第8話 雪織千尋の恐怖




 駐輪場の屋根の下まで走ってきたはいいが、自転車で帰るのは無謀な気がしてきた。置いて歩いて帰ろうかな。でも、どうせ濡れるなら自転車のほうが時間が短くてすむ……いやでもマンホールとか滑るし、危険だよね……。


 思案していると、雨音の奥から小さな声が聞こえた。


「見ツケタ……」


 その声はそう言った。

 聞き覚えのある、じっとりとした声。

 嫌な予感がする……。


 ぱっと振り返ると、少し離れた通路の奥にやたらと大きな頭のシルエットがあった。


 すっかり忘れていた。

 あれは……東校舎で見た……殺人鬼。

 なぜここに。勝手に東校舎から出てこれないものと思っていたのに。ゾワゾワゾワと寒気が背中を上がってくる。


「……き」


 きゃああーと思い切り高くて長い悲鳴を上げた。

 走って逃げる。雨なんて気にしていられない。


 大粒の雨は頭頂部や肩や腕に容赦なく降りつける。

 走るたびに路面に溜まった水がバシャバシャと跳ね、靴も足も濡れていく。途中振り返ると夜の雨の中、バンザイの格好で人影が接近してきていた。


 なんだ。あの体勢は……。ヤバすぎる……。

 やみくもに走って移動した。

 幸い、夜の闇と激しい雨でわたしの移動はそこまでわかりやすくはなかった。そうでなければ百戦錬磨の殺人鬼の足にすぐに追いつかれていただろう。わたしは鈍足だった。


 校舎に取って返してとにかく走った。階段を上り、どこに向かっているのかもわからない。


 逃げるなら校門の外に出てしまえばよかったのかもしれない。いまさら思い当たっても仕方ないけれど。

 ここまで来てしまったのだから、どこか教室に隠れて大人しくしていようか。ただ、教室は袋小路感があり、軽い恐怖もあった。


 迷っているうちに、通路の奥から人影がにゅっと現れた。


 わたしはその時点でなんとも愚かなことに行き止まりにいたので、すぐそばの扉に逃げ込むしかなかった。


 扉をぴしゃんと閉めて、内側から鍵を掛けようとするけれど、手がブルブルと震える。なんとか鍵をかけれたけれど、体感でものすごくかかった気がしてしまう。


 大急ぎで走ってもう片方の扉の鍵も掛けようとする。

 が、かからなかった。

 わたしがパニックでできないだけなのか、しぶいのか、壊れているのか、それすらもわからないが、上から下に落とす式の鍵はどんなに力を込めても閉まらなかった。ガチャガチャと音を立てたら見つかってしまうかもしれない。


 こわい。こわい。こわい。

 なんでわたしがこんな目に……わたしはただ、宿題を提出したかっただけなのに。


 頭の中にはあの日助けてくれたひとみちゃんが、綺麗な笑顔で笑っていた。


 ああ。女の子でもいいから、もう一度会いたい。

 あの、真っ直ぐで美しい笑みでわたしを救い出して欲しい。


 一瞬だけ恐怖で意識を失ったような気がする。


「どうした。誰かいるのか?」


 扉越しに突然声をかけられて再び悲鳴をあげる。


「ひ、きゃあああ! こ、来ないでくださいっ!」


 叫んで扉にしがみつき、なんとしても開かないように押さえつけた。


「誰かそこにいるのか? 落ち着いて」

「……こ、来ないで! お願い! 帰って!」

「いや、帰ってほしいのは俺も同じだから」

「そんなこと言ってさっき追いかけてきたくせに……!」

「いや……俺は……」


 扉の外の声がそこまで言って、ふと黙り込む。わたしも息を呑んで黙った。


「加藤……まだ帰ってなかったのか」


 殺人鬼の名前が聞こえてヒッと息を呑む。


「なぁ……見なかったか?」


 あの、陰鬱な声が聞こえてくる。まだ、わたしを捜しているのだ。

 どうやら扉の前にいるのは“カトウ”ではなかったらしい。冷静になれば声が全然違う。


「見てないよ……もうみんな帰った」

「お前は何やってたんだ?」

「俺は戎に頼まれて見まわりの手伝いだよ……この階はもう誰もいなかった。お前も出ろよ。明日捜せばいいっていったろ」


 わたしの状況を知ってか知らずか、声の主は“カトウ”に帰宅を促してくれている。殺人鬼にも家があるんだろうか。普段は普通に生徒に擬態しているならあって当然かもしれない。


