第13話 人見恭介の自宅




 おそらく声のしていないスマホを耳にあて、あらぬほうを見て微笑んでいる直也を置いて、俺と雪織千尋は歩き出した。


 夕方学校に着いてからずいぶんと長い時間が経過したように感じられたが、そのどれもが目まぐるしく、あっという間だった。


 さっきまでの激しい嵐の余韻すら感じさせず、夜は静まりかえっていた。


 直也の家を出てからずっと、俺は奇妙な感覚に追われていた。

 急かされてもないのに焦るような、その感覚の正体を探る。

 この焦った感覚の正体は───

 数秒考えて、雪織の顔を見る。

 彼女はリュックのショルダーベルトを持つようにして歩いていたが、俺が見ているのに気がつくと照れを含んだような小さな笑みをよこした。


 正体がはっきりわかった。


 どうやら俺はまだ、この時間を終わらせたくないようだ。それを引き延ばせる方法を探してる。

 自宅付近まで来たころ、焦りが頂点に達した。


「俺、宿題……」

「え?」

「終わってるんだけど……手伝う?」


 彼女は大きな瞬きを二度三度、ぱちぱちとした。


「でもわたし、本当に何も手つけてないんだよ」

「俺は一日で終わったし、手伝えば今からでも半分くらいはいける」

「……どうやって?」

「……どうやって……あ、そうだな。今一式そこに入ってるんだろ? うちでやってけばいい」


 ちょうどよく、すぐそばにあった自宅を指してそう言ったあと、すぐに後悔した。

 今、何時だと思ってるんだ。ていうか、会ったばかりの女子を家に引っ張り込もうとするとか、完全にどうかしてる。


「……とか、そんな方法もあるけど……遅いし……帰るか」


 罪悪感に似た後悔と、相変わらず続いている焦燥感にかられながら数歩歩いて、ふと雪織の足音が聞こえないことに気がついた。


 雪織は二メートルほどうしろにいた。

 さっきのびっくりした顔のまま、同じ体勢でリュックの肩を掴み、立っていた。


「……まする」

「えっ」


 なんて言ったんだろう。雪織が口にした声があまりに小さくて聞き取れず、大急ぎでそちらに取って返す。


「……どうした?」

「え……その、さっきの……」

「さっきの?」

「おじゃま……したい!」


 自分で聞いておいて、マジかよ……と思った。

 しかし同時にものすごい歓喜の感情が体中に広がった。





 高校に入学してすぐ、公営住宅の二階に引越した。

 収入に合わせて家賃が決まるので生活がだいぶ楽になった。それまでは今より高い家賃で六畳のアパートに母子二人暮らしていた。目と鼻の先にあった直也の家からは徒歩七分ほど距離が空いたが、付き合いは続いた。


 今住んでいる部屋は前よりは広いし、築年数も新しく清潔だ。雪織が来るにあたって、あの崩れかけのボロアパートじゃなくてよかったと思ってしまった。


 玄関まで行ってポケットを探り、鍵を開ける。


「あれ? ご家族は?」

「あぁ、母親と二人暮らしなんだけど……夜勤だから……」


 そこまで言って、またとんでもないことをしていることに気づく。俺は……誰もいない家に今日初めて話した女子を引っ張り込もうと……?

