蔵庫に格納され、十年前や三ヶ月前のものと混ざり合い、雪織とはもう昔からの知り合いのような感覚だった。
眠い時間を通り越してしまったのか、目が冴えて仕方がない。何か、自分の中で形のない変化があったような気がする。頭がスッキリとしていてよく動いている。もう少し歩いて帰ろう。
2
明け方。空が白みがかってきた。終わりかけの夏の朝の気配がすぐ近くまで来ていた。長かった夜が終わる。
ふと思い出す。確かこの付近には百合川鞠奈の家があったはずだ。百合川が家族ごと消えてから、直也はたまに見にいっていたようだった。どうせ寄り道ついでだ。通っていくことにする。
その思いつきは本当になんとなくだった。
記憶を頼りに適当に歩いていると、すぐにそれは現れた。
百合川の自宅はなかなか大きい。白くて馬鹿でかい門の奥の奥にやっと玄関が見える。
庭の草は夏に高く背を伸ばしていた。
夏休みの終盤に百合川の一家が姿を消してからまだそんなに経っていない。けれど、人の住まない大きな家は急速に生気を失い、すでにどこか廃墟めいてきていた。
ポストには溢れるほど手紙が詰め込まれていて、いくつかは諦めたように路上に落ちていた。
ふと、ポストの口から伸ばした舌のようになっている封筒が気になった。
薄いピンクに、百合の花があしらわれたデザインの封筒。既視感がある。手に取ると、夜に見たものと寸分違わず同じ封筒だった。宛名はない。切手も貼ってなかった。
俺はその封筒をポケットに入れてその場を後にした。
3
戻ってきた組木家の玄関前でスマホを操作する。
まだ起きているはずのない時間なのに、直也はものすごい早さで電話に出た。
「もッ……もしもし?」
「今から出てこれるか?」
「……なんだ恭介か……おやすみ」
「無言電話じゃなくて悪かったな。起きろ」
「えー、今何時だと思ってんの……」
「いいから」
三十秒後、眠たげな顔の直也がスマホを耳に当てたまま玄関から出てきた。俺の顔を見てでかいあくびをしながらスマホをしまう。
俺はつい先程見つけた封筒を取り出した。
「これを見ろよ」
「なにそれ……どこで」
「百合川の家のポストだ。お前の彼女は本当にまだるっこしいやつだな……」
「鞠ちゃんが……?」
「宛名はないし、中は開けてないから本当にそうかはわからないが……封筒が同じだから持ってきた」
直也はしばらくその封筒を空に翳すようにして見た。けれど、夜明けの弱々しい光はそんなものの中までは透かしてくれるはずもない。
「お前は……百合川のどこがそんなによかったんだ?」
俺が直也に考えていることを聞くのはもしかしたら初めてかもしれない。俺と直也の関係は兄弟と似ている。いつも目の前の話題しか話さない。深い心のうちを話す必要はないし、そんなのはどこか気恥ずかしい。
直也も同じなのか、数秒珍しいものを見るかのような顔で俺をみていた。やがて、ため息をひとつ吐いてから口を開く。
「どこがよかったかなんて、わからない。最初は教室で目立っている子がおれのことを意識してくれたのが嬉しかったんだと思う」
「……へ?」
思わず小さく声に出して驚くと、じとっとした目で睨まれた。
「おれは恭介と違ってヒエラルキーが低いからね……そんなことで嬉しくなってしまうんだよ」
「お前な……いちいち俺と比べる理由はないだろ」
そう言うと直也は少し考え込んだ。
「ああ……確かに、昔は恭介と比べたりしてなかったな。ほら、うちは兄貴が異様にできがよかったから、もともとはずっと兄貴に対してコンプレックスを持ってたんだよね……なんでだろ」
直也の家には兄がいる。大学進学で今はもう家を出ているが、直也の言う通り昔から優秀な人だった。
直也が言うにはその大きな差は寝返り、発語の速さからすでに始まっていたらしく、彼の兄は文武両道なため、受験の際はスポーツ推薦と一般で入る超難関大学どちらにしようかで悩んだらしい。見た目も直也が小柄で柔和な母親似なのに対し、彼の兄は若干のいかつさ凛々しさがある父親似で、兄弟といえどその印象はだいぶ違う。
もしかしたら優秀な者と無意識に比較され、また自ら比較してしまう中、身近にいるチビでヒョロヒョロの俺は直也にとって救いだったのかもしれない。家の中では劣っていても、外に出れば自分より下がいる。そう思っていつも安心していた。しかし、それが崩れたときに再び懐かしい劣等感が刺激された。そんなところだろう。
しかし、直也はずっと、劣等感やコンプレックスといった世俗的な感情とは無縁なタイプに見えていた。いや必死に見せようとしていたのであろう彼が隠し持つそれの強さには少し驚いた。
「直也、お前……」
「……なに」
「すげえ見栄っ張りでコンプレックス強い人間だったんだな……」
「……そうだよ。他の人間と同じようにしているのにいつも結果だけが違うことで捻くれていったんだ……」
こんなガキくさい物言いをすること自体が珍しい。ちょっと笑いそうになったがこらえた。
「鞠ちゃんに対しては……最初はほんの少し反発心みたいなものもあったんだけど……」
「反発心て、何に対してだよ?」
「クラスの中央にいる女子に簡単に陥落してしまうことに対しての……プライドみたいなやつ」
こいつ、面倒くせえな……。思ったがそこは口に出さなかった。同時に少し面白味も感じた。こいつはこんな奴だったのか。
「でも鞠ちゃんはそんなのぜんぜん気にしてなくて……すごく一生懸命仲良くなろうとしてくれたから。おれはすぐに馬鹿馬鹿しくなった。……彼女といると、本当にいろんなことが馬鹿馬鹿しくなる。……たぶん恭介にはわからないだろうけどね」
直也がどこか諦めたような口調で言ってくる。
「いや、よかったなと思うし……少しわかるよ」
数秒考えて口にした感想に、直也が目を大きく見開いた。
百合川鞠奈という存在が、直也の存在に大きく影響を与えたことは間違いのないことだった。
数時間前までの俺なら、心底呆れていたかもしれない。自分の価値は自分が持ってさえいればいい。他人に左右されるなんてあり得ない。たかが恋愛。女ひとりにそんな大事な部分を依存するなんて馬鹿らしい。
あるいは、俺がそう思うことなんて直也はよく知っていて、だから開き直ったような口調だったのかもしれない。
けれど、今はなんとなく、よかったなと思える。
卑屈なひねくれ者が、可愛い女の子に好かれただけであっけなく自己を肯定できるなんて、単純で好ましいことじゃないか。気持ちが少しわかる気がしてくる。
「恭介……頭でも打った?」
言いながら封筒を俺に戻してくる。
「ん……? これ、お前のだろ」
「あぁ、そうだったか」
どことなく歯切れ悪く手を出してくるので、また封筒を渡した。
「恭介……これ、なんだと思う?」
「知らね」
「そう言うと思ったけどさ……」
「開けないのか?」
「…………あとにしようかな」
「……何ビビってんだよ……ただの文字だろ」
「恭介やっぱ人の心ないわ……」
直也は封筒を空に透かせたが、結局それを開けることはしなかった。
そうして、気がついたときには、長い夜が完全に終わっていた。
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