第15話 人見恭介の未来



 俺の母はスラッとした高身長もあいまってか普段、どこか陰のあるクールな印象の人だった。声をあらげることも大笑いすることもそうない。温度が変わりにくい人だった。


 それが今……ものすごく喜んでいた。浮かれてると言い換えてもいい。


 俺にそうと悟られないように平静を装っているようだが、いつもより早口だし、ほんの少し声が高い。口角は緩みまくっている。息子が女子といたくらいで、何がそんなに楽しいのだ。


 俺は自分の家庭や母親を恥じたことはない。

 母子家庭で、裕福ではないことから多少の不便があったり、他人から少しの侮蔑は感じたことがあるかもしれない。でも、それは母親や家庭を厭うたり恥じることには繋がらない。俺は昔からわりと、そこら辺の事情を肌で理解していた。


 俺には思春期がないのだと思っていた。


 それなのに、今、浮かれた感じの母親と話しているのを雪織に見られるのがものすごく恥ずかしいのはなぜだ。

 学校では保護者の存在はない。だから皆、個なのに、自分だけ保護者といるのが格好悪いと感じるのだ。知った顔で俺を語る母親に苛立ちを感じていた。ひとりの男ではなく、保護されていることが浮き彫りにされているからだろうか。今俺は一陣の風のようにこの場を去りたい。


「……恭介はほら、雑でしょ。でも悪気はないのよ……? もしかしたら冷たく感じることがあるかもしれないけど……」

「母さん!」


 矢継ぎ早に捲し立てる母に、思わず普段出さない音量の声を上げてしまった。母がぽかんとした顔をした。音を下げてなるべく冷静に、静かに言う。


「本当に……まだそういうんじゃないから……やめてくれ」


 言った直後に気づく。『まだ』ってなんだ。『まだ』って。まったくもって冷静になれていない。

 俺の脳内に自分の頭が点火して勢いよく爆ぜているイメージが過った。俺は今、どうにかして姿を消したい。


「そ……そうなんです! まだ……そういうんじゃ」


 雪織がしどろもどろになりながらそう言うので、目を見張った。


「……えっ? あっ! わわあぁ〜っ! い、いえ、その、本当に! なんでもないんです!」


 慌てた顔で手のひらを横に超速でブンブン振る雪織は……可愛かった。ほかに感想はない。


「母さん、もう遅い……ってレベルの時間じゃないし、俺は雪織送ってから戻るから」

「あ、そうね! ちゃんとお家の前まで送り届けるのよ」

「言われなくてもそうする」

「じゃあね。あとでちゃんと話そうね」

「……ああ」


『あとでちゃんと話そう』は昔から母の口癖だ。しかし、ほとんどは果たされることのない約束だ。今日だって俺が帰るころ母は寝ているし、俺が起きるころ母は出かけるだろう。


