第二章

 これから死ぬのに話なんかしてどうなるんだとは言わなかった。人間とは不思議なもので、死の寸前であっても知的好奇心はきちんと湧くらしい。非常階段の上に突然現れた女の話は気になるし、言われた通り、どうせ死ぬんだからまだ時間は全然ある。冥土の土産に教えてやろうなどと言い出す物語の悪役はよく見るが、聞く側も多少はありがたく思っているのかも知れない。そんな事を思った。


「まず私が吸血鬼である事を証明してあげよう」


 多分信じてもらえてなさそうだから。そう言うと女はふっ、と消えた。少なくとも俺の目にはそう見えた。かと思えば、足元から猫の鳴き声が聞こえてくる。黒猫だった。この状況なら流石に信じざるを得ない。少なくともこいつは、猫に化けられるのだ。俺が口をぽかんと開けている間に、女は猫になった時と同じように、何事も無かったかのように元の姿に戻っていた。思わず疑問が口に出てしまう。


「……コウモリじゃないんだな」

「人間が知っている吸血鬼の伝承はまあ……大体合ってるけど、間違っている物もある。私は猫が好きなんだよ。コウモリにもなれるけどね。これで信じてくれたかな?」


 俺は頷くしかなかった。そうすると階段を登る前は見えなかったのも、別の姿になっていたとか、目立たないよう遠くからは見えないのだとか、いくらでも理由はつけられそうだった。そうすると女は鉄柵に背を持たれかけて気さくに、じゃあ本題の話をしよう、と言った。


「君は何故死にたいのかな? さっきも言った通り、生物は簡単に死のうなんて思わない。生き続けていようと思う。それは理屈ではなく本能だ。それとも誰かが君を殺しに来るから先んじてとか?」

「……そんなに死にたくなるのが不思議なのか? 自殺する奴なんて別に珍しく無いだろう」


 そう聞かされた女はかなり驚いたようだった。出会って初めて紅い目を大きく開く。どうやらこいつは、現代社会の知識はあまり持っていないらしい。


「何でそんな事を?」

「何でって……ストレスとか、色々だよ。そんな事も知らないのか?」

「普段は人間と話す機会なんて無いんだよ。昼は寝て、夜は歩く。吸血鬼だって知られると大変な事になる時代もあったし。今は逆に、話しても中々皆信じてくれないけど。しかし、そうか、今は死にたいって思うことも普通なんだ……」

「……別に、死にたくて死ぬわけじゃない」

「え?」


 別に言うつもりは無かった。だが、これで何度目だろうか、思わず口に出てしまってた。吸血鬼の魔術とやらなのか? どうやらこいつには人を喋らせる何かがあるらしい。今度は困惑したような表情を女が浮かべる。


「生きていても、死ぬより辛い目に合うだけだから死ぬんだ。普通に死にたいなんて思う奴は居ない」

「君は奴隷なのかな? 確か最近はもう、奴隷は使わないって聞いたんだけど」

「奴隷でもない。ああもう、どこから説明すれば良いんだ……?」


 きっとこれまでの人生で最もアバウトな範囲の説明を、辛うじて俺は試みた。現代社会には色々とストレスがあり、一回ぐらい死んでみようかなんて考える奴は山程いるだろうという事を。ふと気がついたらアパートの一室で死んでいる奴の話、鉄道がどれだけのペースで人身事故を起こして止まるのか。エトセトラ、エトセトラ。

 それでも女は納得しようとしない。あまつさえ、こんな事まで言い出す始末だ。


「何となく君の話す内容は分かった。けど」

「けど?」

「私は君が何故死にたいのかを知りたいな。それが一番具体的な例だろうし」


 もちろん苛立ちはした。したものの、ここまで説明したのだから、という自棄にも似た思いが、俺に口を開かせた。

 親に良い大学に入るように言われている事。高校の授業を終えて、部活もせずに塾に直行して深夜まで勉強の日々。当然彼女なんか出来る筈が無いし、友達と呼べるのも数人だけだ。無駄な事をしている時間があったら勉強しなければ、天才でも何でもない俺は有名大学には入れない。