 しばらく動けずに呼吸を殺していたら、静かになっていた。さっきの人が殺人鬼を帰らせてくれたのかもしれない。心の底から安堵した。


 わたしもなんとかしてさっさと帰らなければ。本格的に施錠されてしまう。

 腰が抜けてなかなか起き上がれなかったけれど、「ふんっ」と威勢よくかけ声をかけ、起き上がって扉を出た。


 もう戎先生と一緒に帰ろう。それが一番安全だ。そう思って職員室に行った。


 職員室は鍵がかかっていて、真っ暗だった。


「えっ」


 思わず声を上げた。

 戎先生はどう見てもすでに帰宅済みであった。もしかして確認せずに施錠した?


 急いで職員玄関へ行ってみると、そこの扉はまだ開いていた。職員室を閉めただけで、まだ、どこかにいるのかもしれない。


 今度こそ一刻も早くこんなとこから帰ろう。

 そう思って外を見る。相変わらず激しい大雨が降っていた。わかっていても、この勢いにはたじろぐ。

 百合川鞠奈のロッカーを開けていた男子、組木君はどこにいったのだろう。まだいるのだろうか。いるなら封筒を渡したいし、なんなら途中まででいいから一緒に帰ってほしい。


 バケツをひっくり返したみたいな雨が目の前で降り続く。もう濡れるのは覚悟したから、せめてもう少し痛くなさそうな雨になってほしい。


 雷が光ったあと、爆音で雷鳴が轟いた。


「ひぎゃあぁっ!」


 心臓が縮み上がりしゃがみこんで耳を覆った。

 わたしは、雷がわりと苦手だった。

 何が怖いって、音が大きいことなんだけど、本能というか原始に訴えかけられる根源的な恐怖を感じる。全身をこわばらせて数秒を耐え、それが鳴り終わると、どっと疲れが出た。


 まずい。いろいろまずい。


 何が一番まずいかというと、これから自宅に帰ったとして宿題をやる気がまったくしないことだ。せいぜいシャワーを浴びて、何か残り物でも食べて……謎の達成感と共に寝る気がしている。


 ここまで来て、こんな大変な思いまでして手に入れた宿題。でも、手に入れたことで満足しそうになっている。怖い。自分が怖い。


 そのとき、またひとつ気づいてしまう。

 この雨の中帰ったら、宿題はビチョビチョになるかもしれない。そして、預かっている手紙も。


 いや、そんなことは関係なく、もういい加減帰らなければならない。

 スマホの天気予報を見ると二十三時頃に雨足は止む予報だった。さすがに遅過ぎるし、予報を信じて待って雨が止まなかったら間抜け過ぎる。


 それでもわたしは、激し過ぎる雨と雷に、なかなか足を踏み出すことができずにいた。疲れから帰るのが億劫になっている。


 殺人鬼もたぶん帰った。家に帰ってお風呂に入り、ご飯を食べてくつろいで寝るのだろう。

 わたしは急ぐのをやめて、再び駐輪場の屋根の下で座り込み、大粒の雨を眺めた。






 組木君の恋の話にあてられたのかもしれない。わたしは日頃めったに考えない自分の恋愛について考えていた。


 必死に掘り返せばもうひとつ、恋の思い出はなくはなかった。必死に掘り返さなければないというのは女子高生としてはいかがなものだろうかと思わなくはないが、出てきただけでもよしとしよう。


 しかし、そちらは声というか、会話を聞いただけだった。


 あまりにときめいた経験が少な過ぎてそんなものでも希少だった。だって小学生のころの勘違いを抜いたら、それがなければわたしは恋愛感情を一生持ち得ない人間な気がしてしまう。だから大事に持っていた。

