第3話 デイアネイラの指切り⑪

恐れ入谷の鬼子母神

 ジン対の人たちがいなくなると、病室は一気にシンとした静寂に包まれた。本田はその時にはじめて佐々木透子が高田さんのところに行きたがった理由がわかった気がした。体力が一気に落ちたせいもあり、なかなか心にくるものがある。病室の静かさは、体に毒なような気がしてならなかった。もっとも、全身に毒をため込んでいた自分が体に毒と言うのは少しおかしいような気がしないでもないが。

 彼女が、死んだ。

 本田はジン対に洗いざらい吐かされた。食人鬼である半神の彼女を追い続けていたこと、それを隠していたこと、西村紘子という人間についてまで、全部。最早死も怖くないつもりでいたが、ああして迫られると、どうも言わずにはいられなかった。それに、言ったところでもう影響はないのだ。

 彼女は、死んだ。

 初めて半神が死にうるのだということを意識した時、本田に沸いたのは焦燥感だった。人を狩って、食らっている彼女は、わかりやすく人類の敵だ。それこそ本能に訴えかけるほどの恐怖を人間に与える。いつか、殺されるのではないかと、考えずにはいられなかった。それに、もっと巧妙な方法はいくらでもあったはずなのに、彼女はああしてテーブルクロスを敷き、皿を並べ、恐怖に慄く獲物と対話しながら食することを好んだ。なのに、相手が正気を失って、まともな会話ができなくなると、それだけで腹を立てて、昏倒させてしまうところがあった。ハンニバル博士のような残虐性だと、生還した人々はよく言っていた。本田にとっては、彼女が会話を欲していただけに見えた。

 死んだ、もういない。

 本田にとってそれは受け入れ難かったが……受け入れ難かった。どうしてだろう。彼女を、倒すつもりがなかったわけではない。もし、自分の言う条件が受け入れられないのであれば、最後はせめて共倒れにまで持っていくつもりだった。それが、あれを追う人間である以上、使命であるとずっと考えてきた。人は、人として生きるべきだ。戦争だって、起こるべきじゃない。三大欲求が満たされない危機が消え、生存の危機が消え、存在が認められ、社会的に守られ尊厳が満たされた時、人は初めて幸せになれる。そういう世界を目指すことが、我々の未来を作ることになる。でも、それが得られなかった人を、なかったことにして殺してしまうのは、本当に正しいことなのだろうか。

 彼女は、奇妙な半神だった。人を食べるくせに、人のためになることをしたがるところがあった。彼女を人外だと夢にも思わない人たちに対して、笑顔で話しかけ、施すような矛盾した部分があった。それこそ、食べたくせに戻したそれを、なぜかきちんと本田の手として戻したくらいには。勿論ただ「元に戻れ!」と考えたらこうなったのかもしれないが。でも彼女は、寂しがりだったから、突然僕に優しくしたくなったのかもしれない。

「しかし、あれで……最後なのか」

「何が最後だって?」

 左を向くと、そばかすの目立つ女性が丸椅子に座っていた。今までで一番、見覚えのある顔だった。西村にもそばかすがあった、おまけに髪質が変に堅いようで、不思議な跳ね方をしていた。気の毒になるくらい薄い肩が、合わないリクルートスーツの中に収まっている。

「……西村」

「だから違うってば」

「……なんで、ここに?」

「私の肉片ががあんたの体に入ったから、これはその残留思念よ。他の人には見えない。あんたの幻覚。あなたの肉になじんだら消えるわ」

 そう言う彼女は不服そうな、ぶっきらぼうな口調だった。

「……僕を、洗脳するのか?」

「まさか!今の私はおしゃべりしかできないよ」

 彼女は口を釣り上げるようにして笑った。自嘲気味にも、反抗的にも見える笑顔は、しかしとても素直でもあった。こちらを馬鹿にしていることを隠そうともしない。

「惚れた女のためにここまでやるかね普通」

「惚れてない」

「惚れてるじゃん」

「……ならそういうことでいい……で、君は、死んだのか?」

 それは本田が一番聴きたかったことだった。半神がああして死んだ後に、どうなるのかはわからない。というか、肉片?血?だけでこんなことができるだなんて想定外だ。もしかしたら、まだ何かしらの方法で、生きているのでは…。

