第五章
出会ってからずっとそうだったが、会話の主導権は常に女の方にあった。終わりを切り出すのも、そちらの方が早かった。
「……夜明けまで後、一時間ぐらいかな?」
「……ああ」
夜が明けてしまえば、流石に俺がまだ家に帰って居ないことが警察に通報されるだろう。捜索もされる。あるいはもうとっくにされているかも知れない。逃げ隠れすれば時間は稼げるだろうが、そんな事はする必要は無い筈だった。俺は死にに来たのだ。
「とっても、とっても久々に沢山、楽しく人と話したよ。君もそうかな?」
「……ああ」
お互いに、顔は合わせずに夜景を眺めながら話を続ける。
「生きていればきっと、こういう楽しい事がまたあるかも知れないよ?」
「……ああ」
確かにそうかも知れなかった。だが、その楽しい事には重大な物が足りていない。
「大人になってしまえば、親との関係なんて切ってしまう事も出来るし」
「……ああ」
それはここに来る前に何度も考えていた。しかし諦めた。俺は母さんと父さんを憎んじゃいない。ただ、女が既に言った様に、俺のタガは既に外れてしまったのだ。実のところまともに思考が回っていないのかも知れないが、もうどうでもいい。
それでも彼女は言葉を続けようとしていたので、俺はこの場で初めて話を遮った。
「……昔、まだ幼稚園に通っていた頃」
「……うん」
「イベントがあったんだよ。働く乗り物が何とかって奴で、救急車とか、ブルドーザーを広場に集めて子供に触れさせるんだ。俺は消防車が好きで、そればっかり見てた。消防活動のビデオもずっと見てた。何回も繰り返し。人を救う仕事ってのが、まるで戦隊ヒーローみたいでさ」
「……よく両親が許してくれたね?」
「その頃は普通の家だったんだ。母さんと父さんが笑う事も多かった。小学生になってから、二人の仲は段々悪くなっていった。元々良く考えて結婚したんじゃなかったんだろう。ちょっとした事で性格の違いがどんどん出てきて、俺の前では隠してたけど、喧嘩してるのはバレバレだった。だから、頑張らなきゃなって思ったんだ。俺が学校で良い点取ってくると、その時だけは口を揃えて褒めてくれるからさ」
女が少しだけ息を飲むのが聞こえた。
「頑張ったんだ。いつの間にか俺にも苛立ちをぶつけてくるようになってたけど、頑張ったんだ。いつか何か奇跡が起きて、あの頃に戻るんじゃないかって」
「……うん」
「それで良い高校に俺は入った。もちろん勉強は欠かさなかった。でも授業で将来の進路を考えろって言われた時、俺は咄嗟に消防士になりたいって思ったんだ」
「……うん」
「思い切って父さんに話したらぶん殴られた。その後で母さんは泣き落としにかかってきた。もっと将来性のある仕事がいくらでもあるって」
「……」
「俺ももう殆ど忘れてた記憶を、二人は全く覚えてなかったし、戻そうとするのは無理だって分かった。二人はただ出来の良い息子が居るって事実で、憂さ晴らししたいだけだったんだ」
理屈じゃない。俺にタガという物があったなら、それはその時外れたのだ。そしてもう外れた物は戻せない。女が人間にもう戻れないように、俺はこのままでは俺に戻れなくなるだろう。燃えている家から人を助け出す消防士の事を、格好良いと思うことも、いつしかなくなる。あの二人と、社会に飲み込まれてしまう。それに。
「……それにさ!」
「えっ?」
これは言いたくなかった。もしかしたら既にバレているのかも知れないし、正面から言うのは恥ずかしかった。だけど死ぬからには言うしかないし、だから勢いを付けて一気に言ってしまう事にする。ガバっと彼女の方に向き直った。釣られて彼女も同じ風にした。自然と視線が合う。
「……最期の時は、一目惚れした人と一緒が良いなって、今思った」
「……!」
以外にも、彼女はほんのりと顔を赤くしていた。そう言えば確かに年は行っているだろうが、生前は男を知らなかったとも言っていた。恋愛経験は実は大差ない――いや、お互い無いのかも知れない。どうやらそうらしい。あれほど魅力的に見えた紅い目が泳いでいるのが、何だかおかしかった。そしてやがて観念したかのように、彼女は下を向いてぽつりぽつりと言った。
「そっ、か……そう、だね。私は死ぬしかない。そして、君に殺されるなら――」
「――私も好きな人と一緒に死ねる、か」
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