第2話 雪織千尋の宿題





 夏休み最後の日。わたしはベッドで思うさまゴロゴロしていた。

 側からは何もしていないように見えても、また実際に何もしていなくとも、頭の片隅にはまったく手付かずの宿題のことがモヤモヤしながら駆け巡っている。


 ああ、さすがに今日はアレに手をつけなければならない。でもやりたくない。昨日までは「明日でいいか」ができたのに、もうできない。時の流れというのはなんと残酷なものなのだろう。


 唐突に思い出し、ガバッと顔を上げた。


「やばい! アレがないと宿題できないじゃん」


 跳ね起きて、ここ数週間袖を通してなかった制服をクロゼットから引っ張り出す。


千尋ちひろこんな時間に制服着てどこ行くの?」

「学校!」

「明日始業式でしょ?」

「だから行くのー!」


 自転車にまたがり、爆速で高校を目指した。





 ようやく高校に着いたのは午後六時だった。運動部が帰宅するため、細く開いた門からぽつぽつと人が出てきていた。

 まだ日は沈みきってなかったけれど、校舎にはまばらに灯がともっていた。


 駐輪場に自転車を停め、エントランスに入ると、クラスメイトの丹下たんげ美和子みわこが帰宅しようと出てきたところだった。


「おやおや、千尋じゃないか。なにしてんの。帰宅部だよね」


 言われてうなずく。


「いやあ、うっかり課題一式ロッカーに置いてきてたこと思い出して……」

「マジでマジの一式フルセット? しかも今日まで気づかなかったの? やる気なさすぎじゃない?」

「……脳が無意識に拒否反応を起こしたのかなぁ」

「いやそれもう意識的でしょ」


 呆れた顔で言われた。そんなことはない。わたしはただ、土曜日に間違えて登校するタイプの極端なうっかりなだけで、決して宿題から逃げようとしたわけではない。たぶん。


「あ、そうだ。千尋、夏休み中に出回ってる真偽不明の噂なんだけどさ……」


 せっかく会った女子のさが、というわけでもないが、美和子はそのまま世間話を振ってくる。


「なになに、またゴシップ?」

「そんな人をゴシップ好きみたいに。ゴシップだけどね……これは職業的反応だよ」


 彼女は新聞部だった。


「やっぱゴシップなんじゃん……で、なんなの?」

「B組の百合川ゆりかわ鞠奈まりなっているじゃない?」

「ああ、あのちょっとギャルっぽい巨乳の美人?」

「そそ、派手目の、でもどっか影のある……なんかお嬢様がある日こんな自分は嫌っ! て一念発起して使用人のじいやが止めるのも聞かずにギャルになっちゃったみたいな子!」


 さすがゴシップ大好きの新聞部娘。無駄な脚色混じりにキャラを深めてくる。美和子はそこからわざとらしく声をひそめた。


「妊娠して、失踪したんだって」

「えー」


 妊娠まではともかく、そのあとの失踪までいくとさすがにびっくりだ。現実感がなさすぎる。


「すごいね……本当なの?」

「いや妊娠は真偽が知れないんだけど、失踪はマジで、夏休み中はもう誰も彼女と連絡取れてないからそう言われてるんだって……」


 今度はちょっと怪談めいてきた。


「……してお相手は」

「それが……うちらの情報網を駆使してもわからないのだよ。何人か噂はあるけど……」

「噂って、たとえば誰なの?」

「えーと、エビセンとか」

「えぇ、戎先生? 何それ根拠は?」

「そうだったらすごい……とか、なんとなくあり得る……みたいな感じ」

「ないに等しいじゃん……」


 えびす宗太郎そうたろう先生は女子に人気のある若い先生だ。ちょっとキザなバイオリン弾きの留学生みたいな風貌。音楽教師だが、元は音楽家になりたかったらしい。そのせいか、やる気がない。生徒への対応も教師らしさがなく、また大人らしさもないのでアレコレ言われやすいキャラクターだ。


