第3話 デイアネイラの指切り⑩

英雄殺し、お人好し

「西村が消えたことを誰もとりあってくれなかった。遺体がないことも、僕が見たことも、全部なかったことになった。行方不明事件だってさ。目の前で起きたことだったのに……僕は、自分の信じていたことがもしかしたらすごく些細でちっぽけなことだったんじゃないかと思い始めた。だから、君を追った」

「……そう、大変だったわね。それで、あなたは謝るためだけに、私に命を差し出したと」

 納得がいかない様な不満そうな声が返ってきた。それでも食事は続く。腕を途中まで食い散らかした彼女は、男の腹を切り始めていた。

「……そう、追いかけていた。僕は、謝るために、君に選択肢を与えられなかったことを」

 吐き気、胃のよじれる様な苦しみ、そして舌の痺れ、彼女が全てを察知した時には遅かった。

「っウゲエエエエエエエ!!!」

 女が悶え苦しむ。恥も外聞も捨て去った声を部屋中に響かせて、彼女は転げ回った。吐き出されたものは赤く、白く、彼女の黒いドレスを汚していく。咀嚼された自分の皮膚を見るのはあまり気分の良いものではなかったが、本田はこうなることを見越していたため、悶え苦しんでいる彼女を見ながら、テーブルクロスの白い布を引いて手をゆっくり拭き、止血し始めた。

「おまえ、おまえええ!!!何をしたあああああ!!」

「……僕は大人しく君に食べられただけだ」

「はあ?!お、ぐえ」

 カトラリーが消える、テーブルが割れる。本田は椅子からも放り出された。電灯一つだけが揺れる部屋では、食事をしていた痕跡すらなくなっていた。本田は話し続ける。

「神話において、人間が怪物を倒した話は、数えるほどしかない。そしてそれの多くは、武力ではなく、毒で行われてきた」

「な……なにがいいたい……!」

「十年間、僕は西村、君に喰われるために努力を重ねてきた……僕が、君の食べる最後の人間になるために」

 合点が行かない様に半神はしばらく眉を寄せたが、しばらくして訝しげに、しかし確信を持って言った。

「……自分の体を、毒で浸したのか……!!」

「半分とはいえ、神を苦しませる毒だ。それこそ十年がかりで馴染ませたよ……効いたと言うことは、なんとか間に合ったってところかな」

 血を拭っている本田は、まるで食事終わりに身嗜みを整えているだけの様に見えた。しかし拭きながら、ふと本田は自分の掌の感触が変わったことに気づく。見ると掌が元に戻っていた。どうやら、彼女が元に戻したらしい。いや、食べたことを「なかったこと」にしたのだろうか。しかし彼女の記憶は残る。腹を下した事実そのものを忘れれば、彼女はまた、本田を食い始めるだろう。だから己の身を守るためにも忘れることはできない。さらに、彼女は半分人間で、半分神だった。既に体内に取り込んだ毒は人間の部分にだけではなく神の部分にまで入り込んでいて、そこに彼女の術は及ばない。猛烈な吐き気と腹の痛みは治ったものの、神の臓腑が悲鳴をあげる。

「謀ったな!貴様、よくも、よくも!」

「ああ、謀った。本当にごめん」

「許すと思うか?!」

「思わないし、許されるつもりもない」

「はあ?」

 本田はじっと女を見下ろした。怯えはなく、呼吸は静かだ。

「西村、君に選択肢をあげよう。今を過去に戻し、今までの罪を滅ぼし、全てなかったことにすることだってできる」

「そういう立場か?それに、ずいぶん抽象的だな」

「なら具体的に言おう。西村、まだ戸籍の上で西村という人間は死んでいない。そしてその記録の上の西村には犯罪歴がない。君はまっさらな人間として、生きていくことができる」

