最終章
彼女は用意も良かった。既に包丁を持っていたのだ。拳銃は盗むとお巡りさんが困るらしくて、と付け加えもした。
日の出までもう時間が無い。俺達は悔いの無いように、最期の言葉を交わしあった。
「別に明日でも、明後日でも良いんだよ。私はまだ暫く血を吸わなくて良いし」
「良いんだ。別に悔いなんかないし、それに」
「それに?」
「消防士にはなれなかったけど、ここでお前を殺せば、少なくともお前に殺される人間は居なくなるんだろ」
「そうだね、そういう事になる」
「最期に人を救えたって事で、そのぐらいで満足しておくさ」
「ふふ、なにそれ。まあ、私も……」
彼女はそこで一旦言葉を詰まらせた。そう、俺と違って彼女は生きていたかったのだ。本当は、別の形で。こっちからも確認する。
「やめるか?」
「……いいや。きっとこんな機会、二度と無いもの。私を殺してくれーなんて、言っても今まで誰も相手にしてくれなかったし。君みたいな人に殺されるなら、それで良いんだ」
既に空がほんのりと、黒から暗い青へと変わり始めている。彼女が俺に包丁を握らせてくる。手の温もりは感じない。彼女は既に死んでいるのだ。
「こういう時は刃を横にしてだね……」
「肋骨に当たるからだろ?」
「ふふ、それも小説の知識かな?」
彼女が俺の手を引き寄せてくる。
「……そのまま、その位置だよ」
「…………」
「…………くっ」
包丁の刃は滑るようにして、吸血鬼の体を切り裂いていった。生気を感じさせない感触の中で、唯一動くものがあった。ゆっくりとそれに包丁を突き刺すと、彼女の力ががくんと抜けて、俺の方にもたれ掛かってきて――唇が、触れた。その姿勢すら保っていられずにずり落ちていく彼女の体を、慌てて抱きかかえる。手放した包丁がカランと音を立てて落ちた。
「…………初めてだった?」
「ああ、そうだよ」
「……素敵」
それを最期に彼女の体から、完全に力が抜けた。
後は、俺だけだ。
男子高校生と身元不明の女の飛び降り自殺は、直後には不思議な事件として一斉にテレビや新聞で報道されたが、警察の捜査が全く進展しなかったこともあって続報も流れず、動機も関係性も不明の無理心中として最終的には処理された。それを知った人間の反応は様々だったが、大半は不純な動機を勝手に想像し、そして翌日には忘れた。全く理解が出来ずショックを受ける人達も居た。
こうして、一つの死と生が人知れず、ささやかに終わった。これが若者特有の早とちりな心中であったのか、それとも一種の駆け落ちとでも言うべきなのか、その価値を知る者はもう、居ない。
Dead and Alive @Char0803
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