不変

北海ハル

不変

『ご乗車ありがとうございました。札幌、札幌です』


 ぷしゅう、と音を立てて北斗の扉が開く。

 肩から提げたボストンバッグの紐が軋む。

 どかどかと降りて行く人の波の中、私は一人揺られながら出口へ向かった。


 札幌へ電車で来るのは、実に六年ぶりだ。

 駅構内を歩くのも六年ぶり。

 駅前の人の賑わいを見るのは、最後に車で来た四年ぶりだろうか。

 初秋の時期を過ぎ、いよいよ北海道らしい寒さを迎えつつある駅前は冬着の人々の雑踏で溢れている。みな一様に首元を押さえながら、上着の隙間から入り込む冷風を防いでいた。

 こうして見ると、六年の歳月はあまり変わっていないように思わせる。


 でも、違う。


 私の記憶に、鮮烈に、残酷にその景色を最後に残したのは、十一年前まで遡るのだ。


 私は、私は​────


 〇


 十一年前。


 愛猫が亡くなり、実家のある函館のペット霊園へ行き、埋葬をしてから札幌へ戻ってきた数週間後。


 親が辞令を受け、急遽札幌を離れることになった。

 私が十一歳の頃の話である。

 五年の月日を重ねた札幌への愛着は、当時の私にも幼いながらあった。


 思い出の公園で遊んだことや、学校のみんなと遊んだこと、そして​────そして、親友とも呼べる友との別れのことを考えた。


 しかしながらそれは、大人の事情の前では実に無力で儚く、ただ「親の都合」という理由で転校に向けた手続きが着々となされていった。

 女子は口々に「元気でね」と、男子は照れたように「ずっと友達だぞ」と、私に言ってくれた。


 私もずっと友達でいたかった。

 でもそれは、時の流れの前には抗えぬ、記憶という砂上の砂粒に過ぎなかった。


 漠然とした言葉での契りでは、砂粒は溢れていく。

 明確な繋がりでなければ、砂粒と私を離さぬものにはならなかった。


 〇


 二十二を迎え、改めて札幌駅を見ると目線が変わったな、と思う。

 私は高校の頃、二回ほど部活動の絡みで札幌へ来た経験がある。

 結局その時は懐古的な気持ちよりも部活動でのテンションの高さが勝り、あちこちをふらついて遊んでいた方が楽しかった。


 ただ、私の記憶には「小学校時代の札幌駅」の方が色濃く残っている。


 幼く、儚く、それでいて鮮烈で明確な。


 初めての経験とは、時が経っても色褪せず、記憶に焼き付いて離れないものである。

 小学校時代の私の目線と、二十二になった私の目線は、高さが違うし見えるものの広さも遥かに違う。

 そこに正しさも間違いもない。


 ただ、変わらないものに対する感受性と変わってしまったものに対する気持ちは、今と昔では全く違うものとして私の前に現れる。


 ぴんぽろ、ぴんぴん


 私の携帯が不意に鳴った。


 ポケットから携帯を取り出し、画面を見る。


 そこにはただ、一文だけ。

『​───着いた?』と。


 〇


 引越しを明日に控えた日、私は一人の親友と、いつもと変わらず、何も変わらず、ただただ普通に公園で、彼の家で遊んでいた。

 そこには「明日引っ越すんだ」という異質的な事実は無い。彼にとって私の引越しは、今、目の前にいる私には無かった。ただ、いつもの私として、私と接してくれた。


 引越しを明日に控えた夜、私のもとへ一人の親友が訪ねてきた。

 手元にはマグカップがあった。私が引越すにあたってプレゼントしてくれたものだった。彼にとって私の引越しは、今、目の前にいる私とは永続的な別れになってしまうものだったのだろう。

