第4話 雪織千尋と泥棒




 わたしは無事、マイロッカーの鍵を手に入れた。

 これは今回の宿題の大勝利フラグである。

 東校舎であった恐ろしいできごとなんてすっかり忘れて、はしゃいで本館に戻ってきた。

 

 職員室の前を通り覗くと、戎先生が電話をしていた。誰だかわからないけれど、時間をかせいでくれてありがとう。


 そんなことを思っていると外にまで聞こえる声で「いや、違う! その解釈は音楽に対する冒涜だろう! お前ちょっと出てこい! いつもの店だ! 僕もこれからすぐ行く!」と叫んだ。


 これは速攻で帰りかねない。どこの誰だか知らないが勘弁してほしい。

 もう七時は少し過ぎている。わたしはまた小走りになった。


 自分のロッカーに戻ろうとすると、手前のB組の教室前の廊下に人がいた。

 まさかこんな時間にいるとは思わないので、びっくりして立ち止まる。


 薄闇に目を凝らすと、眼鏡の真面目そうな男子生徒だった。猫背で痩せていて、おそらく背の高い女子と同じくらいの身長なので、威圧感はない。

 しかし、その大人しそうな外見とは裏腹に彼の手には小さなノコギリが握られていて、汗だくで、その目つきは殺気立っていた。


 視覚が情報を咀嚼した瞬間に「ひっ」と短い悲鳴が出た。なんなの? この学校殺人鬼だらけなの?


 しかし向こうはわたしの声にもっとびっくりしたようでバッと勢いよくこちらを見た。

 そして大きく目を見開いてから「うわあぁー!」と声を上げ、のけぞるようにひっくり返り尻餅をつく。その衝撃にまた「ぎゃふん」としか聞こえない声を上げた。


 こ……この人、今、びっくりしてのけぞった勢いで尻餅をついた?


 ……だとしたら間違いない。


 この人は……わたしと同じくらい運動センスがない。


 薄暗い中、わたしと男子生徒は距離を空けたまま、固まっていた。


 どちらかというと怯えた顔をしていたのは向こうだったので、少し落ち着きを取り戻した。


 おそるおそる声をかける。


「な……何やってるんですか」


 まずたっぷりの沈黙が返されて、そのあと男子生徒はごくん、と唾液を嚥下した。


「ロ……ロッカーを……ちょっと開けようと思って……」


 声がめちゃくちゃひっくり返っていた。


「わざわざ壊さなくても……鍵で……開けましょうよ……」

「鍵は忘れちゃってて……急いでて」

「あっ! もしかして……」

「えっ」

「あなたも、忘れたんですか?」

「えっ」

「宿題を!」

「……し、しゅくだい?」


 男子生徒が小さくうなずいたように見えて、確信を深める。

 やっぱりそうなんだ! 仲間がいた!

 少し嬉しくなったけれど、わたしはこの人の名前を知らない。そう思ってなにげなく、彼が壊していたロッカーの名前を、手に持っていた懐中電灯でぱっと照らしてみた。わたしはなかなか視力がある。