 彼がそう言った途端、責める様に睨み付けていた彼女の瞳の力が、ふとゆるんだ。固まったまま、彼女は男から目を逸らす。一方で本田は彼女から目を離さなかった。

 本田は彼女に向かって右手を差し出した。まるで左手が失われたことなど気にも留めていないかのような素振りに、半神は初めて身震いした。彼女にとって、勇士の魂を持った気高い男なんて生き物は、魔法やモンスター以上のファンタジーだったから。

「西村、この手を取ってくれ。そうしたら僕は、君をこちらの世界に戻せる。君は今まで、食べる以外に人間を使ったことはない。そして今、君はもう人間を食べる気がしなくなっているだろう。少なくとも、西村紘子という人間の寿命が終わるまでは」

「何を勝手に、何がわかるっていうのよ。ていうか!私が類人猿に戻りたいと思うわけないじゃない?!」

「いいや、戻れって言っているわけじゃない。君は君のままでいい。ただ、選択肢が一つ増えただけだ。半神としてどこにも混ざれず追われて生きるか、僕ら下等生物のコミュニティに所属するか」

「誰がそんなところに!それに追われたって、あんたたち程度敵じゃない!」

「でも君は寂しがりじゃないか!」

 それは慟哭に近い声だった。本田の声は暗い部屋の中に反響してワンワン響いた。女は思わず黙ることしかできなかった。

 本田の記憶の中の西村は、一人が嫌いだった。憎んでいるとさえ言っていた。夜、誰も家にいない時には、繁華街で人の流れを眺めている。変な人に声をかけられることもあるけれど、かけられない方が嫌だから、むしろ嬉しい。若い女の子でよかった、それだけでみんな見てくれる。彼女は人が好きだった。声をかけて、返事が返ってくることが好きだった。人の家の電話に勝手に出たり、御近所さんと話してしまうような人だった。そんな話が、いくつもいくつもあった。数え切れないほどあった。だから本田は、彼女が学校に行っていなかったことが信じられなかったのだ。半神に成ってからの彼女は、自由気ままに生きている。でも本当にそうなりたくてなったのだろうか?将来の夢は、最初から食人嗜好の連続殺人鬼だったのだろうか?

「……西村、もし、このままでいいというのであれば、それでいい。気が済むまで、僕を煮るなり焼くなりすればいい。だが、もし……君が、人間という猿にまだ愛着があって、もうしばらく位は……せめて、西村紘子としての人生を全うしたいという望みがあるのであれば、この手を取ってくれ」

「……。」

「半神には集団がないだろう。それぞれが違いすぎて、利害関係で一時的に繋がることがある程度だ。それこそ、覚醒したことそのものを隠している半神もいる。君もそうなればいい」

「っは、戸籍だけあったって、人間の生活はできないわ」

「なら僕のところに来ればいい」

「……。」

「僕がなんとかする、なんとかできる。なんとかしてみせる」

 本田の会社は多国籍企業だ。その上、犯罪歴のあるような人間だって雇う組織だ。治安は悪いが、受け皿としての役割がある会社。だから一人素性不明の人間が紛れ込んだところで、誰も怪しまない。そういう場所を、作ってきた。表向きには多様性のある会社、裏向きには半神に対抗するための反グレ組織として。結局、気づけば父と変わらないような仕事をしていた。それに気づいた時、本田は刺青を入れることにした。神への毒を含ませて。

 アメリカに渡っていた時に手に入れた毒だった。売っていた男は自分は魔術師であると名乗っていた。製造方法を買い取る代わりに、彼はウチの社員となった。食事にひとたらしするだけで、通常の食中毒の十倍は苦しむことができる代物だ。これを皮膚と内臓に染み込ませるために、本田はこれを十年間接種し続けた。健康と食の楽しみは失われたが、今この瞬間、それが無駄にならなかったことが証明された。