 血液がさーっと落ちていく感覚が襲ってきた。


 雪織は緊張感のない声で「そうなんだ」と返しただけだった。こんな……飛び抜けて可愛い顔をしているくせに危機感が薄い。

 しかし、ここまで来たら後には引けない。いろんなものを誤魔化すようにガチャリと扉を開けた。


 入ってすぐ、真っ暗な家の電気を点けた。

 先に入ってざっと内部を確認する。そこまで見苦しく散らかってはいなかった。


「おじゃまします……っ、くしゅん!」


 明かりの下で見ると雪織はずぶ濡れだった。

 よく考えたら当然だ。あの雨の中、長く外にいた。おまけに途中加藤に追いかけまわされていたのだから。加藤に対する憎しみまで湧いてきた。


 失敗した。一刻も早く家に返すべきだった。

 もし風邪でもひかせたらと思うと気が気じゃない。


「ちょっと待っててくれ。タオル持ってくる。なんか着替える? あ、風呂入る?」

「え?」

「湿った服って体温を急速に奪うんだよ。本当にヤバいからさ。飲み物をすぐに冷やしたいときには湿ったタオルを巻いて冷蔵庫に入れるのが早いらしいってくらい……」


 話しながら大急ぎで雪織にタオルを渡し、自分は浴室に行き手早く風呂を入れる。


 戻ると雪織はいまだ玄関で所在なげにしながら、小さく震えていた。


「何やってるんだ。早く上がって」

「で、でも……わたし濡れてるし、家が汚れちゃう」

「いや俺が入った時点で汚れてるから……気になるならとりあえずそのタオルで簡単に拭いて……」

「は、鼻水が垂れてきそうで……動けなくて……タオルが汚れちゃ……きゃっ」

「いいか。タオルは汚れるためにあるんだよ。あと……汚くない」


 最後まで聞く余裕はなかった。

 雪織が持つタオルを取り上げて、頭に掛けて丁寧に水気を拭っていく。


 タオルが湿っていくと、乾いた部分に持ち替えてまた拭く。乱暴にしたら痛いだろうと、かなり力加減をしたので時間がかかった。


 雪織はうつむいたまま、されるがままに立っていたが、タオルを取り除けると、耳のあたりまで赤くなっていた。


 ただ、向かい合って立っているだけなのに、この時間が終わらなければいい、そんな感覚になっていた。


 その静寂を破ったのは風呂だった。


『もうすぐ、お風呂が沸きます』


 風呂の給湯器がしゃべって、我に返る。

 そうだ。風邪をひいたら大変だ。


「雪織、入って」

「う、うん」


 雪織を部屋に入れて、彼女の着替えになるものを探す。

 上はTシャツでいいか……。下は俺の中学のころのジャージでもぶかぶかだろう。迷った末に母親がパジャマとして買ったがサイズがきつくてろくに着なかったハーフパンツを発見した。

 それを渡して新しいタオルと共に浴室に追いやった。


 さて、準備はできた。

 そう思ってからまたとんでもないことをしたことに気づく。


 え? 俺、今日初めて話した女子を親のいない家に引っ張り込んで、強引に風呂に入れた?


 まさか。そんな非常識な真似を俺がするはずがない。どう考えてもありえない。


 いや、思い切りしてんじゃねーか……。

 頭を抱えた。





 ほどなくして雪織が浴室から出てきた。

 髪ゴムを持っていたのか髪の毛を上げてまとめている。俺の所持している中で一番小さいTシャツなのにぶかぶかしていて、丈が太ももくらいまであった。下は母親のハーフパンツだったが、それは腰が緩いらしく、片手で押さえていた。


 白い肌がわずかに色づいて、ほこほこと湯気が立っている。制服を着ているときより生々しく、存在に日常感が強い。状況は非日常に近いというのに。


 これは俺がこっそり連れ込んだ付き合いたての彼女でもなんでもなく、今日初めて話した親しくない同級生でしかない。という現実、事実を何度も唱えて確認しないと忘れそうに、錯覚しそうになる。


「人見君」

「えっ」


 目の前の綺麗な人形みたいな女子にぼんやり見惚れていたら、突然それが声を発した。


「あのね、シャツはもう今日は絶対乾かないから……できたらこれ借りていきたいんだけど……」

「ああ、もちろんいいよ」

「ありがとう。洗って返すね。それで……スカートだけ、しばらくどこか干させてもらえないかな」


 クリップのついたハンガーを持ってきて渡し、雪織がそれにスカートを装着、俺がカーテンレールに引っ掛けた。


「あの……」

「う、うん?」


 あまりそちらを見ないようにして返事した。


「人見君も、入ってきたら?」

「え……? 俺はいいよ」

「ダメ。人見君も結構濡れてるし……風邪ひいたら絶対やだから……入ってきて」

「いや……しかし」


 それはなんか……いよいよまずくないだろうか。いや、今日会ったばかりの女子におかしなことなんてするはずがないが、状況的に。なんとなく。


「お風呂、入ってきて」


 思いのほか強い口調で言われて背中をぐいぐい押されて浴室に入れられた。脳みそが混乱する。


 浴室に入ってとりあえず水を頭に浴びてみたが、まったく頭は冷えなかった。

 十秒ほど困惑していたが、ハッと我に返る。

 雪織を部屋に残している。すみやかに戻らなくては。


 このときの感情はよく知らない同級生を部屋へ入れた不信感ではまったくなく、せっかく連れ込んだ……もとい来てもらったのに時間がもったいないだとか、あと、ひとりで残してきて寂しがっているのではないかとか、そういった頭の沸いた類のものだった。


 俺は一体どうしてしまったのだろう。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る