第7話 人見恭介の困惑




 外は雨が降っているようで、路面を叩くものすごい音がしていた。


 俺の目の前には今日この場所にいるはずのない幼馴染みがいた。


 まさか、こいつが百合川のロッカーの中身を盗んだのだろうか。


 見たところ手ぶらで、工具の類も手紙らしきものも持っているように見えない。ただ、工具はどこかに隠してしまえばいいし、手紙はサイズがわからないので小さな封筒なら折り畳めばポケットに入るかもしれない。直也の可能性はまだある。


 そうは思っても、それは聞けない。俺は手紙をなかったことにしたいのに、もし直也が何も知らなかった場合、藪蛇になるからだ。だから慎重に対応しなければならない。


 俺が何か言う前に直也が口を開いた。


「恭介、何してるの?」


 夏休みの最終日、施錠寸前の時間。

 もし何か用事があって来たとしたら、不思議に思うのは向こうも同じだろう。


「俺は忘れ物を取りにな……お前は?」

「え、と、うん。おれはもう帰るとこだよ。うん。帰るね、じゃっ!」


 もともと嘘のつけないタイプだ。直也は明らかに怪しい様子でその場を去ろうとした。


「直也」

「えっ? えぇっなぁにぃ?」


 ものすごく大袈裟に驚いた。過敏すぎるし怪しすぎる。

 問い詰めたいが、俺がここにいる理由も言いたくない。慎重に。


「なぁ……」

「うん?」

「百合川とは……連絡ついたのか?」


 それだけ聞くのが、精一杯だった。


 直也は、にっこりと笑った。そしてその笑みとは裏腹に、頭をゆっくりと横に振ってみせる。そうしてゆっくりそこから笑顔を落とし、真顔になった。


「恭介はさぁ……体もガッシリしてるし背も高くて、おれと違って男らしいじゃない?」


 確かに、直也は男子としては小柄なほうだ。

 俺はその歳の平均身長よりは高いし、体もヒョロヒョロはしていない。ただ、古賀のようなマッスル体型と比べたら飛び抜けて男臭いともいえない。わざわざ俺と比較する意味がわからない。


「昔はおれのほうが背もちょっと高くてさ……女の子みたいだったから周りもひとみちゃん、なんてあだ名で呼んでいたのにね」


 普段攻撃性のいっさいない直也の突然の物言いに驚いた。


「でも、あのころから恭介は周りのそんな目はぜんぜん気にしていなかった。だからおれはいつも……勝てなくて……」


 後半は口にしたくないものを発声するように低くなった直也の口調は明らかに苛立ったものだった。


「勉強なら勝てるかと思ったら……まったくそんなことなくて、学校での存在感も……」

「何の話だ?」

「……蓋を開ければ恭介とおれはまったく違う人種だったって話だよ」


 直也は苦い顔で、切々とこぼす。その間一切こちらを見ようとはしなかった。

 彼は今まで、そんなところにコンプレックスを持っているなんておくびにも出したことがない。彼はいつも、いつでも落ち着いていて、他人とは一定の距離を取り、感情を荒げることは滅多になく、人に無駄な嫉妬や羨望を向けるようなタイプではなかった。ただ、そんなのは俺の思い込みだったのかもしれない。


「恭介は悪くないけれど、その違いにおれは理不尽に腹を立てていた。勉強でも運動でも、同じことをしたときの差がどんどん離れていくのに、ずっとムカついていたよ」

「……」

「もう少しで、恭介のことを嫌いになるところだった。でも、彼女と付き合うようになって、おれは……そんなくだらない嫉妬から解放されたんだ」


 それでも、俺はなぜ今、直也が急にそんなことを言い出すのかわからない。


「だからさ……おれは……」


 何か先がありそうな言葉だったけど、続きが吐き出されることはなく、直也は下唇を噛んで、その場を去ってしまった。


 直也がいなくなったあとの廊下でぼんやりしていた。





 小学校中学年くらいまでは特に、女子に間違われることが多かった。

 そのことでからかってくる奴もたまにいたけれど、俺は気にしていなかった。間違われてもわざわざ訂正しないし、そもそも性別がどちらであろうとも俺という存在自体は変わらないからだ。