「肉体は失われたよ。完全に、確実に。で、魂は、あー、天に登った」

「天?」

「そう。私ね、神様になるんだ」

 本田は目を丸くした。

「あー、もう少し、中途半端が良かったなあ」

 神が増える、この街の敵対者が増えるということ。ライオンを増やしたがるシマウマはいない。だとすればジン対が行ってきたことは……。本田は飛び起きて、足の傷が痛んで思わず俯いた。

「あはは、神が増えるのが怖いの?大丈夫よ全ての人間がいずれこうなるから」

「全て?」

「人間っていうのはね、神様の卵が生みつけられた芋虫なのよ」

 そう言う彼女は言葉の割に普通の顔をしていた。哀れみでも、嘲笑でもなく、ただただ静かに凪いだ水面の様な顔つきだった。

「……西村」

「だから私はあんたの言う西村じゃないってば」

 女は本田の手を振り払うそぶりをみせた。触れもしない幻覚にも関わらず、本田が手を伸ばしたわけでもないのに。

「いいや、そんなはずはない、あの時人を食っていたところから、お前を追い続けて……」

「どうしてそこで人間を食ったのが西村だと思ったの」

「だって、いたじゃないか」

「私はいくらでも変身できるのに?」

 本田の口は、縫い付けられたかの様に動かなくなった。彼女の黒い瞳はこの世あらざる輝き方をしている。彼女の目は石をはめ込んだだけのように温度が感じられなかった。本田は、本田は苦し紛れに言葉を紡ぐ。

「……それは、君自身の能力では」

「私はあくまで顔の情報を買うだけで、そういうことをする能力はある。調べたあなたならわかるでしょ」

「……、いや、だが……」

 本田の沈黙は重く、暗く、日光の差し込む部屋には不釣り合いだった。いつの間にか空いていた窓からは爽やかな秋の風が入り込んでいて、防火カーテンを揺らしていた。

「……なんで、そんな西村ってやつに執着するのよ」

「話ならしただろ」

「ねちっこい奴」

「……。」

「あら傷ついちゃった?」

 本田は、黙って俯くことしかできなかった。あの日見たのは確かに西村だった。西村だったはずだった。でもその時のことを、誰かに話したことはなかった。あのコンクリート張りの狭い部屋で、皿の上に乗ったまま話したのが初めてだった。その次は、やけになって詰問されたのに答えた、ついさっき。だから彼の思い込み、矛盾に気づいて、指摘してくれる人がいなかったのだ。指摘されないまま、本田は過ごしてきた。彼女は、西村ではない、ただの化け物じみた、半神……それは最早、本田に否定できなかった。


「……聞く気が無いなら聞き流してくれていいんだけどね、ちょっと前に、私がこの市で人間が叩き売りされてるってことを知って、手始めにある家の一家三人をぺろっといただいた時の話なんだけどね」

 そこにいたのは栄養状態の悪そうな男と女と、制服来たまんまの生娘一人で、男女は娘に何か言うでも無しに天井を眺めていた。なのに突然変な挙動を初めて、男も女も娘に化け物だー!殺せー!って言いながら殴りかかって、なのに突然笑い出したりして、明らかに正気じゃない様子だった。だから私は本物の怪物が現れたらどんな反応するのかな、と思って腕をパクッと食べてやった。でもやっぱり正気じゃないから笑ったり泣いたり痙攣するばっかりでどーしようもなくて、面倒になって二人ともさっさと動けなくした。そしたら娘が腰抜かしちゃったみたいでね。まあ今時、食人鬼が出た!って言っても大概の人は信じないし、むしろ両親を殺したってなったらこの子極刑だろうなあと思って、火炙りとかよりは食べてあげるのが情けだし、コストも削減できるよねって思って、シメちゃおうとしたら、彼女が言ったの。