 当たり前の様に、俺はそれが嫌だった。ゲームがしたかった。彼女が欲しかった。学生生活を謳歌するとやらがしてみたかった。

 女は静かに俺の説明を聞きながら、何度かうんうんと相槌を打って、俺が話をし終えるとこう言った。


「つまり君の両親を何とかすれば良いんじゃないかな? 殺しちゃうとか」

「馬鹿、そんな事出来るか! 吸血鬼には常識すら無いのか!?」

「まあ、そっか。でも殺さなくても……ほら、説得するとか」

「……それが出来たら、苦労はしてない」


 言わずとも分かりそうな物だった。こうなる前に一度だけ、俺は両親の説得を試みた事がある。結果は散々で、以来口に出すことすらしていない。


「どうにもならないんだよ。じゃなきゃ、俺はこんな所に居ないんだ」

「憎くても反抗する術なし、か。やっぱり昔の貴族と平民みたいだね」

「……別に、憎い訳でもない」

「……じゃあ、普通に愛しているのかな?」

「普通にかは知らない……でも、母さんと父さんなんだ」


 情があって当たり前だった。その筈だ。

 女はコツンコツンとブーツの足音を立てて真っ直ぐ向き直り、俺をじっと見つめていた。身長172cmの俺より、更に最低10cmは背が高い。コートと長い黒髪が闇に溶け込む中で、真紅の目と、白い顔だけが月光と街明かりを反射して、怪しく光っていた。そのままこう問いかける。


「本当に?」


 即答出来なかった。無意識の内に握り拳を作り、俺はうつむいた。


「……言っただろ、じゃなきゃ俺は、こんな所に……」


 声を震わせながら出した返答を聞くと、女はコロコロと表情を変えた。一番最初の方に、俺が死にたいと言った時に見たパターンだった。少しだけ驚いたようにきょとんとして、それから……暖かく思える笑みを浮かべた。そしてその表情と同じ様に言った。


「……そっか。そうであるなら君はきっと……ただただ、優しいんだね」


 言っている意味が良く分からなかった。今の話と優しさに、何の関係があるっていうんだ? 即座に聞き返す。


「何だって?」

「君は両親をどうにかしてやろうなんて思わなかった。酷い命令をされているのにそれを恨む事すらしないで、言われた分だけひたすらに頑張った。生き物としてのタガを外してしまうほどに。そんな人間は優しいお人好しに決まっているよ。そう思わないかい?」


 まだ理解が追いつかない。俺が優しい? 今までそんな風に言われる暇すらなかった言葉だ。大学受験には、必要のない言葉だった。俺は顔を上げて、呆然とした表情で女の顔を見た。

 女は俺が混乱しているのをそのまま何か、子猫でも見るような目つきで見つめ返した後、また鉄柵を背もたれにして、一方的に話し始めた。見ている先にあるのはかすかに光る星空と月だけだ。


「おかげでやっと理解できたよ。人間は優しくなりすぎて、いよいよ片端から自分で死んでしまうようになるなんて。いや、昔からそういう人達は居たんだけどね。彼らは昔、聖人と呼ばれていた。今でもそうなのかな? 食べ物が無ければ盗みでもすれば良いのに。命令されるのが嫌なら逃げ出してしまえば良いのに。死に比べれば、何もかもが軽い筈なのに――例え、人殺しでさえも。しかし彼らはそうしない。盗みをしたら盗まれた人が困るから。逃げ出してしまえば他の人間が同じことをさせられるから。殺したら――その人は死んでしまうのだから」


 話の中で一瞬だけ、女の顔に影が刺した気がした。俺がそう気がついた事に、向こうも気がついたらしい。こっちに顔だけを向けると、直ぐに元の顔に戻った。あの笑顔だ。しかし、どこかに影が残っている。当たり前だった。女はこれから俺と同じぐらいの、悩んだ時間で言えばきっとそれ以上の、言いたくない心の中を告げようとしているはずなのだから。


「……そうだね。君は十分に話をしてくれた。だから、私も話そうと思う。私が何故死にたいのかについて」

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