『百合川鞠奈』そう、書いてあった。


「……えっ!? どっ、泥棒だー!!」


 わたしの声にまたびっくりした男子生徒がロッカーの名前とわたしを交互に見て焦り出す。


「いや、違うんだよ。これは……おれの……」

「だってそこ、あなたのロッカーじゃないでしょう! ここ、こっそり女子のロッカーを……! 変態! ド変態!」

「ほ、本当に違うんだ……! これは、付き合ってる彼女のロッカーで……!」

「え……あ、そ、そうなんですか?」


 だとしても壊すのはおかしい気がするけど。それに、さっきの名前……百合川鞠奈……聞き覚えがある。


 脳裏に声が蘇った。


『妊娠して……失踪したんだって』


 わたしは思い出して、パッと男子生徒の顔を照らした。


 照らされた男子生徒の顔は…………半泣きだった。


 なんだかかわいそうになってきた。

 いろいろ、何が本当かわからないけれど、訳ありなことだけは伝わってくる。


「と、とりあえず……」

「うん」

「その、ロッカーに刺さってるノコギリ、抜きましょうよ。それ犯罪ですよ」

「うん……」

「こんなことは……もうやめて……お家に……」


 男子生徒がノコギリを引き抜くと、すでにあと少しのところだったらしく、ロッカーがバコンと開いてしまった。


 男子生徒が固まり、目は中に釘付けになっている。

 思わずスススと近寄って後ろから覗き込む。

 ロッカーにはA4サイズくらいの封筒がひとつだけ入っていた。


 彼はしばらくそれを見つめていたが、そっと手に取って、ロッカーを閉めた。


「ちょっ……それは駄目だよ」

「ちゃんと説明するから」


 落ち着いた声でそう言われて黙る。

 封筒を見た瞬間から、彼の雰囲気が少し変わった気がする。無駄に澄んだ表情になっている。封筒を大事そうに胸に抱いた彼は、ロッカーを静かにぱたんと閉めた。


 わたしと彼は階段を上がった先にある大きな踊り場に移動して、名を名乗りあった。


 そして、彼が事情を語り出す。


「……おれと鞠ちゃんは去年の十二月から付き合ってたんだ……」





 高校一年生の夏休み明け。格好が一学期の清楚系から打って変わって突然ギャルめいていた彼女に、級友達はこぞって「似合わない」「前のほうがいい」と言って笑っていた。


 しかし、彼は特に興味がなかった。

 教室の中央で集まり笑っているクラスメイト達も、中央で笑っている彼女も、彼には無関係な遠い星の人間でしかなかったからだ。毎日同じ教室にいても、話すことはおろか、存在を感知されることもなく過ごしている。


 彼は小説を書くのが趣味で、授業中もスマホを使ってひたらすら文字を打っていた。

 彼には同じように他人に対して距離を保ち、マイペースに過ごす幼馴染みがいたが、社会的、客観的に見たときの印象はだいぶ違うだろうという自覚を持っていた。別クラスではあるが、それでも目立つがゆえに入ってくる彼の評判はドライでクールな男子であって、自分のように陰キャ、根暗などと称されたりはしない。


 彼はそのことにコンプレックスを抱いていたが、見ないようにしていた。

 劣等感だけではない。本当は彼は、彼の幼馴染みとは違い、教室の中央で楽しげに笑い合うクラスメイト達に嫉妬や憧憬を覚えてもいたし、元来は賑やかに過ごすことも嫌いではない。


 ただ、そうやって周囲の目に興味がないと堂々と自分から切り捨てる幼馴染みと同調することによって自己を保っていた。


 本当は自分がどう見られているか、笑われること、馬鹿にされることに人一倍怯えを抱いているのに、気にしていない風を装っていた。幼馴染みは本当に気にしていないというのに、自分はその振りをすることしかできないそこにも劣等感を感じながら。