 恋は楽しそうだし、いずれはわたしもぜひしてみたいのだ。


 中学二年のその日、わたしははてしなく落ち込んでいた。歴史のテストの範囲を完全に勘違いしていたのだ。テスト範囲だと思っていた場所はかなり完璧に勉強していたので、ショックもひとしおだった。


 薄曇りの日だった。まだ午後なのに、もう夕方みたいで気持ちも晴れない。

 学校を出て、しょんぼりしながらフラフラ歩いていたら、道を一本間違えてしまった。


 でもどうせ家に帰ったって、することもない。

 テストの失敗を親に報告して、それをめざとい姉にみつかって、「どうしてちゃんと確認しなかったの」だとか、ああだこうだお説教されて、兄には「ちぃは本当そういうことよくやるよなあ。今度からしないように対策を練ろう」とか言われて、近くにいた弟にまで「こうなってはならないぞ……!」とか妹の前で言われて。みんなで大騒ぎするのだ。


 失敗が自分のせいなのは重々承知している。家族が心配してくれてるのもわかる。しかし、彼らはとにかく放っておいてくれないのだ。少し外を歩いて頭を冷やしてから帰りたい。今は風の音だけ聞いて歩いていたい気分だった。


 うろうろしていたら、別の学区の中学校の近くに出た。自分の通う中学とは違う制服を着た生徒たちが、ちらほらと下校していた。この時間に下校しているということは、ここもテストだったのだろうか。テスト……あぁ……わたしのバカ。


 他所の中学のグラウンドのフェンスに寄りかかり、あー……もう、と無駄に反芻して落ち込んでいると背中から「あー……もう」と聞こえてきた。


「そこまで落ち込むことないだろ。テストの一回くらい気にするなよ。高校入試ってわけでもないし」


 誰かが誰かを励ましている。


「……そりゃ、お前は点を上げてるから……オレはもう右肩下がりなんだよぉ……」

「下がるときもあるし、いちいち気にすんなよ。だいたいこの失敗が十年後に何か影響してると思うか?」

「できるやつにそんなこと言われてもなー。だいたいお前はおとといも女子に話しかけられてたし……」

「関係ねえこと混ぜてくんな……」


 慰められている相手はまったく納得していないようだったけれど、わたしはその穏やかで落ち着いた声音に「うんうんそうだよね」と頷いてしまった。


 十年経たなくても、わたしは今日の悲しみを忘れる。教訓にはするかもしれないが、一ヶ月後にこんなことでまだ嘆いているとは思えない。だったら今すぐ忘れてもいいかもしれない。


 家族は全員心配して親身になってくれるが、だからこそ誰一人としてさっさと忘れろとは言わない。だから新鮮で、わたしはこんなふうに言ってくれる友達が欲しいと思った。後悔ならもう充分過ぎるくらいにしているから、誰かに気にするなと言ってほしかった。


「じゃ、掃除終わったし俺は帰るから。お前まだそこにいるなら鍵を返しといてくれ」

「えっ! 待ってくれよぉ!」


 すぐ背後にあった体育倉庫から、人影が二つ出てきた。


 わたしはなんだか急にスッキリしてしまい、そこから帰り道を歩き出した。


 ここ、どこだっけ。


 だいぶ歩いてしまった気がする。

 ふと見ると近くのバス停にわたしの最寄り駅行きのバスが走ってきたのでそれに飛び乗った。





 あの日、いつもと違う道をひとりで寄り道した、その小さな特別。冒険の感覚が印象に残っているだけなのかもしれない。だから恋愛とは少し違うかもしれない。

 顔もよく見えなかった、というか、後ろ姿しか見てない。だから勝手に好きな顔を浮かべているのかもしれない。


 でも、わたしは身のまわりの異性とあんなふうに、仲良くなりたい感覚になったことがなかった。彼と話してみたいと思った。帰り道にその感覚は何度かよぎった。彼の喋り口や、声の感じを反芻したりもした。


 思い出から現実に戻る。

 雨はまったく弱まりそうにない。そろそろビシャビシャに濡れる覚悟を決めて、立ち上がる。


 雨音にまぎれて声が聞こえた。 


「ここにいたか」


 振り返ると“カトウ”よりは明らかに頭のサイズが人間的な男子のシルエットがゆっくりと近づいてきていた。


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