 私は、ただ「ありがとう」と、「友達だよ」と返した。


 さて


 改めて言おう。


 幼い子供の繋がりは、漠然としたものでは離れてしまう。


 砂上の砂粒に等しく、親友の一人とは、もう、今現在、一切連絡が取れなくなった。


 それは仕方のないことではあるが、今でも悔いている


 あの時、どうして無理にでも会わなかったのだろうと


 〇


 幼き頃からの親友は、私との時間という距離感を強引に縮めてくれる。


 それは数年ぶりの再会ではない。「また明日」の延長線上にある、再会とも呼べぬただの巡り合わせ。

 それは数年ぶりのやり取りではない。「じゃあ」の延長線上にある、久しぶりとも呼べぬただの挨拶。


 彼からのメッセージを受け取り、私の胸の奥が熱くなる。


 彼はいつも、何年経っても、どれだけの期間が開こうとも


 こうして、私と彼が別れたあの日から変わらず、本当に、何も変わらず、あの日のままの君で言葉を返してくれる


 変わりゆく街並みと変わりゆく目線の中、彼だけは、あの時の私の中の彼だったのだ。


「着いたよ」と返し、続けて「いま南口」と送る。


 彼は「おっけー、じゃあそっち向かうね」とだけ私に送ってきて、そのまま携帯は静かになった。


 なぜ


 なぜなんだい


 なぜ君はそうして、長い時の中で変わらず、私の知りうる君のままでいてくれるんだ


 〇


 引越しをしてから数年後、札幌へ遊びに行くことになった。

 親友との再会を喜ぶ私は、沢山の土産を買っていってやろうと函館の土産物屋をうろうろした。


 長い道のりを経て、三〇〇キロ弱。

 私が元々住んでいた近くの場所へ行き、二人の親友へ電話をした。


 一人は「会おうよ!」と、すぐに言ってくれた。あの日、引越し前日の私といつもと変わらぬまま遊んでくれた、彼だった。


 一人は出なかった。留守番電話に来た旨を残し、彼の家の前へ土産を提げて後にした。


 彼とひとしきり遊んだのち、夕方になってきたので別れる時間になってしまった。

「じゃあね」と言うと、彼は「またね!」と返した。

 またね​───呪縛でもあり、再会を確信した言霊でもある。

 今にして思えば、彼の言葉に深い意味は無かったのだろうが、それでも私には、今の私には、その言葉が何よりも嬉しかった。


 〇


 南口の前で立っていると、緊張して腹の底がむずむずしてきた。

 過去、何年ぶりに会うというシチュエーションは何度も経験してきたが、こうしてお互いに成人した今だと話の間が保つかだとか、そういうくだらないところの心配に至ってしまう。

 ああ、やっぱり会うだとか言わない方がよかったかな。向こうも小学校の頃の友人なんか会いたいと思わないだろうな​────などと考えていると、後ろから両肩をドンを叩かれた。