 無駄にドラマチック過ぎる。勝手に脚色されてる感じがぷんぷんする。


「ないなー……」

「そだね。それは火のないとこに湧いて出たネタって感じ。本命はC組の間宮まみや。元彼なんだって」

「元彼かー。ありそうだね」


 ありそうというか、こんな情報の少ない状態ではほかになさそうなだけだけど。


「あと大穴で、A組の人見ひとみ恭介きょうすけって知ってる?」

「まったく知らない。どんな人?」

「え、マジで? 人見は背が高くて短髪のスッキリした美形だけど、超ふてぶてしい感じの……結構人気あるんだけど、本当に知らないの?」

「うん」

「あたし去年同じクラスだったんだけど、三年の先輩に気に入られて、すっごいしつこくされてたよ。委員会の仕事を利用して何度も一年の教室に来てたから、結構周りも迷惑しててさあ……本人も気づいてんだろうにしれーっとスルーしてんの……そうそう、なんかくっそドライなやつでさ、一時期乾燥イケメンてあだ名がついてた……」


 ゴシップ新聞部は放っておくと際限なく話題がズレていく。


「その人がどうして大穴なの?」

「あ、うん、それがさ! 夏休み中に一度だけ目撃例があってね、公園で二人きりで一緒にいたんだって! 人見が女子と一緒にいるのも珍しいしおまけに失踪前最後に目撃された百合川でしょう! 相手じゃないかって言われてる」

「ふうん」

「反応薄いなぁ」

「だってどっちもよく知らない人だもん……」


 よく知らない人間のゴシップなんて、興奮も心配もできない。

 そこまで話してはたと気づく。


「あ、わたしもう行かなくちゃ! 宿題取って明日までにやるんだって!」

「あの量一日でやるのきついと思うよ……」

「わかってるよ」


 でも手付かずなんだから仕方ない。それに厳密にいえば明日提出するのは二つくらいで、あとは最初の授業に間に合えばいい。今日始めれば、ワンチャン全提出の夢はきっと叶う。


