第16話 雪織千尋の青椒肉絲




 わたしには、将来の夢がない。夢だけじゃなく、目標もない。ただ、目の前にやってくる毎日を咀嚼して、味わうだけで精一杯だ。

 でも、十七歳なんてそんなものだとばかり思っていた。


 目の前の人見君は、自分と同じ高校二年生だけれど、考えていることや見えてる世界は自分と少し違う。明確な目的意識があって、非常にしっかりしている。

 わたしは周りと比べても将来について何も考えていないほうだろう。


 でも、人見君が大人かというと、それもまた違うような気がした。彼は将来の目標を反対しているという母親の意向を見ようとしない頑なさで、親に負担をかけない選択肢を勝手に決めてしまっている。


 わたしが自分の両親を見ていて思うのは、他人と違って迷惑を気兼ねなく掛け合えるのが家族だということ。きちんと話し合って、少なくとも相手の希望を勝手に推し量ったりしない。


 だから人見君の目的意識を手放しで素晴らしいとは思えない。でも、それを間違っているとも否定したいとも思わない。彼なりの優しさや責任感なのだと思う。元より他人の家庭のことだ。わたしがどうこう思うことではないと感じる。


 わたしはただ、他人というものは自分と違う世界や価値観をそれぞれ持っているのだと、改めて強く意識させられていた。そのことがドキドキするような楽しさに感じられる。この人のことをもっと知りたい。


「家、ここら辺? そろそろ知ってる道?」


 ぼうっとして歩いていて、人見君の声で我に返る。きょろきょろと周りを見た。


「うん。たぶん……ここ、いつも通る道の一本隣だと思うんだ。見たことあるし」


 そう言いながら角を曲がった。

 勘にまかせて既視感のある通路へと足を踏み入れる。しかし、しばらく行くと単に似ているだけでまったく違う道なことに気づく。


「あれ、違った……」


 少し申し訳ない気持ちで人見君を見ると彼が笑ったので、ほっとして楽しい気持ちになってきた。

 完全に道に迷っているのに、人見君が隣にいるだけで、まったく不安感がない。この感覚、どこか懐かしい。


『ずっと迷っていたい』


 なんて、思っても口に出してはいけないけれど。それでもさっきからわたしの頬はずっと緩んでいるし、人見君もどこかリラックスしたような表情をしている。

 もしかしたらわたしも人見君も眠気がピークを超えて、楽しくなってしまったのかもしれない。今日初めて話した相手とは思えない感じ。


 さっき彼が唐突に将来の話をしたのも、思わぬところでお母さんと会って、深い夜の雰囲気に思わずこぼれ出た話なんじゃないかと思う。今日はとても美しい夜だから。人見君は明らかに人に気軽に将来のことを話すタイプには見えない。


「あの細い道も気になる……」

「じゃああっち行くか」


 自宅への道を探すのを放棄しているかのようなリクエストに人見君はすんなり頷いてくれた。


 夜の散歩がこんなに楽しいのは、ひとりじゃなかなかできないことだからなのか、それとも、人見君と歩くのが楽しいからなのか。


 再び路地を曲がって大きな道路に出た。

 目の前に現れたのは24時間営業の中華料理屋だった。それも家族と車で来たことがあるので見覚えはあるのに場所感覚はまったくない。もしかしたら家から離れていってる可能性がある。