 ぎょっとして後ろを見やると、そこには、そう。


 何も、何一つ変わらない

 あの頃のまま、瞳に輝きを持って

 誰かを疎ましく思うような、そんな表情を全く持たない

 まるで私と会うのは、そんな変わったことでもないような


 不変の


 不変の君がそこにいたんだ。


 〇


 高校三年の夏に、再び札幌へ行く用事が出来た。

 こちらは就職、上京を確定させつつある身で、ある程度の余裕はある。面接対策、履歴書書きと、その対策は前もって出来ていた。

 しかし相手は大学に行くかどうかも分からない状態であるから、今回ばかりは声をかけようか悩んでいた。

 結局声はかけた。


 一人は「いいよー」と言ってくれた。引越す日も、数年ぶりの再会の日も、何も変わらず私と接してくれた彼だった。


 一人はもう、分かっていた。

 彼から、もう一人の親友は悪友ができ、家を空けることがしばしば増えたこと。もう、関わりが殆どないこと。そもそも、あの家にいるのかどうかすらも分からないこと。


 再び、関係性を繋ぎ止めておくことの重要性を考える。


 砂上の砂粒も、細くとも確実な繋がりを持っておけば、砂粒はやがて他の砂粒と結合して、緩まぬ大きな塊へと成る。


 彼と私は、見事にそれを成したのだ。

 十一年経った今でも、その関係性を維持している以上、この事実は紛れもなく本当だ。


 久々に会った彼もまた、やはり何も変わっていなかった。

 久々ということも、私が遠く離れたところにいることも、何もかも意に介さぬようにして、私と接してくれた。


 でもやはり、それが不思議だった


 どうして君は


 どうして君はあの日から変わらず


 私の知る君と変わらないんだ、と


 彼は大学に行くことを決めたらしい。

 大事な時期に時間を割いてまで、私と会うことを選んでくれた。


 〇


「おっす!」彼の元気な声が耳元で響く。

「うるさいよ!」と返すが、内心は嬉しくて仕方ない。表情にも出ていたようである。彼はにやにやしながら私の顔を見た。


「で、どうする?」と彼は私の顔を覗き込む。今回声をかけたのは私だ。飯を食おう​───と。

 ならば決定権は私にあるし、決めねば困るだろう。

 私は彼に言った。


「居酒屋行こうぜ!」


 〇


 上京して以降、彼とはコンタクトを取らなくなった。


 別に忘れたわけでもなく、彼とは親も何も介さない確実なコネクションを持っていたために、いつでも連絡は取れたのである。


 それでも取らなかったのは、一つの感情からだった。




 ​──── 恐怖​ ─────




 彼が変わらず私と会っているのは、ひょっとして惰性ではないかと


 彼としては私の存在は疎ましく、うざったいものではないかと


 できればもう、関わりあいを持ちたくないのではないかと


 そんな事を目まぐるしく考えていると、なんだか取り留めのない事でも連絡をするのが酷く怖くなってしまった。


 せっかくの連絡手段なのに、と親は言うが、この気持ちは私にしか分かるまい。


 十年も前に別れた奴が、未だに会おうと言ってくるなどというのは、傍から見れば異質極まりないのだ。


 それを彼がどう思っているのか


 それを問い質すのが、とても怖かった


 〇


 居酒屋に着いて早速、私と彼とでビールを頼んだ。


 小学校からお互いを知る友人と酒を酌み交わすのは、なんだか気恥しい。

 ポリポリと頬を掻いていると、すぐにビールがやってきた。


「じゃあ」とお互いにビールを掲げ、グラスをカシャンと鳴らす。「乾杯!」


 それからは酒の勢いもあり、話も弾んだ。

 仕事の話、就職の話、東京の話、これからの話…


 話は弾むものの、やはり私の心には翳りがある。


 少し考え込んでいると、彼が「どうした?」と聞いてきた。

「いや……」と返すが、もう一歩、言葉が出てこない。


 言ってしまったら


 聞いてしまったら


 返答次第では、彼と私の繋がりは、ここで途切れる


 それは嫌だ


 でも、それでも、もし、だって……


 ぐるぐると疑問符が回る頭は酒の力もあって、より回転を加速させる。


 分からぬ。何も分からぬ。


 彼の、君の、あの日の君の、あの日のままの君の


 心境が、感情が、気持ちが、私に対する想いが


 君は不変なのか、それとも私が見ぬ間に変わっているのか


 何もかも分からぬ


「お前は​──────!!」

 言いかけた言葉を飲み込む暇はない。私の想いは、叫びのような疑問となって彼へとぶつかった。

「どうして、あの日と変わらない?俺はこんなに変わってしまった。それでも、そんな俺でも、どうしてお前はあの日のように、何も変わらず、変わってしまった俺と……!」

 言いながら涙が溢れてきた。


 これは、今の彼への感情。


 昔の彼への罪悪感。


 そして、私自身への呵責。


 言葉に詰まり、涙がぼろぼろと流れてくる。止まらない。

 聞いてしまった。もう戻れない。この先にある言葉は、きっと俺を戻れないところまで変えてしまう。


 ぐっと机を睨みながら黙っていると、彼はやはり、あの日と変わらぬまま「いや、変わってないよ」と言った。


「変わってない。俺はお前が変わってないと思うよ。でも俺は自分が変わったと思う。でもお前は俺が変わってないように見えるんでしょ?そういうことだよ。お互いに自分は変わってしまったと思っても、相手にとっては変わってないと見えるんだ」


 彼は続ける。

「あとなんで会うの?って聞かれてもなあ……。そりゃあさ、久々に会うんだから嬉しいじゃん。変わってないとはいえ、色々と経験している相手の話も聞きたいし。何よりさ​────」


 私は、俺は、顔を上げた。

 俺の顔は涙でぐしゃぐしゃだったし、視界はぼやけていたけど、彼の笑顔は、今の私を見つめる、あの日の彼の笑顔だった。


「​────親友じゃんか」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

不変 北海ハル @hata

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