第11話 人見恭介の狼狽




「あ、あの、これは……」

「百合川のロッカー……壊したのは雪織か?」

「なんで……それを」

「やっぱりそうなのか?」

「違う! ……わたしは……!」


 雪織は、しまったという顔をしてリュックを隠すように抱き抱える。そして口を固く引き結んだまま、ブンブンと首を横に振った。

 こちらはこの上なく真剣なのに、悪さを隠そうとする子どものようなその表情に脱力を覚える。

 なんというか、あまり言いたくない事情があるが、無実です、といった感じに見える。


 しかし、そう見えるのは錯覚かもしれない。

 俺は───彼女を疑いたくないと思っている。ついさっき会ったばかりで信頼がおけるかどうかもわからないのに、なぜだか縋るような信頼をなんとか彼女の中に見出そうとしている。


 ただ、このまま問いたださずにもいられなかった。なぜ、無関係に思える彼女が百合川鞠奈のロッカーの中身を壊してまで盗もうとしたのか。


「もしかして……ロッカーの中身も入ってる?」


 雪織はハッとした顔をした。しかし、ますます強くリュックを抱き抱えて首を横に振る。追及すべきところなのにそれをさせない可愛さがある。いっそ背筋が寒くなった。


 やがて、うつむいていた雪織がじとっとした目をして俺を見上げた。その目は責めるようなのに、どこか傷ついたように潤んでいて、心が未だかつてない感じにたじろぐ。


「人見君は……」

「うん?」


 雪織はそこまで言って一度口を閉じて、また、言いづらそうにしながら問いかける。


「百合川さんは彼氏がいるんだよ……」

「ああ、知ってる」

「じゃあ……なんであんなことしたの……?」


 直也とうまくいってるように見えた百合川がなぜ浮気をしたのかは俺にもわからない。

 雪織がなぜ百合川のロッカーの中身を盗もうとしたのかはわからないが、この様子だとかなり事情を知っているような気がする。


「とりあえず、その彼氏にバレちゃまずいんだよ……」

「そりゃあ……そうでしょうけど……」


 どこか拗ねたような口調で言われて困惑する。事情を知っているなら、その理由だってすぐわかりそうなものなのに。


「雪織は……教えるべきだと思うか?」

「べきとか、べきじゃないとか、わかんないけど……黙ってそんなことして申し訳ないと思わないの?!」


 確かに黙っていることに罪悪感はある。でも、俺は今日学校に向かう時点で決めていた。


「俺は……言うつもりはない。だから中に入っていた手紙は……あいつに渡るとまずいんだ」


 雪織は弾けるように顔を上げた。


「え、じゃあ、この封筒の中には……その……証拠みたいなものが?」

「ああ。百合川の彼氏は俺の幼馴染みだ。だから……」


 雪織がぽかんとした顔で口を開けた。


「さ……」

「……ん?」

「最ッ低だよ!!」


 突如激昂した雪織が俺の頬をひっぱたいた。

 風が枯葉を飛ばしたそれがぶつかってきたくらいの感触でまったく痛くなかったが、びっくりした。

 なぜこのタイミングでそこまで怒るのか解せない。


「いやでも……隠し通せるなら……隠したほうがいいだろ。いなくなったんだから」

「だったら! 最初から裏切らなければよかったのに……!」

「俺もそう思うけど……百合川がなぜか俺に判断を任せたんだよ」

「ひどい……なぜかじゃないよね? 共犯者なんだから! ……しっ、しかも……無責任に妊娠までさせて……!」

「えっ? 誰が誰を?」

「えっ?」


 雪織は数秒地面を見て逡巡の仕草を見せたあと、涙目でぱっと顔を上げる。


「ひ、人見君が! あなたが……百合川さんを……!」

「ち、違う! なんでそんな話になってんだよ!」

「だって、百合川さんの相手は人見君だって、聞いたから!」

「……っ、それは誤解だ! 絶対違うから!」


 普段誤解を恐れないはずの俺は猛然と抗議していた。俺はおそらく今、生まれてから一番誤解を恐れて猛抗議している。


「ち、違うって何?! 見た人がいるんだからね!」

「何をだよ? 俺は百合川とは誓ってなんでもねえよ! 信じてくれ」

「そ……そんなの嘘!」

「嘘じゃない!」


 背を向けようとする彼女の肩を掴んで、こちらを向かせる。その目はなぜだか潤んでいた。


「な……泣くなよ」

「ゔっ……泣いてないし……わたしは関係ないし……!」

「じゃあなんで……!」


 会ったばかりの雪織と、なぜか痴話喧嘩のような会話を繰り広げながらも混乱は極まった。


 雪織の目に溜まった涙はもう留まることが不可能になって、瞬きの瞬間にぽろりと落ちて、興奮でほんのり色づいた頬を伝っている。


 逃げられたくなくて彼女の腰を軽く引き寄せたが、少し顔が近過ぎたかもしれない。

 目が合ったら、逸らせなくなった。


「ほ……ほんとに? 本当に人見君じゃないの?」

「あぁ。違う。俺じゃない。俺は百合川は以前から顔と名前と僅かな印象を知るくらいだったし、幼馴染みの彼女としてしか認識していないし、二人で会ったのも夏休みのその日が初めてだし時間は正味一時間ほど、場所も自宅付近の公園で、外はまだ明るかったし砂場には三歳くらいの子どもとその母親もいたし、距離も一メートルほど空いていたし……あと」