「じゃあ、おやすみ」

「おやすみ」


 簡素な挨拶をして、雪織の背を押して母と別れた。





 住宅街の脇の道は静かだ。

 ひたひたと響く足音は夜に吸い込まれ、影がふたつ歩いているかのように静かで小さかった。雪織と二人だけしかいない夜の世界を歩いているかのような気がしてくる。


 とりあえず、彼女の最寄り駅の方向に向かって歩いていた。


 雪織が辺りを見渡し言う。


「あの鉄塔があっちに見えるから、あっちだと思う」


 にこにこしながら頷き、指を差すので、そちらへ向かった。


 道路は雨上がりの空気の匂いがしている。

 たまに頭上の木や電柱から大きな雨粒が落ちて、ボツンと頭に当たる。音のしない夜だった。


「俺、目指してる大学があって……」

「え、もうあるの?」

「雪織はない?」

「まだぜんぜん……でもたぶんお兄ちゃんとお姉ちゃんが行ったところを受ける気がする」

「そこが行きたいところなのか?」


 聞くと雪織はちょっと苦笑いをしてみせた。


「ううん。違うの……身内が先に行ってるところはなんとなく安心感があるってだけ。高校もそうだし……」


 雪織はどこかきまりが悪そうに下を向いてブツブツとそう言うと大きな目をこちらに向けた。


「人見君の行きたい大学って?」


 聞かれて大学の名前を言ったが、雪織はよく知らないようだった。


「なんでそこなの? どんなとこ?」

「将来自衛官になる人間が行く大学。学費がかからないし……在学中に給料も出る。まぁ……すげー厳しいらしいけど」

「ほう……すごいね」

「でもあんまりいい顔されないんだよな」

「お母さんに反対されてるの?」

「……はっきりそうとは言われないけど……」

「あぁ……」

「全寮制だし、生活費もかからない。就職先まで決まるし、いいと思ったんだけどな……」

「反対するの……少しわかる気がする」

「……えっ?」

「えっ、あ、ごめん。なんとなく……」


 何度考えても、母に不都合はないはずだった。離れて暮らすことになるけれど、今だって生活はほぼすれ違いだ。経済的に楽になれば、休日に会うことも可能になる。


「雪織は……なんでだと思う?」

「え……そりゃあ……」


 雪織は首をすくめて、小声でどこか申し訳なさそうにぼそぼそと言う。


「その……それが人見君の本当に行きたい大学ならいいけど……人見君自身のやりたいこととは違う気がするから」

「…………ああ」


 思い返せば母にも、直也にも似たことは何度か言われていた気がする。もしかしたら誰でも思うことなのかもしれない。けれど、誰に言われても聞き流していた。今、雪織に言われてそのことにすとんと気づいた。


「それに、親子であんまり気を遣われるのも、悲しいと思う」

「あんまり、そんな意識ないけどな……」


 気を遣っているつもりはなかった。俺はただ、家計の事情を考えてごく当たり前の選択肢を出しただけだ。


「人見君には、夢とかないの?」

「……ないな」

「ないのかぁ」


 俺には夢がない。半面、ある程度現実的な目的意識は存在している。夢は自然に見つけられるやつが持てばいいもので、無理に探すものではないと、俺は思う。モラトリアムも思春期も時間の無駄だ。


 会話は沈黙に飲み込まれるよう尻すぼみに終わって、ひたひたと夜の中を歩いていると、時間や場所の感覚が薄くなっていく。夜の空は広大で丸い。


「いつも選ばない道、楽しい……」


 半ば思考に沈んでいて、雪織のぽそりとこぼした声に引き戻される。


「え……?」

「うん。わたし、ちょっと方向音痴だから、普段はなるべく同じ道通るようにしてるんだけど、さっきの道、新鮮で楽しかった」


 雪織は本物の道の話をしていたらしい。

 俺は普段、行き先の方向だけ確認して、なるべく車通りの少ない道を歩く癖があるだけで、あまり考えていなかった。思わぬところに楽しみを発見している彼女に、憧憬に似た感情が湧いた。


 将来自分の行くべき道に関して、楽しさなんて考えたことがなかった。そんなものを思考に加味したことはない。俺は、一番効率的で無駄のない道を選ぶ。楽しさが無価値とは思わないが、それはどこでだって見つけられるものだ。


「雪織は将来の夢、何かある?」

「……具体的な目標はないけど。どこか大学は行きたいのと、いつか結婚はしたい」

「遠いな……」

「組木君は、小説家になるのかな……」

「あぁ……」


 そうだ。結局そこだ。

 やるべきことや、家族のこと。何の都合もなく、なんとなく自然に選んでいた場合、俺には何かあったろうか。何もない気がする。たとえば、そんな大きなものでなくても、未来への希望。自らが望むビジョン。ぼんやりとしたものでも。


 隣で空を見たり樹々を見たりしながら歩く雪織は、歩くことそのものを楽しんでいるかのようだった。夜の空気を吸うことにさえ、新鮮な喜びを見出せるような瞳をしている。

 その姿を見ていたら、頭に少し何かが浮かびそうになったけれど、つっかえたようにその先には進まず、俺は結局そこで思考を放棄した。


 見上げた空には深く、吸い込まれるような夜が広がっていた。


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