 どうしよう。

 夜の中に浮かぶように、ぴかぴかと鮮やかな電灯を纏ったお店を見つめて思う。


 お腹がすいた……。


 そして、わたしのお腹が鳴いた。





 時刻は午前四時。夕飯を食べ逃したわたしのお腹は唐突に限界を訴えていた。

 いや、本当はそれでも我慢できた。幼児じゃあるまいし、一食抜いたくらいでは泣かない。


 だけどわたしはそのとき、素晴らしい思いつきをしてしまった。


「人見君……わたしやっぱりお礼したい」

「あ……いや……それは本当にいいよ」

「でも学校で助けてもらったほかに、シャワーも借りたし、宿題も手伝ってもらったよね? ていうか、最後のほう……ほとんど写させてもらったし……」

「べつにいい。減るもんじゃなし」

「今だって家にいたら寝れてるのに、送ってくれてるよね?」

「気にしなくていい……」

「……もしかして、迷惑?」

「嫌じゃない」


 拍子抜けする感じに即答した。


「……よかった。じゃあ、そこでご飯ご馳走する! お願い!」


 わたしがお店を指して、二人ですっとそちらを見た。

 本来お礼はお願いすることではない。それに時間的には『さっさと帰って寝ろ』というものだったし、ここで「今から?」と言われたら日を改めていたかもしれない。


 でも、人見君は笑った。


「うん。俺も腹減ったな」


 そう言って、先に歩を進め店に向かった。後ろを追いかける。やった。すごく嬉しい。





 扉を開けるとピョロピョロした音が鳴って、奥からお店の人が出てきた。


 人見君と向かい合ってテーブルに座る。広い店内はガラガラで、街は眠っているのに、ここだけまだ起きている。


「俺、ここの店は比較的よく来てる」

「え、そうなんだ」

「うちは外食が多いし、あと母親の時間が不規則だから、ここはいいんだよ」

「あ、なるほど。わたしは兄弟が多いから、家族で外食するにはある程度広いお店じゃないといけなくて……それでたまに来てたよ」


 話しながらメニューに目を滑らす。


「ここの青椒肉絲チンジャオロースが美味しくて、わたしいつもこれにしちゃう」

「俺はだいたい唐揚げ定食だな」

「えー、あの量食べれるの?」

「ていうか、あれが一番量食えるから」

「すごい」

「あれ、雪織って……大食いじゃなかったのか?」

「……何それ。極端な少食に見られることは多いけど……」


 どこかで何か聞いたとしか思えない言葉に少し戸惑ったけれど、それ以上の追及はよした。人見君もメニューに意識を戻していた。


「雪織は、デザートの一番下のとこにあって消されてる、ヨーグルトマトミンって食べたことあるか?」

「なにそれ」

「これ」


 ヨーグルトマトミンは目の前のメニュー表では、上からサインペンで消されているのだが、消し方が荒く、横線がズレていて、半分以上文字が見えていた。それでも消そうとした意思が伝わるので十分なのだろう。


「マンでもメンでもなくてミンなのかぁ……」

「しかも結構高い……」

「人見君これ、お店の人に聞いたことはある?」

「うん。そのとき聞いた店員はよく知らないって言ってた。日を改めて二回聞くほどのもんでもなかったから、俺の中でヨーグルトマトミンはずっとなんだかわからないもののままなんだよ」


 わたしと人見君は、昔からの友達みたいに話しながらメニューを決めて注文した。

 頼むと一気に安心感が押し寄せる。『もう大丈夫だよ、安心して。わたしの胃袋』みたいな無駄にお姉さんな気分になる。


「そういえば、どうして戎先生が人見君に鍵渡してたの?」

「あの不良教師は俺の従兄弟。飲みに行くから施錠頼まれた」

「従兄弟? へぇ……そう言われたら、ほんの少し似てるかなあ」


 戎先生は線が細いキザな優男系で、人見君は肩幅もガッチリしていて、もう少し男くさい。全体の印象はまったく違うけれど、言われたら目の形はどことなく近い気がした。


 人見君がわりと本気で嫌そうな顔で「やめてくれ……」と言うからくすくす笑った。


 閑散とした店内は音楽もなくて、厨房から聞こえる調理の音だけがしていた。注文を待つ時間がここまで楽しいなんて、もしかしたら初めてかも。

 話なんてしなくても、向かい合って座っている人見君の顔をたまに盗み見るだけで、ふわっとした高揚感に包まれる。


 やがて、青椒肉絲がほかほかのご飯と共に現れた。

 つやつやのピーマン。しゃきしゃきのタケノコ。ジューシーなお肉。甘辛いタレ。


 わたしは昔、ピーマンもタケノコも、あまり得意ではなかったのだけれど、お父さんが頼んでおいしそうに食べているのをひとくちもらったら好きになってしまった。


 ここの青椒肉絲はどんな配合かは知らないが、味付けが絶妙で、甘すぎず辛すぎずで噛むとじわっと旨味が広がる。白いご飯とも、すごく合う。そしてごはんがまた美味しいんだ。うちの炊飯器で炊いたお米となんだか違う。


 定食についてる中華スープはここのラーメンのスープなのかなと思っている。そんな感じの味だから。ラーメン頼んでないのにラーメンスープが飲めるの嬉しい。


 人見君の前にはボリュームが売りの山盛りの唐揚げ定食があった。

 人見君が箸を構えて、ごはん、スープ、唐揚げ、漬物、ものすごくバランスよく均等に綺麗に食べていく。かっこいい。せわしない印象ではない。むしろ丁寧なくらいなのに、実際はすごく早い。なんだかできる男の仕事風景を見ているかのように錯覚する。かっこいい。

 そんなどうでもいいところに、いちいちかっこいい……と感動してしまう。


 ちらちら見ていたら、人見君がハイペースで食事を半分までたいらげていたので、慌てて自分の青椒肉絲と向き合った。青椒肉絲と正面からまっすぐに、真剣に真摯に向き合う。



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