第6話 雪織千尋の誤解




 さて帰ろうとしたそのとき、大変な事実に思い当たった。


 わたしは未だ自分の宿題を、回収していなかった。


 すっかり忘れていたし、なんなら用事をすませたくらいの気分になっていた。

 わたしはこういう、うっかりしたところが駄目なんだ。決して宿題から逃げようとしたわけではない。その証拠にちゃんと思い出したし、ちゃんと持って帰る!


 急いでロッカーのほうに取って返す。

 ついさっき別れた彼がものすごい勢いで走ってきて、わたしを見て駆け寄った。


「あのっ! これ、ちょっと持っててくれない?」


 さきほど百合川鞠奈のロッカーから取り出した封筒を押し付けてくる。上にミニノコギリものっていてギョッとしたが、この上なく必死な顔をしていたので受け取った。


「え、なんで?」

「ちょっと……見つかったらまずい奴がいて……それポケットに入らない大きさだから! お願いね!」


 そう言い残してどこかに走っていってしまう。


 ここでぼんやりしていても仕方ない。わたしは満を持して自分のロッカーを開け、宿題フルセットを無事リュックに回収した。

 手元の封筒を眺める。これは、しばらくここで待てということだろうか。それとも、明日渡せばいいのだろうか。

 迷った挙句にリュックにノコギリと封筒も一緒に突っ込んだ。誰だかわからないが明日捜して返せばいい。そもそもこれは百合川さんのものだろうから彼女が明日、本当に来てないか確認してから渡してもいいかもしれない。


 昇降口はもう閉まっていたので、靴を持って最後に施錠されるであろう教職員用扉にまわる。


 外に出ようとしてびっくりした。

 ものすごいドシャドシャ音がしている。いつの間にか大雨が降ってきていた。


 ぼうぜんと見ていると遠くに雷鳴まで轟き始めた。一体全体今日という日はなんなんだ。


 こんな大雨でも帰らないわけにはいかない。

 ポケットからスマホを取り出す。操作して耳に当てた。


「もしもし、お母さん?」


 背後に家族の騒がしい声が響く中、おっとりした母の声が聞こえてくる。


「あら千尋ー、あなたもうすぐ帰る? ちょっと頭痛くて……帰りに頭痛薬買ってきてくれない? なくなっちゃったの」


 ただでさえこちらの雨音がうるさいのに、向こうでもドタドタ音がする。テレビの音まで混ざっていて、かなり聞き取りづらい。


「お母さん、電話の相手ちぃ姉なの? なー、ちぃ姉のエビフライ俺が食べていいかって聞いてくれよ」

「やーだー! 梨花が食べるもーん」

「俺は育ち盛りの中学生なんだから、俺が食うの!」

「梨花が食べるってばぁ!」

「千尋ー、早く帰ってこないと夕飯なくなるわよー」

「なぁ、僕のビールは?」

「お父さん飲み過ぎ。もう今日の分はおしまいでしょ。これはわたしが飲む」

「優姉ビールなんか飲むんかよ」

「もう成人してますからー」


 やかましい声をかきわけて、お母さんに話しかける。


「お母さん、あの……お兄ちゃんいる?」

「景吾はどうしたのー?」とお母さんが家族に聞いている。


「兄ちゃんは今日女のとこ泊まるって言ってたぞ!」

「こら! 梨花の前で変なこと言わないの!」

「へっへーん。あっ、梨花! 俺の海老フライ! 返せ! 何してんだよ!」

「二人ともー、それは千尋のでしょ!」


 わちゃわちゃと背後で騒がしい家族の会話が聞こえてくる。わたしの分の海老フライがなくなった悲しい情報も入ってきた。揚げたてのサクサクに、いぶりがっこのタルタルソースをたっぷりつけて食べたかった……。お腹減った。


 結局「もうすぐ帰る」と言って通話を切った。

 こんな雨だから車で迎えにきてもらえないかと思っていたら、免許のある父と姉は飲酒済み、兄は外泊ときてる。母に徒歩で傘を持って迎えにきてもらう手もあったが、開口一番頭痛がすると言っていた。弟と妹は遅い時間なので論外だ。打つ手がない。


 もともと、うっかり天気予報を見て出なかったわたしのミスなのだ。濡れて帰るしかない。


 でも、もう少しだけ雨宿りすることにした。もしかしたら雨足が弱まるかもしれない。そろそろ戎先生も出てくるだろう。それまで座っていよう。職員玄関の下駄箱の段差にぼんやりと腰掛けた。





 『初恋』ないし『好きな人』と聞いてわたしが浮かぶのは過去の恥ずかしい勘違いだけだ。


 わたしは幼いころ隣駅のデパートで迷子になったことがある。

 わが家は親の結婚が早かった。わたしが十一歳のころすでに兄弟が四人いて騒がしく、そのころからぼけっとしていたわたしは、可愛い玩具の前で注視していたら、置いていかれたのだ。


