第3話 人見恭介の逡巡
1
備品室に誰か先客がいる。見つかってはまずい。
そう思った俺は備品室の隣にある教室に入った。暗闇の中息を潜めていると、ガチャリと一度扉が開く気配がした。
扉を開けた誰かは一度部屋に戻ったようだったが、ほどなくしてもう一度開いた扉を施錠する音。それからバタバタと走っていく音が聞こえた。
こんな日のこんな時間にどんな用事かは知らないが、やはり鍵を借りて備品室に来た人間がいたらしい。
俺はゆっくりと教室を出て、再び備品室の鍵を開けた。
一年のときにさんざん来た、勝手知ったる部屋だ。薄闇の中、手早く百合川のロッカーの鍵を探してポケットに入れる。そろそろ本館が閉まる時間だ。急がなくては。
俺はロッカーの中に入っている百合川鞠奈の手紙を回収したい。
2
職員室の前を通りかかると、後ろからガシッと肩をつかまれた。
「あっれぇー恭介君じゃなーい! むふっふー、いーいとこにいたねぇー」
完全に与太者の動きで絡んできたそいつは音楽教師の戎宗太郎だ。わざわざ公表していないが、こいつは実は俺の従兄弟だった。嫌なやつにみつかった。思わず小さく舌打ちをする。嫌な予感しかしない。
「あれ? 恭介お前、またデカくなった? まーだ伸びてんのかよ……ムカつくから僕の身長越すなよ」
「まだ伸びてるし、もう越してると思うけど」
宗太郎は面白くなさそうに鼻を鳴らしたが、すぐに表情をニヤケたものに戻した。
「恭介くーん、僕これから急ぎの用事あるからさぁ、ちょーっとお願いがあるんだよー」
「断る。どうせ飲みに行くだけだろ」
「そう言わずにさあ。簡単なことだよ。ちょーっと見まわりして残ってる生徒追い出して玄関施錠してくれればいいだけ。はいこれ鍵。暗証番号は覚えてるよね? 校門の鍵のほうは明日の朝お前んち寄ってもらってくから」
うちの高校は最後の教師が昇降口を内側から閉じたあと、教職員用玄関の鍵を外から閉め、そこにあるキーボックスに入れ暗証番号を入れて完了する。そのあとは誰か出入りすると警備に連絡がいく仕組みになっている。暗証番号はもちろん、教師しか知らないことになっている。
校門は複数あるが防犯のため、正門以外は基本施錠されている。正門の脇の一人分の通用口の鍵をかけて施錠は完了する。
なぜ俺がそんな必要のないことを知っているのかというと、これが最初ではないからだ。
ろくでもない大人はいるもので、以前も二回ほど代わったことがある。
「……お前ほんとクビになるぞ」
「解雇ジョートーですよ! 僕はこんなとこにいる人間じゃないんだから!」
「もう酔ってんのかよ……」
「まだだけどさぁ、酔わなきゃこんな人生やってられないっての」
宗太郎は大仰な仕草で天を仰いだ。
「僕だって恭介じゃなきゃこんなこと頼まないって……お前はなんだかんだ責任感強いからさぁ……な?」
ニッと笑いながら尻ポケットから財布を取り出した。
この男は歳上なのに歳下にしか感じないときがあるが、最終的には大人の狡さを遺憾なく発揮してくる。まぁ、そんなもんに乗る俺も俺だが。
従兄弟とはいえ、母の兄である宗太郎の親と違い、うちの母は祖父母とものすごく折り合いが悪い。裕福な実家の恩恵をほぼ受けることなく生きている。母子家庭なので俺は高校生になってからはずっとバイトをしているし、もらえる金はもらいたいところだ。
3
俺が百合川鞠奈のロッカーの中身を回収するはめになった理由には、俺の幼馴染みの
直也は昔から体が弱く、大人しいながらも芯が強く穏やかなやつだった。家が近いのでずっと仲が良かった。
仲の良い友人関係といっても、普段から重要なことなんてほとんど話さない。学校が終わるとどちらかの家で遊び、ゲームなどをしながら明日には忘れる中身のない会話をするだけの仲だった。
とはいえ幼稚園からの長い付き合いになり、クラスが変わった途端に疎遠になる友人もいる中、当たり前のように無理なく続く緩い付き合いは貴重でもあり、直也は俺の心の位置付けで親友と呼べるものだった。
その直也に彼女がいるということは、夏休み直前に知った。普段からその手の話もいっさいしないし、べつに俺に伝える必要もない。しかし直也が珍しく話す気になったらしく、俺はそれを聞かされた。
ただ、誰にも言うなと釘を刺されて打ち明けられた相手は少々意外なものだった。
直也と同じB組の百合川鞠奈だ。嫌な子ではなさそうだが、情緒不安定というか、どことない危うさがあり、少し心配を覚えた。しかし、恋愛は本人同士の話なので特に言うことはない。ただの余計な感想だ。喜んでいるところに他人がお節介で口を挟むものじゃない。
それに、そう聞かされてから彼女の印象も少し変わり、なかなか見る目のある子のような気がしてきた。しばらくすると素直によかったなと思えるようになってきた。
どの道、直也と彼女はB組。俺はAなので関わりもない。聞いたところで「そうか」で終わるだけの話だった。