「じゃ、がんばりなねー」

「うん、明日ねー」


 手を振って自分のロッカーを目指す。





 D組の教室前の廊下まで行って自分のロッカーに手をかけてすぐ気づいた。


 ロッカーが、開かない。


 わたしはたいへんずぼらな性格をしており、またそれを自覚しているため、鍵を忘れるのが心配でロッカーは基本開けっぱなしにしていた。貴重品は入れないので問題ない。

 その、一年中大開放なロッカーが、なぜか今、固く閉ざされている。

 まるで、わたしの宿題提出の夢を阻むかのように……。


「え、ええ……?」


 思わずもう一度ガチャガチャしてみる。やっぱり何かひっかかってるとかじゃなく、施錠されている。わたしの宿題提出の夢はもはやついえる寸前だった。


 いや、まだ勝機はある。

 鍵をなくす生徒も中にはいるわけで、当然スペアは保管されているはずだ。

 せっかく、やると奮起してわざわざ来たのだ。ここで諦めるわけにはいかない。せめてやれることはやってから諦めよう。


 わたしはスペアキーを入手すべく、職員室に行ってみることにした。


 中には戎先生がひとりいた。机で音楽雑誌を膝にのせ、優雅にコーヒーを飲んでいる。


「先生、ロッカーに宿題を入れてたのですが、鍵が開きません」


 声をかけると戎先生が雑誌から顔を上げた。

 さきほど話題に出ていたが、この先生は黙ってさえいれば神経質な芸術家のような面差しで雰囲気がある。黙ってさえいれば。


「……夏休み中は不用心だから、今年から全ての個人ロッカーの鍵をかけるって説明あったでしょ?」

「え? そうでしたっけ……忘れてました。スペア借りれます?」

「えー、それはちょっと……ちゃんと鍵持ってきなさいよ」

「今日じゃないと遅いんです。それに家に取りに戻ったら学校閉まっちゃいますし……なんとかお願いします」

「うーん……ロッカーの鍵はほかの鍵と保管場所が違ってて……ここにはないんだよね」


 先生が小さい声で語尾に「めんどくさい……」とこぼすのが聞こえた。冷や汗がにじむ。


「明日開ければいいじゃーん?」

「先生、聞いてました? わたし、今日ロッカーが開かないと宿題をひとつも出せないんですよ?!」

「うーん、もう提出諦めたらぁ?」

「なんてこと言うんですか! 教師のくせに」


 まずい。これでは本当にロッカーが開かない。宿題も出せない。


「スペアキーはどこにあるんですか? 鍵は自分で探しますから教えてください」

「えー、本当はよくないんだけどなぁ……」


 戎先生はしぶしぶといった声音を作りつつ、表情はホッとした感じに立ち上がる。

 鍵の保管されてる奥の棚に行き、戻ってきたときにその手に鍵は二本あった。備品室のものと、東校舎の玄関のもの。


「うわ、東校舎の備品室にあるんですか……」

「そうなんだよねえ、なんか昔からそうなってる」


 先生がうなずいた。

 東校舎の備品室は遠いので重要度、使用頻度が低く、普段はあまり使われていないものがメインで入っている。ロッカーの鍵はその、とても辺鄙な東校舎にあるらしい。渋る理由が少しわかった。


「あ、あと、東校舎は夏休み中は施錠してブレーカーも落としてるから今は電気が点かないんだ。はいこれ」


 何その恐ろしい新事実。懐中電灯をぽんと渡される。肝試しめいてきた。戎先生が時計を見て言う。


「備品室は二階の端のひとつ手前ね。ロッカーの鍵は明日返してくれてもいいけど、本館こっちも七時には施錠するし、僕もその時間には問答無用で帰るから、それまでにはきっちり帰ってね」

