第4話

「うおおおぉい!」


 会話を遮ったのは怒声だった。見るとカチンコを持った凪の表情が変わっている。


「あ、スイッチ入っちゃったよ」


 静が首をすくめる。凪は映像を撮るときは人格が変わってしまう。

 咲希と花翠は静に促され持ち場に戻っていく。


「チャンスは一瞬だから、ふざけた音声を入れるなよ」


 凪はフェンス越しのギャラリーをも睨みつける。

 先ほどまでゆったりとしていた空気が一変してしまう。それほどに凪の迫力がある。


「余計な緊張感を出しやがって」


 一ノ瀬凪の映像の撮り方は、椎名などのアシスタントやギャラリーを威嚇して緊張感を出すという、とても古臭い日本映画界の悪しき風習を受けついだやり方だった。

 演者として来ていただいている花翠と咲希には直接なにも言わないが、二人は現場の雰囲気を感じ取り緊張の色が見えた。


「この映研は古臭い同好会だった」


 古臭い平成野郎はお前だろ、との言葉を椎名は飲み込む。


「まず女性禁止だった。なんでかと思ったら部室でAV見てるだけだった。だから僕が変えたんだ。乗っ取った。僕はこれから健全でいて文学的な映像を撮っていきたい」


「でもさ、文学的な映像ってエロが入ってるよね」


 椎名は隣にいた静に耳打ちする。


「だいたい文学作品ってエロ入れるからね。名画座とか見ててもそう」


「高尚な映画って途中で飽きるけど、そのあたりで脱いでくれるんだよな」


「文学作品の地味な女の子が脱いでくれるの、なんだか得した気になるよね」


 静は軽い下ネタなら笑顔で返してくれる。


「そうそ――」


 カチンと音に椎名と静は持ち場についた。こちらを睨む凪の目がもうやばかった。



 ……そして始まった撮影は過酷だった。


「はいカット」


 カチンと音が響く。何度目かわからない冷酷なカチン。


「飛行機とステップのタイミングがずれたね。あと花翠さんは、自分で判断しないで何があっても最後のポーズと決め台詞まで言って。そして……」


 凪が指をさしたのはギャラリーだった。


「次、シャッターの音が聞こえたら、ぶっ殺す」


 凪の鋭い表情にスマホを向けていた女子が凍りついた。この男のすごいところは女子に媚びないことだ。女子に嫌われることよりも映像に重きを置いている。


「人を撮ることに許可がいることを知れ。僕は作品を撮っているけど、君のは盗撮だ」


 ギャラリーは静まり返り、校庭の運動部と蝉の声だけが聞こえた。


 そして演者の二人にもプレッシャーがのしかかる。もともと静かな花翠の表情の温度がさらに下がり、いつでも快活な咲希は緊張していた。

 調布飛行場からの小型機が見えたタイミングでステップを踏んでからエナジードリンクを飲むという咲希の役割。ただ静かに座っている花翠とは違って労力があった。そして数回のカットを繰り返して、いったい何本ぐらいのエナジードリンクを飲んだことだろうか……。

 咲希が何かを言いたそうにしているのが見えた。


「来たよ」


 静が空を指さし、凪がうなずく。


「五秒前。4、3、2、1……スタート」


 カチンと音が鳴った。

 飛び込み台に座った花翠が素足でプールをなでる。ただそれだけで絵になった。

 飛行機の飛ぶ青い空を背景に咲希がステップを踏む。セーラー服のスカートがふわっと舞い、花翠から渡されたエナジードリンクを一気に飲む。これは夏だ。ただ夏の表現……。


「カット」


 冷酷にその夏はお蔵入りとなった。


「タイミングはよかったけどカラスの声が入った。小鳥の声だったらいいけど、カラスは駄目。あと、やっぱり花翠さんの決めポーズはバージョン7にしてみよう」


「バージョン7ってなんだよ。こういうのって適当に落としどころを決めるべきだろ」


 レフ板を持つ椎名も疲労していた。だが、それでも凪の作った雰囲気にのまれていた。少しでも完ぺきな絵を撮りたい。完全な夏を映像として切り抜きたいという欲求。


「次のタイミングを待って。その一瞬を待つの。……それまで動くな」


 凪の声は穏やかだったが、有無を言わせぬ力があった。もはやギャラリーも声を発しない。皆で次のタイミングを待っている。どんなに日差しが強くても誰も動かない。

 夏というのは失われる状態の表現だ。その一ページを映像として残したい……。

 積乱雲の浮かぶ空。湿気を含んだ重い空気の中で椎名たちは飛行機を待った。


 その時、何かが空を横切った。飛行機ではない。……それは鳥だった。

 ごくりと唾を飲みこむ。誰もその鳥を気にかける人間はいない。


 黄色いカナリアは空を周回すると、椎名の背後のフェンスにとまった。

 ……あのカナリアだ。椎名に命を救われ、そして自分をストーキングする小鳥。

 校庭からの運動部の掛け声がなくなっていた。

 うるさかった蝉の鳴き声すらも凪いだ瞬間……椎名はカナリアの声をはっきりと聞いた。


『蹴り落とせ』


 そう喋るのだ、このカナリアは。


『ここであの子をプールに蹴り落とせと言っている』


 振り向けなかった。命を助けてからずっと自分につきまとうカナリア。


『聞こえてるんでしょ。お前に言っている。やらなければ悲劇的な結末になる』


 喋るだけではなくダイアモンドアイの未来も予言した。

 そのうえ飛べるとなると、こいつは天使か悪魔か……。


「なんで蹴り落とす必要が……」


『いいからやるのよ。でないとあなたの目をこのくちばしで潰すわよ』


 空を見上げると飛行機が飛んでいた。カチンコの音が響き花翠の素足が動きだす。

 そしてその時、咲希のわずかな足の震えを、椎名は見た。

 違和感があった。あの足の震え、咲希の青ざめた表情。

 もしかしたら咲希は……。


『いけ!』


 カナリアの声より前に、レフ版を投げ捨て椎名は走っていた。

 目に映るすべてがスローモーション。

 咲希のこわばる表情。驚く一ノ瀬静。

 エナジードリンクの缶を持ったままこちらを向く花翠。


 椎名のドロップキックで咲希がプールに吹っ飛び、大きな水柱が立った。


 その一瞬、咲希を蹴り落とした椎名と花翠との目が合った。

 それは本当に一瞬だった。花翠が吹き出すように笑った。

 そしてはっと我に返った花翠は冷たい表情に戻り、エナジードリンクの缶を手にして最後のポーズと決め台詞を言った。


「カット!」


 凪の声に固まっていた時が動き出す。

 ギャラリーから悲鳴が起こり、溺れていた咲希が花翠と静によって助け出されている。その横では凪が目を輝かせてガッツポーズをしていた。

 だが椎名は止まったままだった。ただ呆然とプールサイドに膝をつく。

 フェンスのカナリアは消えており、青い空の飛行機も見えなくなった。




※次回更新は明日10/31です

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