 俺が疑いなくそう思えていたのは「そんなのは気にすることはない」と言ってくれる友達がいたからだ。

 直也はいっそ酷薄にも見えるほど、俺をからかい、いじろうとする奴らを空気のように歯牙にも掛けなかった。かといって敵意を向けるわけでもない。本当に気にしていなかった。

 直也とは特に深い話なんてしない。だから彼に愚痴をこぼしたこともない。それでも、いつも変わらない直也のマイペースな感じは俺に伝播して、影響を与えていた。


 もう少し大きくなると、俺の見た目と気の強さのギャップから敵が増えた。女みたいだと思ってナメて対応してきた奴は俺のふてぶてしい態度で反抗されたように感じるのだろう。そのときも面倒だからいちいち相手にしなかった。する必要がなかった。

 先入観が強い奴はいる。何を言おうが誤解するやつだっている。そんなものいちいち気にしていてもしょうがない。黙っていてわかってもらえるものでもないが、口を開いたとしても全ての人間に理解なんてされるわけがない。それでもべつに、わかってくれるやつが少数でもいれば十分だろう。

 だから俺は比較的誤解を恐れない。解こうとするのも面倒なだけで、必要性を感じない。それが当たり前だと、隣にいる幼馴染みの顔が強くそう言っていたからだ。


 あのころの直也の気持ちというものも、俺の思うものと、まったく違ったりしたのだろうか。


 少し成長すると、俺と直也の立場はちょうど逆転していった。比較的速いと思われていた直也の成長速度が急激にゆっくりになり、俺の成長は右肩上がりで加速した。


 ちょうど反対になったからこそ、俺は直也にやられてありがたかった、そして当たり前であると思っていた対応を同じようにしたし、彼も同じで、何も変わらないと思っていた。


 もしかしたら直也はあのころ、ひ弱でからかいの対象だった俺に対して、薄い優越感を持っていたのだろうか。そして、自分を追い抜き成長していく俺を苦々しく思っていたりも、したのだろうか。


 想像の範疇にすらなかったことを考えて、世界がぐらりと揺れるような感覚に陥った。






 バシャバシャバシャ。


 雨の音が鳴っている。


 しばらくいろんなことを思い出しぼんやりして、急にここが学校の廊下だということを思い出す。

 今日は夏休み最後の日で、俺は百合川のロッカーの中身を回収するためにここに来ていたんだった。

 でも、もうどうでもいいことのような気もしてきた。


 バシャバシャバシャバシャ。

 雨音がうるさい。

 もう一度、過去の記憶に埋もれそうになっていたとき、その裂け目を縫うように、どこか遠くで女性の悲鳴が聞こえた気がしてハッと我に返る。雨に紛れたような声は本当に校内だったかも怪しいが、一応確認がてら辺りを探す。


 もし、誰か女子が残っていたとして、百合川のロッカーの中身と関係があるのだろうか。


 おかしなことばかりある夜だ。

 頭の中にあったモヤモヤを追い払うように、声のしたほうへ駆け出す。


 廊下はどこにも人の気配がない。

 階段を駆け上がって上階を移動して見てまわると、廊下の奥にかすかに人の気配がした。


 そちらに向かってゆっくり歩く。


 人の気配とはなんだろう。

 いると思っていれば、人間の息の音や、体を動かすことで振動する空気の揺らぎが伝わってくる気がする。

 でも、誰もいないとわかった瞬間、それは風や雨が物を揺らしただけの、温度のないものへと変わってしまう。


 今感じたのは、本当に人の気配なのか、悲鳴と感じられたのは、本当は何かが軋む音の聞き違いや、空耳のようなものではなかったのか。

 そんな疑いを薄く持ちながら歩いていると、廊下の奥で、慌ただしくぴしゃんと扉が閉まる音がした。


 ──────誰かがいる。人間の気配がする。


 そこで、小さく息を潜めている。


「どうした。誰かいるのか?」


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