第10話 雪織千尋の戸惑い




 嫌いな雷が鳴ったのに、悲鳴も出なかった。

 それよりも、一瞬見えた彼の顔に、釘付けになった。とても綺麗で、どこか既視感のある顔。話し方も、初めて会ったような気がしない。


 男子生徒は人見恭介と名乗った。

 ひとみちゃんと同じ名前だ。名字だけど。

 まじまじと見ると似ているような気がしてきた。


 いや、本当はわたしはひとみちゃんの顔なんてほとんど覚えていなかった。着ていた服だって、声の感じだって、何も覚えていない。

 だから、あのとき彼と会ってわたしが得た感覚が今この瞬間のものと似ていただけなのかもしれない。


 さっき彼が来てからずっと、どこか懐かしいようなわくわくが胸をくすぐっていた。

 その感覚はちゃんとわたしの中にあって、久しぶりの眠りから覚めて暴れまわっている。

 それは顔を見る前からすでに始まっていた。


 お礼をしたいといったら、拒絶されて心が沈んだし、そのあと慰めるような調子で名前を教えてもらったら浮き上がった。わたしの中で一体何が起こっているんだろう。


 人見恭介……そうだ。夕方に丹下美和子から聞いたばかりの名前だった。あのときはさほど気にも留めなかった。なんで名前が出たんだっけ。


 確か……そうだ───百合川鞠奈の相手。


 そう思ったとき、心臓が鈍く痛んだ。

 いや、それは確か大穴だった。それに、彼女には彼氏がいて……さっき会ったもん。

 あれ? 浮気されていたんだっけ。ということは……もしかしてその相手は……。


 はからずもわたしは、ひとつの答えに辿り着いてしまった。


 目線を彼に戻すと、呆然と立ったままこちらを見ていた。

 ぼんやりとしているのに、視線はわたしに強く向けられていて、外さない。なんだか焦げるような感覚になった。


 気がつくと雨が完全に止んでいた。

 時刻は九時半をまわったところ。どう考えても、今が帰り時だ。それなのに、なぜだか足が動かない。わたしは今のこの瞬間の空気を、動かしたくなかった。


 雨の匂いを含んだ風がさぁっと吹いて、わたしの鼻先をかすめた。なんだかきゅんとする。


「あー、……帰る?」


 静かになると声が夜によく響く。

 だからなのか、人見君はごく小さな声で言った。


「…………うん」


 だからわたしも小さな声でうなずいた。

 正門は閉まっていて、すぐ隣にある人一人分くらいの通用門から揃って出た。

 人見君がポケットから鍵を出してそこの鍵をかける。


「あれ? 戎先生は……」

「うん。俺が鍵預かった。内緒な」


 人見君は簡素に言って小さく笑ってみせる。

 その顔を見たらわたしは墓場まで持っていきます、という気持ちになった。


「家どっち? それとも駅?」

「えっ?」

「……遅いし、送ってく」


 そんなふうには思えないのだけど、この人はもしかしたら、ものすごい女たらしの可能性がある。しかも不純で不誠実。気をつけて警戒しなければならない。だから送ってもらうのは断るべきだったんだと思う。


 そう思うのに、わたしの口はまったく自制がきかず、ペラペラと自宅の場所を説明していた。バカ。わたしのバカ。


「……俺んちの一駅先か、どうせ方向一緒だな。電車で帰る? 歩いてく?」


 わたしの家は高校の最寄り駅から二駅の場所にある。ただ、電車で帰ろうとすると、いったん自宅とは反対方向にある駅に十分ほど歩くことになる。

 もちろんそのまま帰るよりは自宅の最寄り駅からのほうが圧倒的に近いのだけど、気分的に遠回りしてる感があり、わたしは基本自転車で通学していた。


 そうだ。自転車。うっかり忘れて出てきてしまったけど、自転車で帰れば、べつに送ってもらう必要はない。でも……。


「人見君は何で来たの?」

「俺は一駅だから……この辺一区間短いし、駅に行くと遠まわりになるだろ。いつもは歩いてる」

「ふうん……じゃあ、歩いてく」

「了解」


 方向が同じなんだから一緒に帰るのは自然なことだ。自転車は、あれ。せっかく門を閉めたのに、また開けさせるのも悪いし。仕方ない仕方ない。少し足取りが軽いのは雨が止んだから。





 人見君と横並びで歩き出す。

 わたしはだいたいいつも変わらず同じルートで通学している。入学当初、今日は違う道で行ってみようと気軽に道を変えたら迷ってしまい大遅刻したことがあるからだ。だから人見君が迷いなく進むその道は、わたしが通ったことのない道であった。こんなところに遊歩道があったのか。


 雨のあとの遊歩道は、植物が濡れた匂いがしていた。街灯が等間隔に配置されていて、水滴が浮かぶ歩道を照らして綺麗。難点は少しだけ滑りやすいくらい。


「気持ちのいい道だね」と言うと人見君はちょっとだけこちらを見て「ああ、うん」と頷く。


 太い道はわかりやすいけれど、人が多く、景色も面白みがない。たぶん彼は歩いていて楽しい道を知っていて使っていたのだろう。猫みたいだ。


 遊歩道を抜けて、まだまだ冒険は続く。


 雨上がりの夜空に薄く浮かぶ雲。隙間から星が見える。ほんの少し前を歩く人見君。足音がふたつ、夜に響く。

 ものすごい非現実感があった。でもぜんぜん嫌じゃない。なんでもない風景に激しく感動した。

 わたしは今このときのことを、きっとあとで何度も何度も思い出す気がした。





 遊歩道を抜けて住宅街に入った。

 人見君が急に立ち止まり、わたしを車道から隠すように住宅の塀に押しつけた。


「えっ……」


 突然変質者みたいな動きをされたのに、まったく拒絶できないどころかときめいてしまった。まずい。宿題よりまずい。

 直後、通った大型車がハイスピードで水溜りの大量の水を跳ね飛ばしていく。人見君は背中がびっしょりと濡れてしまった。


「わ、大丈夫?」

「……べつに大丈夫」

「あ、わたし……タオル持ってたかも!」


 そう言って薄暗く灯る街灯の下でリュックを前にまわして中を開ける。


「うーん、よく見えないな……」


 こぼすと人見君がスマホを取り出して中を照らしてくれる。タオルは宿題の下のほうにありそうだ。


「ちょっと待て」


 リュックを探る手を急に掴まれて、ハッとする。


 人見君はわたしのリュックの中を見ていた。わたしはタオルに気を取られていたけれど、隙間から、かなり目立つ感じに小型のノコギリが覗いている。


「あ……」


 そして、人見君は明らかに顔色を変えてそのノコギリを、じっと見ていた。


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