第14話 雪織千尋の問題集




 人見君を浴室に押しやってから、わたしは畳敷の部屋のローテーブルの前に座り頭を抱えていた。


 今日初めて話した同級生の家でお風呂を借りるなんてどうかしてる。そうは思いつつも、あのとき人見君が心配してくれて、どこかそれが自然というか、そうするべきと思ってしまった。


 幸い下着やスカートはそこまでぐっしょりではなかった。一番被害が大きかったのがシャツと靴下、あと靴だ。


 時刻は九時半をまわったところだった。

 誰もいない部屋で、壁の時計の秒針が、かち、かち、と時を刻んでいくのを見ながらリュックを開ける。返し忘れていたノコギリを発見した。

 それを無視して宿題を取り出した。問題集はビニールに入っていて、もらってから開けていないので無傷だった。

 開封して分厚いそれを手に取りパラパラとめくっていると、人見君がものすごい早さでお風呂から出てきた。


 自分の髪の毛を乱暴にワシワシ拭いている。わたしの髪を拭いていたときと力強さがぜんぜん違う。

 湯上がりだ……。湯上がりもキラキラしてる。


「なんか飲む?」


 見ているだけで喉の奥がカラカラになったので素直に「うん」と頷いた。


 しばらくしてキッチンに行った人見君が「悪い。麦茶しかなかった」と言って戻ってきた。目の前にことりと置いてくれる。


「ありがとう」


 短い髪の毛はまだ濡れていた。なんだか見ているだけで背中がぞくぞくするような、罪悪感に似た感情が湧いて、目を逸らす。出された麦茶をゴクゴク飲んだ。冷たくて、落ち着く。





 わたしと人見君は、小さなローテーブルを挟んで座っていた。


 宿題はまず提出期限の近いものから。そう思って問題集を並べる。英語と数学。比較的得意な英語から広げた。


 これをやっているうちはここにいられる。そんなことを思いながらペンを構えた。


 シャーペンを滑らせていく。最初は状況に緊張していたが、そのうち集中してしまう。ときどきふっと見慣れない部屋の内装が視界にはいるたび、わたしは何をやっているんだろうと不思議な気持ちになる。


 片手で頬杖をつき、横目でこちらを見ていた人見君がふいに声をかけてくる。


「英語……得意なの?」

「え?」

「いや、結構いいペースだから……」

「うん……数学よりは」

「そしたら、数学からやるといい」

「……なんで?」

「今なら苦手なとこは俺が教えられるし……最悪間に合いそうになければ今回は写せばいい」


 そう言われて数学の問題集を出した。改めて手に取っただけで嫌気がさす。それでも、英語よりは若干薄い。

 最初から写させてもらうのもなんだし、とりあえず頭から埋めていく。


 最初は比較的簡単な基礎問題が多い。

 なだらかな坂を上がるように解いていると、シャーペンを持つわたしの指に別の指がそっと触れた。


 そこそこ集中していたので、びっくりして顔をぱっと上げる。


「……そこ、違う」


 人見君の視線はわたしではなく、問題集を見ていた。

 一瞬何を言われたかわからなかったが、どうやらわたしの計算間違いに気づいたらしい。穏やかな声で、どこでどう間違えたかを教えてくれた。


 人見君の説明はすごくわかりやすかった。家庭教師とか向いてそう。でも、中学生の女の子とかが生徒だったら、その子はすぐに好きになっちゃうかもしれない。それはちょっと嫌だな……。

 いや、何を考えてるんだ。わたしの思考回路がおかしいくらいに混線している。


 難しいところはさっさと諦め空けて進んだら六割くらいは埋められた。答えを写してもテストの点は上がらないので、数学はこれで十分としようとしたら、奥の部屋に行っていた人見君が問題集を広げて渡してきたので、結局写させてもらった。筆圧が強めの、しっかりした字だった。


 問題集の裏にあった人見恭介という名前は改めて文字で見ると、見覚えがあった。テスト後に上位十五名まで張り出される学年の成績上位者で頻繁に見ていた。他人の成績にさほど関心がないのでいつもぼんやりとしか見ない上、勘違いして脳内で『いりみ』とか『にゅうみ』みたいな読み方をしていたせいで耳で聞いた名字とまったく一致していなかった。