ところが、夏休み中に短期バイトで訪れた街で、俺は百合川鞠奈を目撃した。
彼女は三十代くらいに見える歳上の男と笑いながら腕を絡めて歩いていた。彼らが出て来た方角には、ラブホテルの看板がいくつか見えていた。
そして、不幸なことに正面から鉢合わせ、すれ違うときには完全に目が合って、彼女はハッとした顔をした。
双方、はっきりと事態を認識してしまった。
偶然見てしまったそれは、見るんじゃなかった、というのが一番の感想だった。こんなことなら、付き合ってるなんて最初から聞かなければよかった。
親友の彼女の浮気を知った場合、どうするべきなのか。
「お前、彼女に浮気されてるよ」
俺はそう、直也に教えるべきなのだろうか。
知っているのに黙っているのは罪悪感があり、かといってわざわざ教えることにもやはり罪悪感が生まれる。
俺は表面的にはうまくいっている友人の恋を、ほかでもない自分が水を差し、壊すことに強い抵抗を覚えた。直也は彼女に心酔しきっていて、信じるかどうかだって怪しい。どちらに転んでも俺にとっては非常に不快な選択肢しかなかった。
悩んだ挙句、結局俺は動かなかった。
俺はもともと主観的な“正義感“というものがあまり好きではないし、友人関係といえども他人に過度に干渉するのもまた嫌うタイプだった。
夏休み中、直也には何度か会った。
直也は彼女がいることを俺に伝えはしたものの、それ以上を詳しく話すことはなく、ただ機嫌のよさそうな顔から関係が好調なことだけはわかった。
普段から真面目な話なんてしないのだから、それに触れないのはむしろ自然なことであった。
そのことについて考えないように日々を過ごしていたところ、一週間以上して百合川のほうからアクションがあった。
俺の連絡先なんて知らない彼女が取った行動は待ち伏せであった。
コンビニに行こうと家を出たときに道路脇にしゃがみ込む青白い女に悲鳴を上げそうになった。
俺と百合川は黙って一番近くの公園に移動した。陽は傾きかけではあったがまだ暑く明るく、砂場には親子がいて砂山を作っていた。
「直也君に……言わなかったんだね」
「……言い訳はあるのか?」
普段の俺なら「俺には関係ない」と言っていたと思う。だから自分でも思わず口をついて出たその言葉には、少なからず俺の憤りが含まれていたのだろう。
百合川はこわばった顔で首を横に振った。
「……直也君にとってあたしはたったひとりの彼女だけど、直也君は彼氏のひとりだからさぁ」
百合川は悪女のようなことを言って、そのくせ悲しそうにはらはらと泣いた。俺はそれを慰めるでもなく、責めるでもなく、隣に座っていた。
「ねぇ、人見君にまかせてもいい?」
おそろしいことに彼女は自分の浮気について彼に打ち明けるかの判断を俺に委ねてきたのだ。
「昨日、学校のあたしのロッカーに、手紙を入れてきた。もしあのことを言うならそれを直也君に見せて」
「どんなことが書いてあるんだよ……」
謝罪が書いてあるのか、言い訳が書いてあるのかもわからない。
百合川は自嘲するようにふっと笑う。
「そんなに心配なら、先に読んで判断していいよ」
どちらにせよ自分の罪についての判断さえ他人に押し付けようとするその女に吐き気を覚えた。
だから俺は「知らねえよ。お前のことなんだから勝手にしろ」と吐き捨ててその場をあとにした。
百合川が自分で罪を告白せず、なぜ手紙をロッカーに隠し、俺に託すようなことをしたのかはそのあとすぐにわかった。百合川の一家はその後突然いなくなった。大きな屋敷は空になり、スマホは解約され、彼女は直也とも連絡が取れなくなった。
ずっとそれについて考えていた俺は夏休み最終日になって結局手紙を回収しにいくことにした。
百合川が直也とそのまま付き合うならまだしも、こうなると話は別だ。
どうせもう一生会わないなら、俺はその秘密を握りつぶすことができる。
百合川の家族が消えたことは一部の生徒の間で噂にはなっていたが、まだ学校までは届いていない。
家族単位で蒸発した生徒のロッカーは夏休み明けには確実に開けられ、おそらく中身は処分されるだろう。そして百合川がどんな形で手紙を置いているかは見てみないとわからないが、もし宛名が入った封筒があったりしたら、それは本人に渡される確率は高い。
だから俺は今日中に、それを回収したかった。
どうせもう生徒はほぼ残っていないだろう。
見まわりの前に、先に用事を済ませたい。
俺はようやくのこと、百合川のロッカーの前に戻ってきた。
ポケットから鍵を出したとき、ふと違和感があって、ロッカーに手をかける。
キィ、と乾いた感触があり、そのロッカーはあっけなく空いた。
もう一度よく見ると扉は壊されていた。
ストッパーとなる部分がノコギリのようなもので切断されている。
百合川鞠奈のロッカーの中は、空だった。
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