 本田は、ゆっくりと彼女に近づく。

 彼女によって噛み潰され、跡形も亡くなっていたはずの本田の手の肉はすっかり修復され、咀嚼されて肉塊になっていたのが嘘の様だった。神話のとある逸話を思い出す。魔女が老人の全身をバラバラにしたあと、呪文を唱えながら煮込むことで元に戻るどころか若返る話。英雄(ヒーロー)の女性バージョンは魔女だ。ヒロインではない。身内を惨殺したせいでその神話における女は魔女と呼ばれたが、ヘラクレスだって自分の子を焼き殺している。この二者は本質的に同じものだ。彼らはきっと、神対が言うような半神だったのだと、本田は考えていた。

「君の借りはもう何もない」

 彼女は自分の肉を食べた、酷い食中毒を起こした彼女は、おそらくきっと、神にとっての「当分」くらいは人の肉を食わなくなるだろう。それは自分の体や、様々な証言が証明している。そして彼女は人間を神々との取引に用いたり、中身を引き抜いて道具に使うようなことはほとんどやらない。もはや彼女が人類と敵対する可能性はかなり低くなった。

 大丈夫だ、きっと。

「神に効く毒……いくら時間をかけたとはいえ、お前も無事では済まないだろう、それは」

「ああ、どこもかしこもガタがきてるよ、きっと長生きはできない」

「……そこまでするのか、西村のために」

「するさ、これは僕の罪滅ぼしだ。君の選択肢を知らず知らず奪ってのうのうと生きてきた僕の、君という人間を食い物にしてきたことそのものへの精一杯の謝罪だ。受け取るか受け取らないかは、君が選べば良い」

 本田は思う、人の世も、獣の世も、本質は変わらない。食って食われ、勝って負けての繰り返しだ。ただ人間は無駄に情などというものがあるせいで、敗者が命を失っても、同情するのが苦しいからと見て見ぬ振りをする様になった。そんな不幸な話は存在しないのだと、あるいは、自分だけがその罪から遠いところに行って関係のないことだと遠ざけようとする。……なら、目の前の嘆きを見つめたまま人を食らう彼女と比べて、どちらが残酷と言えるだろう?

「西村、選んでくれ」

 本田はさらに手を伸ばす。血も肉も戻ったはずなのに、ふらついていた。それは精神的な疲れのせいだったのか、それとも緊張のせいだったのだろうか。

 ……彼女は、二度、本田を見た。一度目は目を、二度目は手を。そして男がふらつくのを支える様に、彼の手を取った。それは咄嗟の、優しさだったのだろうか?

 女は、体勢を立て直した本田を支えに、自分も立ち上がる。

「お人好しだよ、あんた」

「いいや、僕はほぼほぼ悪党だ。この街にとって、まだ君が危機であることは確かなのだから」

「悪党は二十年も罪悪感を引っ張ったりしない」

 立ち上がった女は、本田の手を握り返した。奇しくもその形は、握手の様な姿になっていた。


 ……それは暗黒から手の形をした影が伸びてくるかの様な悪寒だった。

 銃声、それは聞き慣れたアサルトライフルのものではない、掌大の拳銃から発せられる発砲音は、夢の中で聞いたのかと思うくらい現実感がなかった。右胸上部に熱さ、痛み、押さえたところにあったのは、熱を持った金属の塊だった。そして、目の前の彼女が、倒れた。

 視界が揺れた。理解が追いつかない。何が起きているんだろう。半分神様になった女は、僕が持っている毒程度で倒せる存在ではない。血がゆっくりと広がっている。背中に大きな穴が開いていた。

「にし、むら……」

 茫然とする時間が長すぎた。それが銃痕だと気づいて、冷静に動く時間は十分にあったが、本田にとってその突然の死はこの国で起こることではなかったから。

 リボルバーの回る音。革靴の足音が、いつの間にか目の前で止まった。

「……誰、だ」

「俺だ」

 かすれた様な声には聞き覚えがあった。本田は両手を挙げる余裕もなく、真っ黒な人影を見上げた。

「何やってんだアンタ」

 振り向いた先にいた彼、根崎は全身にタバコと硝煙の煙を纏っていた。

「そ、れは、……」

 本田は立ち上がろうとして、そのまま倒れた。ただでさえ手や腹を食われ、気力が落ちていたところで銃撃を浴びたのだ。痛みが正常な思考を奪う。この場から逃げなければならない、という本能の叫びが、心臓から全身に通り抜けていく。銃撃を浴びたのだ、彼女とともに。そこで本田はようやくハッとした……女は、彼女は不自然に震えている。そこにまた発砲音。額に大きな穴。