 時計を見ると、二十三時半をまわっていた。


「雪織……家、大丈夫?」

「うん。連絡入れてあるし」


 友達の家に寄ってくから遅くなるとメッセージは入れてある。それにうちは上の兄弟の外泊が多いのでそのへんは適当だ。家族はもう寝ているだろう。

 朝いなかったら心配するかもしれないが、さすがにそこまでには帰るつもりだし。


 そんなことを考えていたが、目の前の人見君が小さなあくびをしてハッとなる。


「あ、ごめん! わたしが帰らないと……人見君寝れないよね」

「べつに……俺が誘ったんだし。ゆっくりやってくれて構わない。どうせ今日は誰も……」

「え、なに?」

「……なんでもない」


 人見君が難しい顔で眉根を寄せた。

 それからそっぽを向いて、頭をガシガシと掻いた。


 英語の問題集に戻る。

 なぜだか頭が妙にしゃっきりしていた。分厚いと思ったけれど半分は和訳なので、すいすい進む。英訳のほうは少しかかった。急いだからたぶん間違っているけど、解いたのが大事。そして残りの選択問題は写させてもらった。


 この辺りになるとだんだんとわたしは、そしておそらく人見君も感覚が変わってきていた。


 最初は見てもらいながら自分で少しやって、残ってても帰ろうと思っていた。

 しかし思いのほか、止められない感じにハイペースで進んでいた。

 ひとりでやってたら三ページくらいでお菓子を食べて休憩して、そのまま寝ていただろう。進みが悪いとやっぱり無理だなと諦めも早くなるものだ。しかしもしかしたら問題集系は本当に今夜片付くのではないか。そんな期待が生まれてきていた。人見君も、終わりそうだなという期待を込めて時間がかかる部分はさっと見せてくれる。


「遠慮するな! この問題集は写すために今ここにある!」

「は、はい!」


 こうなったら、ここまできたのだから、ある程度終わらせたい。そんな気持ちはおそらく一致していた。


 少し時間に追われる感覚になっていた。残りの歴史と科学は薄いのもあって、人見君が目の前に出してきたのを丸写しすることになった。焦りの局地だ。最初に多少あった『自力で進めるべき』という良識や矜持はもはやなく、目的は『終わらせること』となっている。早く。早く終わらせておいとましなければ。