 周りの目を気にしないでいられるのは、なんだかんだ、あいつは周囲に認められているからなのだと憤りを感じていた。


 昼休み、普段はほとんど使われていない屋上へ続く階段の下段にぽつんと座り、こっそり泣いている百合川鞠奈を見つけたのは偶然ではなかった。


 そこは彼の昼食スポットであり、執筆場所でもあったのだ。


 彼は陰の者である自分が心安らかに過ごせるスポットを陽の者である彼女に侵害されて胸が苛立つのを感じた。

 かといって、直接何か言えるはずもない。彼が黙って踵を返し、別の場所を探そうとしたとき、背中に小さな声がかけられた。


「……似合わないと思う?」


 そんなふうに聞かれて、彼はまた苛立った。

 どうでもいい。自分の感想なんて関係ないじゃないか。そんな想いに憤慨すらした。


 だからそのとき彼は思い切り冷たい声で、素直な感想を吐き出してしまった。


「べつに……どっちでも可愛いし変わらない」


 どうせ自分が何を言おうが関係ないのに。

 そう思ってその場を後にしようとした。

 なんとなく振り返ったとき、彼女が手のひらに顔を埋めてうずくまるように体を折り曲げていたので、慌てて取って返す。


「具合悪い?」


 彼女はしばらく動かなかったが、心配になり再度呼びかけたときに真っ赤になった顔を上げた。





「それが……鞠ちゃんとおれの恋の始まりだった……」


 彼は小説を書くのが趣味というだけあって、通常しゃべり言葉であまり入らないような表現を散りばめながら馴れ初めを教えてくれた。


 わたしはこの人のことをまったく知らなかったが、ふんわりした髪の毛は整えてもなさそうなのに不思議と清潔感があり、顔立ちは柔和に整っている。しゃべり口にも妙な雰囲気と存在感がある。クラスでそこまで軽んじられる人間には思えなかった。

 しかし、想像する他者からの視点と自己評価が離れているのは思春期にはよくあることかもしれない。それにわたしは、彼のクラスの雰囲気も知らない。


 滔々としゃべる彼によると、そこから彼と彼女の昼休みの秘密の逢瀬が始まり、放課後には彼女が友達との約束を断りたびたびこっそり会うようになる。


 意を決して告白したのが十二月。彼のほうからとは言うものの、ほとんどお膳立てされて言わされたようなものだったというくだりは完全にただの惚気だった。


「そろそろ言ってよ、って言われたんだ……あのときの鞠ちゃん……可愛かったなぁ……」


 どことなくほのぼのした気持ちになっていたところ、重大な事実をハッと思い出す。


「まって! 百合川さんてさ……妊娠して、失踪したって噂聞いたよ」


 彼はこちらを一瞬見たあと、床を見て黙り込んでしまった。


「あなたの彼女なんでしょ……? ってことは!」

「相手はおれじゃない……」

「えっ、そんなクソ男みたいな……少しでも可能性があるんだからそんな否定したら駄目だよ!」

「そうじゃなくて……!」

「うん……?」

「おれは……き……」

「き……?」


「き」の口で一度固まった彼はごくんと唾を飲んだ。


「キスしかしてないからっ……!」

「…………ああ」


 あまりに赤くなって言うものだから、なぜかわたしまで頬が熱くなってしまった。


 ん? まてよ。

 と、いうことは───


「あれ? そうすると……」


 浮気……されてたんじゃないのか。

 キスしかしてない彼女が妊娠するという摩訶不思議な状態に当てはまる回答はそれしかない。

 その、誰にでも推測できる答えに彼が思い至らないはずはなく、静かに床を見つめ続けている。


 さっき会ったばっかりだけど……そして顔もよく見てないけど……気まずくて顔が見れない。


「雪織さんは彼氏とかいるの?」


 唐突に話題が逸らされた。

 こんな気まずい話題からはどんどん逸らしたい。そうは思うがその逸らし方もなかなか困るものだった。


「まったくその気配はなく……」

「え、でもよく告白とかされるでしょ?」

「……されるけど。なんかみんな目がいやらしくていやなんだもん」

「好きな人はいないの?」

「うーん」

「だってさ、その顔で彼氏いないとか……もしかして初恋もまだ?」

「その顔……」

「え、すごい美人だし、モテるでしょ?」


 そう言われて意図はわかったが、なんだか褒められている気がしない表現だ。


「初恋らしきものは一応……あるけど」

「その人とはどうだったの?」

「どうっていっても……小学校のころだよ……一度しか会ってないし……それに、あれは違ったの」

「違った?」


 思い出して苦笑する。わたしは本当に昔からドジというか、抜けていた。


「その子、女の子だったの……」

「えっ」

「わたし、ぜんぜん気がつかなくて……確かに、言われてみれば、ちょっと中性的だけど、ちゃんと綺麗な女の子だったのに……勘違いして……恥ずかしい」

「それは……そうかあ」

「いやいや、傷が深まる前でよかったよ」


 どの道その後も一度も会えなかったわけだし。

 苦笑いしながら話していると、突然彼に電話がかかってきた。彼は振動し続けるスマホを手に、こちらをちらっと見た。


「あ、わたし帰るね。じゃあね」


 彼は電話に出ながら小さくぺこっとしてくれた。


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