「は……はい!」


 色々と血も涙もない無茶な注文を投げかけてくるが、反論している暇はない。あと十五分しかないじゃないか。小走りで職員室を出た。





 本館を出て、その裏側にあるひとまわり小さな校舎に着いた。職員用玄関の鍵を差し込む。軽く錆び付いていて、少し硬かったが開いた。


 東校舎はいわゆる旧校舎で、とても古くてオンボロだ。夏休み中には一部生徒によってこっそり肝試しに使われているスポットでもある。


 さっきまでまだ明るかったから、わりと大丈夫かと鷹を括っていたら、いつの間にか陽が完全に落ちたらしく。中は思った以上に薄暗かった。


 懐中電灯を点ける。なぜだか怖さは増した。

 それでも、消して歩く気にはなれない。

 備品室は二階らしい。そこまでこの暗闇を行かなければならない。


 ひえぇ。ひえぇ。ヒェー。


 ひとことも声に出してはいなかったが、わたしの頭には単純な悲鳴がずっとこだましていた。


 暗いよ……。怖いよ。

 今にも、暗闇の奥から髪の長い女の人が出てきそうだ。


 早く……帰りたあぁい。


 すでに涙目になりつつ歩を進める。

 及び腰で進むと奥の教室からボソボソと人の話し声が聞こえてくるような気がして、恐怖で身をすくませる。


 気のせいだ。ここには今、わたししかいないはず。だってさっき、玄関の鍵を開けたのはわたしなのだ。


 もっとも東校舎のセキュリティは本館と比べるとザルなので、誰かが入り込もうとすればそれは容易だろう。そうは思うが、そんな必要はないのに。


 しかし、歩くごとにどんどん話し声ははっきり聞こえるようになってくる。これはもう気のせいではない。


「……ついに百人目なんだよ……」


 言葉がはっきりと聞き取れて、ドキッとして立ち止まる。

 これはお化けではない、人だ。

 わたしは思わず懐中電灯を消した。防衛本能が働いたのだ。どんな人間かわからないが、こんなところに忍び込むような輩に気づかれたくない。


 声のするその教室の扉は開いていた。

 この前を通らないと備品室へ行けない。なるべく音を立てずにそっと進む。


 もう一度はっきりと「百人目だ……」と聞こえてきて、思わず扉の前でまた立ち止まった。


 その声はものすごく暗く、禍々しく澱んでいた。


 何の人数だろう。何が百人目なのだろうか。まさか、中にいるのは殺人鬼じゃないだろうか。


 どくん、どくん、心臓が嫌な音を立てる。

 どうやらもうひとりいるらしく、暗い声に応答があった。


「もうそんなになるのか……増えたな」

「百人……百人だよ……俺がこ……した女子」

「お前が安易に増やすからだろ、加藤」

「それでもさ……百人目のあの女……笑っちゃうんだよ……俺がまだ何も言わないうちに、高い悲鳴を上げて逃げてったんだよ……フヒヒッ……」

「お前の噂は裏で広まっていた……知っていたんだろ……」


 絶対殺人鬼だ……!


 あまりの恐怖にヨロヨロと後退りをする。

 背後にあった古い棚に足が勢いよくぶつかり、ゴン、と音が鳴る。


 中の人間の声が一瞬止まった。

 奥のやたら大きな頭の人影がゆら、と動いた気がした。


 まずい。


 わたしはさきほど殺人鬼の名前を聞いてしまっている。急いで逃げなくては。


 もつれる足を必死に進ませ逃げた。階段をかけ上る。幸い誰かが追ってくる様子はなかった。

 考えなしに階段を上ってしまい、出口である玄関からは遠ざかった。どうしよう。しかし冷静に考えると備品室には近づいていた。


 わたしはさきほどの体験から興奮状態に陥り、アドレナリンがドバドバ出ていた。

 こうなったら何がなんでも鍵を奪取して……宿題を持って帰る。


 転がるように走り、一度反対端に着いてしまい、そこからまた走ってやっと備品室の扉を開けた。

 埃っぽい空気が肺にきて、小さく咳き込む。


 室内はあまりに暗く、このままだと探せないので奥のカーテンを開けようとそちらへ向かう。足が何かを蹴飛ばして、ゴインと音がして何が倒れた。


 なんとか部屋の奥に行きカーテンを開けると、外の街灯が近くにあるようで、だいぶ視界がよくなった。

 振り返ると、アルミの大きなゴミ箱が倒れていた。さっきぶつかったやつはこれか。幸い中身は空だった。

 ゴミ箱を立たせて、端っこの邪魔にならない場所に移動させる。


 それから部屋の端にずらりと並ぶ古めかしい棚と向かい合った。引き出しがたくさんついていて、端から一年生、二年生、とシールが貼ってあるのを発見する。


 二年の棚を開けると鍵束が六つ、無造作に入っていた。もう少しちゃんと管理されてると思っていたので残念な気持ちがした。鍵をまとめている金属の輪にはやっぱりシールでAとかBとかクラス名が貼ってある。


 Dの束を手に取ったそのとき、扉のほうでカチャン、と音がしてヒッと息を呑んだ。


 ガチャガチャ。


 誰かが───鍵をかけた?

 いや、鍵は中から開けられる。外から閉めても閉じ込めたりはできない。だとすると、今のは、開けようとした……?


 髪の毛が逆立つような感覚で、一瞬で背筋が寒くなった。もう心臓はパレードの太鼓ばりにドコドコ鳴っている。


 しかし、いつまで経っても扉は開けられる様子はなく、それ以降はまた再び静寂が戻ってきた。

 そっと扉に向かい、震える手でドアノブを捻る。そのままゆっくりと開けてみた。


 誰もいない。


 わたしはホッと息を吐いた。

 大急ぎで部屋に取って返し、電気をつけて鍵束から自分の鍵の番号を探して抜いた。


 それを手に取ってから残りを戻し、すばやく部屋を出た。再びキョロキョロとあたりを見まわしたが、やはり誰もいなかった。

 しっかりと施錠する。


 もしかして……さっきのは殺人鬼の“カトウ“だろうか。


 それとも、東校舎に住み着く悪霊だろうか。


 そう思ったらもうたまらなくなって、猛ダッシュで一度も振り返らずに東校舎を出た。



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