 午前二時半。わたしの宿題がほぼ片付いた。まだ読書感想文があるので全部ではないけれど、ここまでやれば提出日には間に合うだろう。


「終わったな……」

「ごめんね。こんな時間まで付き合わせちゃって……」

「いや、俺が言い出したことだから」

「……ありがとう。わたし、家に帰ってたらたぶんやらずに寝てた……」


 へらりと笑い、立ち上がって大きく伸びをする。


 人見君が目を丸くして見ていた。

 なんだろうと思ったら借りていたハーフパンツが腰から抜けて足元にあって、太ももが丸出しになっていた。Tシャツの丈が長いので下着までは丸出しにならずにすんだ。


「わ、きゃあっ!」


 びっくりして慌ててしゃがみこむ。


「ご、ごめん!」

「なんで雪織が謝ってんだよ……」

「えっ? じゃあバカ!」

「俺も悪くねえし……」


 人見君が言ったあとにふっと息を吐いて笑ったのでわたしも笑った。


 ハーフパンツを上げて腰を押さえて立ち上がる。


「ごめん……スカート取ってもらえるかな」

「ああ、うん」


 人見君からスカートを受け取り、身支度をして宿題をリュックに入れる。


「人見君は組木君と仲がいいんだよね。学校外でも会う?」

「うん。まぁ、あいつとはかなり気安い仲だけど……」

「これ、返しておいてもらえないかな。学校で渡すのもちょっと……」

「ああ、了解」


 ノコギリを渡そうとして手に取り、そのまま渡してはいけないと、柄のほうを人見君に向けようとモタモタ動かしていたら、慌てたように駆け寄った人見君に奪い取られた。


「危ないな。こんなんそこのテーブルに置いてくれたらいいから」

「あ、そっか……」

「ハサミじゃないんだから、刃のほうなんて持ったら怪我するだろ」

「人見君て……心配症?」

「いや俺、普段はまったくそんなことは……あっ、いや、雪織がうっかりしてそうだからだよ」

「え、わかっちゃう? わたし、入学したばっかのときにうっかり土曜に学校行ったことあったよ」

「ははっ、それはかなりの……………………」


 人見君はそこで突然電池の切れたロボットのように固まったあと、横目でおそるおそるというように、わたしを見た。


「そのあとどうしたんだ?」

「え? そりゃ……用もないし。帰ったよ」

「そうか……」

「…………あ、でもすごく天気がよくて、桜も咲いてたから裏の公園寄ってお花見してから帰った。すごく気持ちよかったから、うっかりもいいもんだよ」

「…………………………へ、へえ……」


 話しながら、荷物をまとめていた。


「じゃあ帰るね。本当にありがとう」

「送ってくよ」

「でも遅いし……」

「遅いからだろ」

「でも、こんな時間まで付き合わせちゃったし……さすがに悪いから、ひとりで帰ります」

「…………ッ」


 きっぱりと固辞すると、なぜか人見君が苦悶の表情を浮かべる。


 扉を出ようとしてドアノブに手をかけて気がついた。

 ここは、どこだろう。

 家からそんなに遠くないとは思うけど、お店があるとかではないので、あまり来たことがない地域だった。

 わたしは何度か来たことがある場所は脳内でマップが造られるけれど、致命的なほど地図が読めない。


 数センチ開けた扉を閉めて、人見君のほうに向き直る。


「実は……わたし……方向音痴で……」

「うん。送ってく」


 人見君がどこか満足げに頷いて、靴を履いた。





 人見君の家を出たのは午前三時だった。

 

「あれ? 恭介、まだ起きてたの?」


 目の前に綺麗な女性がいた。キリッとした顔立ちで、背筋がぴんとした背の高い女性だ。仕事帰りと思われる服装も手伝って、仕事のできそうな大人の女性の雰囲気。


「起きてたっつーか、まだ寝てない。ちょっと出てくる。そっちは? 早くね?」

「今日は上がれそうだったから早めに出たのよ。少し寝ないと明日の仕事に差し支えるしね」


 にこにこしながら言う様は疲れなど微塵も感じさせない。パワフルな人だ。


「恭介、そのお嬢さんは……?」


 女性は好奇心で目を輝かせたその直後に表情を曇らせる。


「彼女ができるのはいいことだけど……こんな遅くなるなんて、お家の人には……」

「……そういうんじゃない。今から送ってく」

「それならいいけど、なるべく昼間に会いなさい」

「……だからこれはたまたまで……そういうんじゃねえよ」


 人見君は同級生の中で見るとかなり大人びた雰囲気だけれど、今、わずらわしそうに返事をする彼は、少し子どもっぽく見える。


「雪織です。その……夏休みの宿題を手伝ってもらってました」

「……宿題を?……恭介が?」

「……はい」


 目を丸くして口元を押さえる彼女に対して人見君がジロリと一睨みして「……なんか文句あんのか」と言った。見たところお母さんのようだが、物言いになかなか遠慮がない。


「そう……それはそれは……ああでも、こんな遅くまで……! もう、ご迷惑かけて……!」

「いえ、こちらこそ夜分に押しかけてしまって申し訳ないです……」

「いいえー。でも、嬉しいな……」

「……え」

「ほら、この子モテるでしょう? それなのにろくに女の子に興味なさそうにして、バイト行くか勉強ばっかしてるから……ちゃんと高校生活を楽しめてるのか心配してたの」


 やっぱり、親が知ってるレベルでモテるのか。心の中の草原に大風が吹いて草がガサガサと揺れた。


「でも家に呼ぶなんてなかったじゃないの! すごく仲がいいお友達ではあるのよね?」


 家に呼ぶことはなかったのか……。心の中の草原にお花がぽこぽこ咲いた。

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