第5話

「ということがあったんだけど信じる?」


 椎名は夕方の校庭のベンチに座っていた。


「事実だからね」


 困ったときに相談できるのはこの幼馴染しかいなかった。

 咲希をプールに突き落として孤立した自分にも、普通に接してくれている。


「俺は信じられない」


「私は見てたよ。君が咲希ちゃんに引っ叩かれてたところ」


 プールに突き落とされた咲希の怒りはすさまじかった。

 胸倉をつかまれて頬をビンタされ、さらに逃げてもプールに置かれていた塩素の錠剤を投げてきた。その投擲も正確で遠距離攻撃能力の高さを知った。

 咲希の怒りは当然だが、実際に溺れたのは椎名だった。普段は笑っている女子たちも、こういう時は徒党を組む。連帯感を持って椎名を攻撃するはずだ。


「メインレースで負けたからと12Rで取り返そうと思っても失敗するだけだよな」


「なに言ってるの?」


 できることといったら待つことだけ。処方箋は時間だけだ。


「まあ君の未来と引き換えに映像は撮れたことだし」


『こんな時にも、エネ、チャー、ジー!』


 大きな水柱の飛沫を背景に、花翠のバストショットが映っている。

 それはスマホに流れる映像だ。一ノ瀬静が椎名のスマホに送ってくれたのだ。

 花翠はその「ジー!」に合わせて全身を使って妙なポーズを取っている。それがGを表しているのだと理解するにしばらくかかった。


 ……いいのか、花翠にこんなことをやらせてしまって。

 冷たい表情のままふざけたポーズをとっているのを見ると、何故だか自分も恥ずかしくなる。 これが共感性羞恥というやつかと、動画を一時停止させた。

 画面のアップを見て、花翠の瞳にわずかにヴァイオレットが混ざっていることに気づいた。


「シュールだな。いや、その一言ですませていいのだろうか……」


 あのカットで撮影は終わった。続きが撮れる状態ではなかったが、なにより凪が満足していた。結局あいつは面白い映像が撮れればそれでよかったのだ。

 そのワンカットと引き換えに椎名は孤立することになった。光の届くことのない闇に落ちた。もともと持たざるものだった自分が、さらに失ってしまった。

 こうなれば教室の片隅で、光も影もなくのっぺりと生きるしかない……。


「私は何も言い訳をしなかった君を尊敬するけどな」


 彼女がこちらを見ていた。ブラウンの瞳にわずかに菫色が混じっている。どんなときでもこの幼馴染だけは同じ瞳を向けてくれる。


「あのままだったら咲希ちゃんは恥をかいてたでしょ」


「やっぱりそうだったのかな?」


 あの時見た咲希の足の震えの理由。カフェイン入りのエナジードリンクを飲まされ続け、あのぴりついた雰囲気の中、トイレに行きたいと言えなかったとしたら……。

 椎名が咲希をプールに突き落としたきっかけはカナリアだが、彼女の異変を察知したからこそ体が動いたのだ。


 あの瞬間のことを覚えている。椎名のキックを受けて咲希が体を弓なりにしてプールに落ちていく。そしてその瞬間に思わず笑ってしまった花翠。

 氷の微笑を初めて見た。彼女の表情がいつも冷めているのは、笑顔が似合わないからではなく、ウインドーに飾られていないだけだった。それを購入できたのは椎名だけだ。あの笑顔が映ってなかったことに、寂しさと同時に優越感を得ていた。

 あの時見せた笑顔は一瞬で、映像には残されず消えた。


「私だけはわかってあげるから安心して」


 彼女はエナジードリンクを渡してベンチから立ち上がる。


「俺は少しクールダウンしてから帰るよ。これが夢だったという可能性もあるし」


 映研のメンバーとしてプールの片付けもしなければならない。


「じゃあ、またね」


 彼女は立ち去ったが、椎名はスマホを凝視していた。

 スマホのニュースアプリに速報記事が流れていた。


『ダイアモンドアイ骨折』


 そして引退することになる。なぜならあのカナリアが教えてくれたからだ。


 椎名はがばっと立ち上がる。やはり幻覚でも幻聴でもなかった。あのカナリアは存在する。カナリアの言うとおりにしたからこそ、咲希のプライドは守られたのだ。


 だがどうして? あのカナリアはなんで未来を知っていた?

 スマホ画面に手が触れてしまい、止まっていた動画が動き出す。

 映像は大騒ぎだった。プールに突き落とされた咲希を助ける花翠と静。呆然とへたり込む椎名。フェンスの向こうの悲鳴。

 そんな騒がしい映像の片隅で、何かが墜落しているのが映っていた。

 ……あのカナリアだ。

 映像の中でダッチロールしながらカナリアが消えた先には……。


 椎名はスマホをしまい、夕暮れのプールサイドに足を踏み入れた。

 異臭がした。何気なくプールの水に触れ、あまりの熱さに手を引っ込める。

 プールが熱湯になっていた。さらにコースを区切る浮きがスライムのように溶け、薬品の嫌な臭がする。プールサイドに置かれた塩素の錠剤は真っ黒だ。

 なんだこれは……。


 汗が止まらない。視界の端で何かがうごめいている。恐る恐るそちらを向くと、それは蛇のようにのたうつビート版だった。それはぐねぐねと歪に変形してやっと動きを止める。


 うめき声が聞こえた。……音源はプール倉庫。墜落したカナリアが消えた場所だ。

 椎名は炭化した塩素剤を踏みしめ、引き寄せられるようにそこに向かう。

 逃げるべきだという警告が頭に響いていたが、それでも視線を外せない。

 半開きになった倉庫の扉に手をかけ、大きく息を吸い込んでから開け放つ。


 ……カナリアはいなかった。


 倉庫の中にいたのは少女だった。


 めちゃめちゃになった道具の上で少女が倒れている。……それも裸だ。


「お、おい……」


 椎名が固まっていると、少女の目がぱちりと開いた。


「ん、え、あ? ふふ……」


 裸の少女が声を漏らした。


「ふふふ、ははは、あはははははははは!」


 笑っていた。理解が追いつかずに椎名は後ずさる。やはりこいつは悪魔か……。

 と、いきなり少女は跳び上がった。


「やったー!」


 少女はこぶしを突き上げると、そのままクルッと回転した。

 情報が多すぎる。悲鳴をあげられるよりはマシだが、真っ裸で喜ぶ幼女はよくない。こんな場面を見られたら、いや、そもそもなんで裸の少女がこんな場所に?


「成功したぜーい!」


「……ん?」


 その声はあのカナリアと同じだった。画面でこの用具室に墜落したカナリア……。


「なあ、カナリアを見なったか?」


「見てないけど?」


「じゃあカナリアはどこに……」


「だって、それ私だもん」


「カナリアが、君?」


 まただ。さらに複雑な情報が増えてしまった。


「そうよ、私はあのカナリア」


 少女は平然と答えるが、そんなことはあり得ない。

 そもそもぼさぼさ髪の少女は、カナリアというよりもカラスじゃないか。


「色々とすっとばして質問するけど、なんで君はここにいる?」


「私はママを助けに来たの」


「ママ?」


 質問を積み重ねてもまったく理解できない。棒を積み重ねるたびにグラグラ揺れて複雑になるジェンガのようだ。

 とにかく情報の整理が必要だ。彼女は自分をカナリアだと言う。

 ……とりあえずそれを受け入れよう。情報の積み木を崩してはならない。


「君がカナリアだとしたら、いったいどこの木の枝から飛んできたのかな?」


「未来から」




※次回更新は明日11/1です

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