 わたしはものすごい方向音痴でもあった。

 同じ場所は何回か行けばきちんと覚えられるけれど、脳内にマップができるのが人より遅い。あと致命的に地図が読めない。

 おまけにいつもぼんやり家族について行くだけだから、道をろくに覚えられない。


 しばらくそのまま待ってみたが、家族が戻ってくる気配はなかった。どこではぐれたか把握しているかも怪しい。いっそいなくなったことにまだ気づいていない可能性も濃厚だ。


 これからフードコートでお昼を食べる予定だった。フードコートに行けば、みんないるだろう。そう当たりをつける。


 まず、フロアマップを見つけるためにフラフラと移動した。右に行き左に行き、振り返るともうさっきの場所がわからなくなった。


 エレベーターの前でようやくフロアマップを見つける。どうやらフードコートは建物自体が違うらしい。今いるA館から、連絡通路を通ってB館に行かなければならないらしい。


 あの騒がしい家族がわたしのことをやっと思い出すとしたら食事が終わったあとの気がする。


 食いはぐれるのはごめんだ。わたしは地図を確認してフードコートを目指した。


 しかし、広大にも感じる建物内で、行けども行けどもフードコートどころか、連絡通路さえ見つけられなかった。


 レジの人に家族とはぐれたことを言ってみようか、そう思ったけれど、休日のお昼のデパートは混み合っていて、レジはどこも長蛇の列。見かけるどの店員さんも走りまわり忙しそうだった。

 若干トロい性質を持ち合わせているわたしはまったく声をかけられる気がしない。

 かといって、向こうから声をかけてくる大人なんて怖くてたまらない。わたしは昔から変質者に狙われることがあったので警戒心だけは強く発達してるのだ。


 もしかしたら迷子とかを専門に扱うような、サービスセンターのようなものがあるのかもしれない。でも、そこにたどり着ける気もしない……。


 なぜか迷い込んだ男性向け下着売り場でトランクスやボクサーパンツ姿のマネキンに囲まれている自分に気づいたとき、ついに涙がこみあげた。


 詰んだ。終わった。


 わたしはこのデパートで家族とはぐれたまま、もう二度と会えないんだ。本気でそう思った。


「どうしたの?」


 急に声をかけられ、そちらを向くと、自分と同い歳くらいの男の子がいた。同年代なら怖くない。


「か、家族とはぐれてしまって……」

「あ、迷子か」

「迷子っていうか………………そう、なんだ」


 ちょっと恥ずかしくなってうつむいた。


「迷子センター行って呼び出してもらえば?」

「う、でも……フードコートに行けばいると思うから……大丈夫」

「え、じゃあこんな離れたとこいないでフードコート行けば?」

「それが……何度か目指したんだけど……ここに来てしまって……」


 男の子はしばらく思考するように沈黙していたけれど、やがて頭を掻いた。


「一緒に行く?」


 ぱっと顔を上げる。


「え……ほんとに? ありがとう!」

「じゃ、行こうか」


 男の子が迷いなく歩くその後ろをついていく。

 途中子ども向けのゲームコーナーがあるらしく、立ち止まった。


「ちょっと待ってて。友達にフードコートに行くって言ってくる」

「えっ、友達と来てたんだ……申し訳ない……」

「いいよ。どうせこのあとフードコート行こうって話してたから。今ゲーム中だし、ちょっと先に行くくらい大丈夫」

「あ、ありがとう……」


 そこで、男の子は初めてこちらを見て、小さく笑ってくれた。


 わたしはその笑顔に、やたらと嬉しいやら、ホッとするやらで、胸がいっぱいになってしまった。


 すぐに戻ってきた彼と再びフードコートを目指す。人混みに揉まれ、途中なにげなく手首を取られたのにもドキドキした。


 連絡通路は最初にはぐれた場所からすごく近かった。B館に入り、男の子はわたしの手を引いて迷いなく進む。なんだか自分の通う小学校の男子より大人びて感じられる。ぱっと見は同じくらいかと思ったけど、もしかしたらひとつかふたつ上かもしれない。


 彼と一緒に目指したら、フードコートにはあっけないくらいすぐに着いてしまった。


「あれ、千尋どこ行ってたの? トイレ? 何頼む?」

「今お父さんがいろいろ買いに行ってるよ。そこ座れば」


 家族が危機感ゼロで話してくるのに脱力しながら少し離れたところにいる彼のところに戻った。


「いたよ。本当にありがとう」

「大したことしてないから」


 簡素に返されるが友達と遊んでいる最中にわざわざ連れてきてくれるなんて、小学生男子としてはかなりしっかりしていて優しい。なんてできた人だ。


「あっ、いたいたー」


 彼を追いかけて来たらしい男の子が二人、手を振っている。二人でそちらを確認してからまた顔を合わせる。


「じゃあ、もう行くね」

「ありがとうございます」


 呼びに来た男の子のひとりが気づいてないと思ったのかもう一度「おーい、こっちだよー!」と言いながら、彼の名前を呼んだ。


 そのときの衝撃は忘れられない。

 その名前は、思ってもみなかったことに女の子の名前だった。

 男の子につけられることも、ないとはいえない。でも、おおかたは女子につける名前。


 もしかして、女の子だったのかな。

 そう思ってちゃんと見ると、白くてつやつやした肌も、黒くてキューティクルがピカピカした髪の毛も、すっと通った鼻筋も、白目が綺麗な涼やかな目も、女の子にしか見えなかった。むしろなんで今まで男の子に見えていたのか不思議なくらいだった。これは完全に女の子だ。




 我に返ったとき、雨足は増していて音はさらに大きくなっていた。

 あのときのことを思い出して、大きなため息をつく。


 勘違いだったとわかっていても、緊急事態に助けてもらえたことで生まれた吊橋効果のようなものだったとしても。


 わたしはあのときほどきゅんとしたことはない。


 あの子の友達が呼んでいた名前は今でもはっきりと覚えている。


 雨音に紛れて自嘲気味に口に出した。


「ひとみちゃん……」



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