第31話 さよならヤンキー殿下

 マルティナが「『前世』さん?」と指輪に視線を落とすと、心なしか翡翠色の光が弱まっている気がした。ゆらゆらと力なく揺らめくそれは、まるで尽きかけている命のように見える。


「だ、大丈夫ですのっ?」、「おい! どうしたってんだよ!」とマルティナとルディウスは慌てるが、当の「前世」本人は落ち着いた声を響かせる。


――この異世界には、オレの居場所なんて初めっからなかったんだ。消えて当然だ。


 実体を持たない「前世」の表情は分からない。だが、マルティナには彼が笑みを浮かべながら泣いているような気がして、胸がギュッと締め付けられた。

 短い間だったが、彼がルディウスの身体越しに伝えてくれた愛情をマルティナは深く感じていたのだ。暗殺者から助けてくれた時も、水魔術を使うように鼓舞してくれた時も、一緒にらっぷの練習をした時も……。忘れはしない。彼の逞しい背中と強い言葉、そして照れながら向けてくれたあの笑みを。


「わたくし、貴方のおかげで運命を呪うだけの人生から、一歩前へと踏み出すことができましたのよ。貴方がいなければ、こうしてルディウス殿下の隣に立つことなどできませんでしたわ!」

「俺もだ、相棒。お前なしじゃ、兄上を止められなかった。だから、消えないでくれ!」


 必死に叫ぶルディウスの「相棒」という言葉に、「前世」はくくくと笑いをこぼす。まるで、相手を嘲笑うかのような態度だが、実際はそうではないことをマルティナとルディウスは心で感じ取っていた。

 自分の第二の人生のために利己的に動いていたように語る彼だが、その根底には友でもなく、兄弟でもない「相棒」――「今世」の自分であるヒーローと、生前から大好きだったヒロインを幸せにしてやりたいという想いがあった。

 一冊の小説の世界をハッピーエンドに導くために、彼が抱いた覚悟の重さと孤独は計り知れない。


 そんな彼の記憶を知ってしまったマルティナとルディウスだが、そうとは敢えて言わずにいた。彼が、それを望まないことも分かっていたからだ。


――てめえの身体を乗っ取ろうとしてた「前世」だぜ? 消えてせいせいすんだろ?


「乗っ取られるのは困る……けど、時々なら身体を貸してもいい! 一日交替とか!」


――んんなら、マルティナとの初夜はオレのもんだな。


「なっ‼ それは譲れな……」


 ぽっと顔を赤くするマルティナと目が合い、ルディウスはしどろもどろになる。そして「前世」にからかわれたのだと分かると、「ちっ」と気まずそうに舌打ちをした。


「……でも、お前に消えないでほしいのは、ホントなんだよ」


――やめとけよ。もう、てめえらには原作遵守も原作改変も関係ねぇ。オレが未来を語る必要なんてねぇ。だろ、マルティナ?


 少しだけ迷ったが、マルティナは「えぇ」とこくりと頷いた。


「わたくしたちは、異世界転生小説の登場人物ではありません。自分たちの世界を生きる人間ですわ。だから、わたくしたちの思う道を選び、未来を紡いで参ります」


 心の底から憧れた異世界転生小説。チートスキル。前世知識。無双。フラグ回避。

 だが、それらは現実世界を生きるマルティナたちにとっては、寧ろ未来を縛る枷でしかない。

 未来は先が分からない。だからこそ、どんな選択をしたとしても尊く、美しい。

 今のマルティナは、そう思っていた。


「『前世』さん。わたくしたちを愛してくれてありがとう」


――おう。また、転生して会いに行くぜ。次は、モブ一択だ。




 指輪の翡翠色の光――ルディウスの「前世」は「あばよ!」と豪快に笑い飛ばすと、その後にゆっくりと色を失っていった。


「さようなら。ヤンキー殿下」


 マルティナは、隣にいるルディウスにだけ聞こえる小さな声で別れの言葉を口にした。「またいつか……」と。



 ***

「二人とも、大丈夫か!」


 ディヴァンが血相を変えて走り寄ってくる姿に、マルティナとルディウスはハッと我に返った。

 不思議なことに、ルディウスの「前世」と会話していたのはものの数秒の出来事だったらしく、誰もマルティナとルディウスを訝しむ者はいない様子である。状況は、体感で数分前――第一王子パーシバルの陰謀が露見し、当の本人が空の彼方へ飛ばされた直後。大広間にいる貴族や使用人といった全ての者たちが、騒然としているところで間違いなかった。

 これも、異世界転生のチート能力の一環だろうかと、二人はこっそりと顔を見合わせるが答えは出ない。


「大丈夫ですわ」


 マルティナは、ルディウスの手を両手の平で優しく包み込んで笑う。


「たとえ、殿下が……いえ、陛下が転生無双な国王や召喚チート勇者でなくても」


 ルディウスが、ダークグレイの瞳を細めて笑い返す。


「……ティナが伝説の聖女ややり直し悪役令嬢じゃなくても?」

「えぇ。わたくしたちならば」


 マルティナは背の高いハイヒールをポイと脱ぎ捨てると、ルディウスに寄りかかってほんの少しだけ背伸びをした。それは、憧れのシチュエーション。そのためならば、お洒落な靴など必要ない。


「ルディウス陛下。以前仰られた婚約破棄。まだ、撤回しておられませんわよね?」

「あぁん? 婚約破棄だぁ? 婚約約破棄なんざ、破棄に決まってんだろうがよ!」


 ヤンキー殿下が再び降臨したのかと驚き、マルティナは碧眼を大きく見開いた。

 だが、それは一瞬のこと。

 悪戯っぽく笑むルディウスの影がマルティナに被さったかと思うと、次の瞬間には唇に優しいキスが落とされていた。


「ひゃ……っ」


 自分のタイミングでキスしてやろうと思っていたというのに、不意打ちを食らってしまったマルティナは、初めて感じた甘く柔らかな感覚に頬を真っ赤に染め上げる。


「キス待ち顔の練習、しとけよな」


 そう言い捨てるルディウスの顔も茹だこのように赤くなっており、どうにも格好がついていない。

 けれど、マルティナはそんなルディウスがたまらなく愛おしかった。

 互いに孤独だった過去を愛でいっぱいに埋めたい。

 今世を添い遂げ、来世も共にありたい。心の底からそう思った。


 大広間が突然の二人のキスに戸惑ったり、歓声を上げたりすることも気にせずに、マルティナはルディウスを強く抱きしめ、再び背伸びをする。驚いたルディウスの顔が可愛らしくてたまらない。


「陛下こそ、キス待ち顔の練習をなさったら如何ですの?」


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