「っやめろ!!」

「気でも狂ったか」

「違う!!彼女は……!」

 さらなる発砲音、今度は足。女はまるで壊れたゼンマイ仕掛けの人形の様だ。

「お前!」

 本田が根崎につかみかかろうとすると、躊躇いもなく根崎は本田の足を撃った。

「黙ってろ、次邪魔したら殺す」

 銃声、銃声、銃声。既に穴だらけになった女は、まだ動いている。それはもはや関節も筋肉も関係なく、粘菌のような動きで震える。黒と赤と白の混ざった、別の生き物のように。根崎はリボルバーを開き、素早く弾を込める。それは本田にとっては不自然なほど見慣れた光景だった。それは銃を日常的に扱う人間でなければ到底できないような素早さだった。それは子供の頃から殺戮を学んだ人間でなければ得られぬ速さと戸惑いのなさだった。そして撃つ、撃つ。

 本田は戦場での光景を思い出していた。彼女はいろいろなところに現れた。人が何人死んでもおかしくないような土地にもよく赴いていた。そこで何人死んでも大きい事件にはならないから、そこで彼女はいつも派手に暴れていた。彼女の血は溢れ続けて本田の体をも濡らしている。骨によって止まっている銃弾に血が当たって、焦げる音と独特の匂いが漂う。そして思い出す。根崎は……根崎という男は今、あそこの空気をまとっていた。人間の定義が違う国からやってきた、異邦人の気配。生理的な嫌悪感が体の奥を這い回る。

「……よし、流石に死んだか」

 もう彼女は動かない。

「……なぜ」

「お前いい加減にしろよ?頭に風通してやろうか?え?」

「違う……、そうじゃなくて……いや……」

 本田の頭が痺れる。そして再度、彼女の死体が目に入った。頭が真っ白になっていく。自分の目的が果たされなかったことに、今になってようやく気づいた。だが、何を考えれば良い?突然増えた『考えなくてはいけないこと』に動揺して、衝動が本田を動かした。

「……殺せ」

「あ?」

「俺は反逆者だぞ!殺せ!!」

 本田は瞬間、根崎が持っている拳銃の先を握り、額に当てた。銃口は火傷するほど熱く、気が遠くなるほどいやな匂いがした。

「……お前分かって言ってるだろ?」

 本田の顔面に衝撃がくる。そこで彼は、根崎という男は頼まれたことを易々と叶えてくれるタチではなかったことを思い出した。

「っ、は、がは」

「で?弁明は……しなさそうだな。そうだな、お望み通り殺してやろうか?俺は優しいから。頼めば必ず聞いてくれないのが神忌だと思ってたんだろうけどな。俺は神忌としては善良すぎて出来が悪いくらいなんだよ」

 次は腹を蹴られた。鈍い痛みが鳩尾から内臓に直下して、本田は胃液を吐き出した。根崎の服には血がかかっている。だが黒いスーツに吸収されたそれは、全く色が変わった様には見えない。シャツはまだ白いままだった。

「ったくよお、どいつも、こいつも……」

 頭にまだ暖かい銃口が突きつけられる。だが床に広がる彼女の血は最早冷たくて、本田は静かに目を閉じた。銃の機構の音が、死へのカウントダウンを始めた、その時。

「っ根崎さん!ストップ!!」

「根崎!!」

 子供の声と、青年の声。考えるまでもなく、高田さんと佐々木さんだ。本田はゆっくりと目を閉じた。これは、助かったと言うことなのか、だがもうこのまま意識が戻らないような、息をするのさえ億劫なような心地がしていた。もう目覚めないとしても、それでもいいと、鉄臭い血溜まりの中で思った。

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