第2話

 ダイアモンドアイが墜落した。


 兵庫県宝塚市における事故アクシデント、椎名はそれを東京都府中市で聞いていた。


『ダイアモンドアイがバランスを崩し落馬が発生! 場内に悲鳴が起こる中で空馬のダイアモンドアイが失速し、完全に止まってしまいました……』


 血の奇跡と称されたサラブレッド。

 騎乗を任された女性騎手のコメントがとてもふるっていた。「どれほど高性能のスポーツカーに乗れるのかと期待していたらジェット機に乗せられていた」と。

 まさにダイアモンドアイは走るのではなく飛んでいた。


 そんな馬が、止まった。



「まじめにやってよ!」


 いきなり椎名の耳のイヤホンが引っこ抜かれた。


 目の前で怒っているのは、半そでワイシャツ制服姿の一ノ瀬凪いちのせなぎだ。


「映像を撮る世界ではアシスタントは奴隷なんだよ。こんなときに競馬中継なんて聞いてたらぼっこぼこのめっためただよ!」


 凪がカチンカチンとカチンコを鳴らしている。


「先輩、アイが、負けました」


「……あー、あの可愛い女の子が乗ってる速い馬? じゃあ菊花賞での三冠やばい感じ?」


「菊花や有馬どころじゃないんですよ。放牧させずに欲かいて宝塚に出すから」


「それが勝負レース。未来がわからないからギャンブルがあるんだから」


「いや、俺は知っていたんです」


 ダイアモンドアイが負けること。さらにこの故障が原因で引退することまで……。


「馬券当てたってこと? だったら映研の部費に寄付しろよ。入れやがれよー」


「チンピラっすか? 俺は真面目な学生なんで馬券は買ってません……」


「府中市民としてダービー馬の敗北はとても残念に思うけど、今は現実を見て」


「今撮っているのは空想ですけどね」


 凪が耳元でカチカチカチカチ鳴らして不満をアピールしている。


「椎名は映画研究会の部員でしょ」


「幽霊部員ですけどね」


「今回の企画がうまくいったあかつきには、次期部長の権利を与える」


「謹んで辞退いたします」


「まず君はレースの結果よりも同好会の未来を気にするべき」


 一ノ瀬凪は小柄で華奢な体つきだが、同好会のことになると面倒な男なのだ。

 将来は映画監督になりたいと断言し、崩壊しかけた映像研究会を乗っ取ったはいいが部員が足りず、椎名は強引にメンバーにされたという経緯がある。


「先輩、俺に悩みがあるって言ったら聞いてくれます?」


 今の椎名は目の前のこの藁にもすがりたい気持ちだった。


「それを解決したって別の悩みが出てくるんだって。恋愛とかテストの点数とか、はたまた自分探しとかぼやっとしたものまで出現する。なあ、椎名は自分を探すなよ。そんなこと言いだしてインドの奥地に行ったままの知り合いがいるんだから」


「今回はちょっと深刻なんですよ」


「悩みを解決する方法はたった二つ。『屋上から空に跳ぶか、手首を掻っ切る』だけ」


 こいつは死ねと言っているのか。


「この部に入ってから歯車が狂っている気がするんです」


 ラジオの周波数を変えると、ちょうど神宮球場でのデーゲームが終わっていた。


「ほら、スワローズの連敗も止まらず、今日の結果で最下位です。カープに落とされました」


「スワローズの転落を映研に押しつけんじゃないよ」


 凪に携帯ラジオを奪い取られてしまう。


「こんな日曜に活動してる同好会なんて俺らと園芸部ぐらいのもんですよ。旧校舎でBB弾撃ちまくってるあいつら」


「あのBB弾、自然に戻る素材でエコらしいよ。花の種が入ってて撃ち合ったあとに花畑ができるんだってさ」


「エコって言えば許されると思ってるんだ。あいつらサバゲー部じゃ許可が下りないから園芸部にしてるんだよな。凪先輩だってやり口が同じだよ。北極のシロクマを助ける署名でエコだからちょっと名前を書いてみてよ、とかでメンバーだもんな。詐欺だよ」


 一ノ瀬凪は中性的な顔つきだ。そんな先輩に優しく微笑まれ、簡単に署名してしまったことが悪夢の始まりだった。


「環境保護映像を作るのも活動の一環だから騙してなーい。それに悪い話じゃないだろ。ほら、そのおかげでいいシーンが見れる」


 凪の視線の先にはプールがあった。そしてプールサイドで佇む氷と炎。

 高坂花翠と久遠咲希。

 対照的な性格の二人の雰囲気はいい。

 咲希は楽しそうに笑い、花翠は氷の仮面のままだが穏やかに見える。


 これはエナジードリンクの販促映像を撮っている現場だ。凪の同級生の兄が営業をやっているらしく、この学校の自動販売機でも売ることになったらしい。

 その販促を受け持ったのがこの映研だ。


「飲んでみたけど、あれまずかったですよ。炭酸飲料ならペプシ飲んだほうがマシじゃないっすか? 就職の時にAppleが拾ってくれるかもしれないし」


「それジョン・スカリーだけのエピソードだろが。あいつは別にペプシがぶ飲みしてたからリンゴにヘッドハンディングされたわけじゃないからな。僕はただ映像を作りたいの。宇宙が誕生してからたった一回しかない場面を切り抜きたいだけ」


 十秒間の映像を撮ろうという話だった。


「このエナドリがまずくてもミランダ・カーとかジェマ・ワードが宣伝してたら許すじゃん。同じくあの二人が飲んだということに付加価値がつくの」


 すべてがインスタントの時代。この世界は莫大な情報が氾濫しているゆえに、与える側も受け取る側もシンプルでなければいけない。

 そしてそんな情報の受け渡しで作られるインスタントな人間関係。


「どうせバズりもせずに消えますよ」


「結果が出るかわからないから撮るんだよ。目の前の一瞬の断片を拾い集めることが僕らの仕事。それを未来に運べたら素晴らしいでしょ?」


 こいつはたまにいいことを言うのでやりづらい。緩急というやつか。


「映像は言葉よりも雄弁であることを信じてる。そのためにあの二人を呼んだんだしね」


 その十秒間に光を与えるために、あの二人に頼んだらしい。


「でも、二人はミランダでもナタリー・ポートマンでもなくて、ただの高校生ですよ」


「だからいいんだよ。高校生という演技はどんな女優にも負けない。だって本物だから」


 カジュアルな真夏の風景と高校生。確かな本物リアルがそこにあった。


「これも僕の人脈と人柄のおかげ。なによりも土下座が効いたなあ」


 映像のためなら何でもやるところは尊敬するべきか。


「あと、静が間に入ってくれたし」


 二人の配置などを指示している女子は、同好会の部員であり凪の双子の妹の静だ。

 凪は三年で椎名の先輩だが、静のほうは同学年だ。双子でありつつ別の学年という特殊な理由は四月一日の深夜に生まれたからだ。先に凪が生まれ、午前零時を回った瞬間に静が生まれたという奇跡。

 そんな数秒の差で、凪と椎名の不条理な地位が決定された。


「今日は咲希ちゃんの陸上部の大会もないし、花翠ちゃんの生徒会の集まりもなく天気もいい。つまり舞台は整ったザ・ステージ・イズ・セツト!」


 凪がびしっと空を指さす。同好会存続の実績作りはこの映像にかかっているという。


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