 気がつくと延々と言い訳じみた釈明をしていた。途中で気づいて俺は一体何をこんなに……と思いつつも雪織が唇を噛み締めてうん、うん、といって一生懸命聞いているので止められない。


「わかった……人見君じゃなかったんだね」

「うん。少し情報をすり合わせたほうがよさそうだ」


 頷くと彼女は少し落ち着いたようにうつむいた。

 すっと手を伸ばして俺の頬に触れた。細くて白い指が頬に触れる感触がくすぐったい。


「そしたら……叩いてごめん……」

「いや、ぜんぜん痛くなかったよ」

「でも……」


 雪織はばつの悪そうな顔で俺の頬に手を添えていた。その手は熱い。俺も、なんとなく同じように、彼女の頬に触れた。


 触れた雪織の頬が熱を持つように熱くなっていく。

 暗闇の中でも、ここまで近寄ればその表情まではっきりと見える。

 ふっくらと柔らかく、熱い頬。潤んだ大きな瞳。長い睫毛も、すべて人形のように整っていて、そこから目が逸らせない。


「あのー……うちの前で何してんの……?」


 二人でパッと声のほうを向いた。

 ベランダから直也がじっと見ていた。舌打ちしたいような忌々しい感覚がよぎる。


「直也……お前そんなとこで何してんだよ。こっち見んな」

「え、いや、ここがおれの家でここがベランダなの、知ってるよね……!? 忘れちゃった?!」

「そんなのもう忘れたよ!」

「な、なんで怒ってるの? おれ、外で声がするからベランダに出ただけだよ?」

「窓閉めて寝ろ!」

「あのー……」

「なに? どうした?」


 雪織が小さな声を出したのですぐにパッとそちらを向いた。


「あの……あの人、彼氏……だよね。さっきの……どこまで聞いてたんだろ……」


 ハッとして再びベランダを見た。雪織も一緒にそちらを見上げる。


 直也はにこにこと笑って、手を振っていた。





 俺と雪織と直也は、組木家の一階ウッドデッキに揃って座っていた。

 どこまで聞かれたのか。直也はこれで意外と曲者だ。万が一聞いてなくてカマをかけられたときのことなんかも想定して慎重に対応しなければならない。

 長い付き合いだ。俺一人なら誤魔化せるだろう。しかし、問題として目の前には神妙な顔の雪織千尋がちょこんと正座して座っていた。

 彼女の持っている情報がどんなものなのか、確認する前に直也に見つかったのは失敗といえる。彼女は何か知っている上に、その情報は不正確で混乱を招く可能性がある。


「雨、止んでよかったねえ」


 呑気な声を出したのは直也だった。


「直也……お前、前から雪織と知り合いだったのか? 仲はいいのか?」

「い、一番最初に聞くことそれ?」

「……さっき学校で、初めて会いました」


 直也の代わりに雪織がやたらきっぱりした口調で答えた。


「………………そうなのか」

「恭介さぁ……」

「ん?」

「何あからさまにホッとした顔してんの?」

「え? なんで俺がホッとするんだよ……」

「いやあのー……おれが聞いてるんだけど……」

「つうかなんでお前は半笑いなんだよ。もっと緊迫感を持て」

「ふーん……緊迫感を持つような話題なんだ」


 言われて今この瞬間すっかり忘れていた手紙のことを思い出した。こいつ。油断ならない。


「さて雪織さん、預けていた手紙……おれにもらえる?」

「え、あ……」


 直也の声に、雪織は相変わらず抱きしめていたリュックを見た。しかし、確認するように俺の顔をちらりと見た。

 直也が座ったままわずかに距離を詰める。雪織は座ったまま、のけぞるように後ろに半歩移動した。俺は直也がこれ以上前に行かないよう腕を伸ばし静止させた。


「わたし……これは百合川さんにしか渡せない!」

「えっ」


 直也と二人揃って固まり、口を開けた。


「え……なんで。だってさっき……」

「これは百合川さんのロッカーに入ってた百合川さんの所持品でしょ?」

「でも……それはおれ宛なんだよ」

「そんなことどこにも書いてないよ」


 どうやら宛名の類は封筒には書いてなかったらしい。


「中見ればたぶん書いてあるから!」

「人の所持品を勝手に開けるわけにはいきません!」

「いや、恭介……説得してよ」

「うん。直也……雪織が渡したくないなら……諦めるべきじゃないのか」

「いや恭介何言ってんの? おれじゃなくて雪織さんを説得してよ」


「二人とも……なんか怪しいし……ダメです!」


 なぜか敬語で怒ったように言ってぷいと顔を背けた雪織を見て俺は思った。すごく可愛い。


「組木君が百合川さんと付き合ってたっていう、証拠がないし」

「その手紙を見れば、たぶんわかってもらえるんだけどなぁ〜」

「雪織……直也が百合川と付き合っていたのは本当だ。信じてほしい」


 じっと顔を見つめると雪織は俺の目を見つめ返した。そうしてじっと見ているうちに、ほんのり赤くなってうつむく。


「………………うん」

「えぇえ〜! 何それおかしいでしょ! 雪織さん! なんの根拠もないのになんで今ので信じるの?」

「直也……お前、せっかく雪織に信じてもらえたのに、茶々を入れるな」


 雪織がリュックを開けて封筒を取り出した。

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