「許してくださいごめんなさい許してください」

「それは無理」

「ならお願いします、恨みもしません、憎みもしません。出来るだけ美味しく食べてもらえるように頑張りますから……最後に伝えて、ごめんなさいって。私知らなかった。なにも、彼だって苦しんできたってことを。なのに利用して、迷惑かけて、傷つけた。だから、ひどいこと言ってごめんって……」

「彼って誰?」

「お願いします、お願いします神様」

「かみさまぁ?」

「神様……」

 そのあとラチがあかないし、ひたっすら神様しか言わないもんだから彼女も早めにシメた。で、三日くらいかけて一人ずつ食べたところに、多分、あんたが来た。


「まー、だから、多分、あの子の言ってたのって、あんたでしょ?ごめんなさいって。ま、そういうことで、伝えたから」

「……え」

「じゃあね、時間だわ。できるだけ、健やかに生きるんだよ」

「そ、んな、どうしてそんな……なんで、待ってくれ!」

「何」

「どうして、俺に、それを伝えたんだ」

 本田は静かに聞いた。彼女は面倒くさそうに答えた。

「あの子が気に入って、あんたのことも気に入ったから」

 本田がその後掴んだのは空気中の埃だけだった。幻覚だと言っていた彼女は本当に幻覚のように消えて、いなくなってしまった。

 呆然と空中を眺める。何が起きたのかわからない、何を話されたのかわからない。ただ、西村ではなかったらしい彼女は神になるだなんて言い残して、しかも西村の最後の言葉を置いていった。それは本田の中にじわり、じわりと染みて、さっきまであった失望感も喪失感も全部無くしてしまっていた。

 西村は、西村は……僕を許していた?

 ずっと前から?むしろ僕に謝っていた?

 そんなまさか、でも彼女が僕にそんなことを嘘をついてまで伝えるメリットがあるのか?いや逆に、嘘をついてまで僕の罪悪感を拭おうとしたのか?わからない、余計わからなくなったぞ、え?どうして?どうして……。

「……かみ、さま……か」

 日が傾いてきていて、もうすぐ夕方になる。空は色づき始めていて、別の表情を見せてくる。それでもまだ青い空は高く、病室から見えるビルの屋上をきらめかせていた。

 指が、戻っている。その奇跡が語りかけてくる。超常的な存在である彼ら彼女らは、人間の想像や理屈を遥かに超えて、あまりにも理不尽に対峙してくる。人間は、これからも彼らと戦っていかなくてはならないのだろう。それは正しい。戦おうとするくらいでなければ、あの理不尽さに対抗していくことはできない。でも、恨みつらんで呪い忌み嫌うことまでは、本田には出来そうになかった。それが彼らの思う壺なのだとしても、彼にとってこれは、それくらい大きな出来事だった。

 しかし、見事なものだ……。そう思いながらつなぎ目すらない指を眺めていたところで、ふと本田は気付く。よく見ると、薬指の第二関節から第三関節の間の肉が、表裏反対についている。

「……っは、はは!なんだこれ!」

 おっちょこちょいなのか悪意なのか。だが本田からすれば、これは凡ミスとしか思えなかった。あの場で彼女に、ちょっとした嫌がらせをするような余裕があったとは思えない。それにもし嫌がらせであったならば、関節を逆につけられる方がずっと困る。しかしこの程度では、滅多なことで周囲にバレはしないだろう。あまり意味があるとは思えなかった。凡ミスであることが、嬉しかった。神様らしいなと、思ったから。

「最後まで楽しませてくれるな」

 今度、西村の墓参りに行かないと。薄情なことに、一度も行けてなかった。それに、彼らに対抗するために、もっともっと頑張らなくては。これでは西村も浮かばれない。

 変な感触の掌を口元に当てながら、本田は笑っていた。

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