第3話 デイアネイラの指切り⑨
贖罪する食材
「ああおいしい、本当に美味しい」
「っ、それは、よかった。本当に」
ナプキンで口元の地を拭いながら、そう言う彼女に本田は答えた。
「だが、君がそんなにテーブルマナーが良いとは思わなかったよ」
「この肉体でいる時に、一番綺麗な姿でいたいじゃない」
「だから女性の姿でいることが多いのか?」
「よく知ってるわね、でもそれは関係ない。男だって、あんたとは違って美しい肉体を持った奴はいっぱいいる」
女はさらに、本田のスーツを剥く。現れた刺青は、皮膚に引っ張られて変形している箇所はあるものの、色鮮やかで肉を彩る装飾の様に見えなくもなかった。
「僕は綺麗じゃない?美味しそうには見えない?」
「……人間たちの固定概念の話をしただけ、私からどう見えるって話じゃないわ」
「じゃあ、どうなの」
「十分美味しそうに見えるわよ……何この模様」
スーツの腕を全て切り裂いて、ようやく彼女はその刺青の違和感に気付いた。気になった彼女は、そのまま立ち上がり、本田のスーツを完全に切り裂いていく。彼はじっと座ったまま、ナイフが皮膚を多少切り裂くのも気にしないままでいる。それは和彫りらしい、龍や天女といった艶やかな姿ではなかった。
「何これ」
「どこの?」
「……右肩?」
「それはカマプアアだね、ハワイの方の神様らしい」
「左肩甲骨は?」
「牛頭と馬頭かな」
それは混沌とした彫り物だった。様々な獣の頭部や、体を持ったいわば『怪物』のような存在が、彼の背中にはひしめき合っていたのだから。その意匠は細かく、ヤクザの刺青の様な一種神々しい工芸品の様な美しさを放っている。
「……どういう意図でこんなものを掘ったの?」
「綺麗だろ」
「まあ」
「それに、なんというか、先輩に対する敬意ってやつかな」
「……。」
それは暗に、本田が自分のことを家畜だと言っているようであった。ということは、彼は随分前から、自分が食べられることを予知していたということになる。
「ずっと、私に食われるつもりでいたってわけ?」
「そうだ」
「どういうつもり?」
「……話しただろう、君のことを追っていた、もう二十年以上も。君は次々に人を襲っては食べ、地域を転々としていた。時に紛争地帯、時に平和ボケした地区を選んでは、食人行為を繰り返した。……だが、それは僕が、させてしまったことだと思っている」
「はあ?」
本田は無事な方の手で髪をかき上げた。さすがに体力が消耗して、汗が滲んでいる。なのに彼の表情はどこまでも穏やかだった。
「西村、僕は……君を捕まえるつもりで、調査していたわけじゃない。僕の目的はただ一つ、君に謝ることだ。こうして『菓子折』までつけて」
女は、嫌な感じがして、上半身をほとんど裸に剥いた男の腕に、再度ナイフを突き立てた。しかし彼はそれに臆することもなく、話し始めたのだった。
約二十年前、本田仁孝は青年だった。ただの青年だ、強いて言うなれば、周りより少々厳しく育てられたところがあった。父親は彼に「仁義を重んじ、困っている人や弱っている人がいたら必ず助けるように」と教えながら、彼に様々な教養を与えていたのだ。彼はそんな厳しい父に反発する気持ちは持ちながらも、そう言って聞かせる親を尊敬していたし、いずれは自分もそういう人間になるのだと懸命に努力していた。十五歳のときまでは。
彼が十五歳の夏に、彼の父と母は死んだ。ある二つのヤクザの間で大きな抗争が起こったためだ。彼の父はやくざ者だった。母親も姉と呼ばれるような人間だった。組長の突然死によって内部抗争が勃発し、次期組長最有力候補と言われていた父も殺されたのだ。
「残酷だよな。今になってみると、親父が言っていた理想と親父の生業の理想はそんなに離れたもんじゃなかった。……ほら、任侠ってやつ。でも僕は、勝手に思い込んだんだ、親父は嘘をついてたって……だから全部やめた。良い人間でいることも、努力することも、遺されたマンションの家賃収入で細々一人で暮らして行けばいいだろって。今になって思えば、逃げる言い訳が欲しかったんだよ。そんで拗ねてたんだよ。もうこのまんま生きていけるだけのものはあったんだから」
何もかもやめる理由が欲しかった。親が殺されて、資産があって、高校生で。そしたらもう充分理由になると思った。そして僕の思惑通り、それはきちんと理由になってくれた。
父が友人だと紹介してくれたおじさんたちが、実は父親の舎弟で、彼らが土下座して後を継いでくれと頼んできたこともあった。それも含めて嫌だった。だから弁護士を雇って、全部そちらに任せた。父と縁のあった弁護士は優秀で、その後のニュースで殺傷事件の末に一つの暴力団が消えたという話をたまたま見かけるまで、その存在を忘れさせてくれた。入ったばかりの高校は忌引きのまま無断欠席し、このままで良いと思っていた。
その一ヶ月後、家のチャイムが鳴った。また舎弟の人たちかと思ってドアの覗き穴を見ると、インターホンの先にいたのは同じ高校の女の子だった。別に居留守をしても良かったが、不登校の人間の家に女の子が訪ねてくるというシチュエーションに、少しワクワクしてつい扉を開けてしまった。当時アニメや漫画ばかり買い込んで見ていたのが祟ったのだろう。
「本田じんこー君ですか」
名前の読みが間違っていたが、それを言うタイミングを逃した。シチュエーションに好奇心を抱いたのは良いが、声の出し方も人とのコミュニケーション方法もわからなくなっていたのだ。
「委員長の西村です。プリントを届けにきました」
「……どうも」
何度も季節外れの暑さにべったりと張り付く黒い前髪を手で避ける彼女は、確かに真面目そうに見えた。彼女が渡した一枚のプリントは、大した内容が書かれているとは思えなかった。
「ねえ、どうして学校来ないの?」
「……行く必要がないから」
今度こそ声が出たが、出さなくなったせいで蚊のなくような声しかでなかった。いやもしかしたら出ていなかったかもしれない。
「え、いいなー」
「は?」
「遊び放題じゃん」
「委員長としてどうなんだ、その発言……」
「だってくじで決まっただけだもん」
不真面目な委員長は、そう言って笑った。うるさい笑い声だった。笑い袋でもここまでうるさくはないだろう。言ったことも面白くもなかったし。
一気に不快指数を上げてきた彼女だったが、その後もうちに何度もやってきた。
「今日はプリントだけじゃなくていいもの持ってきたよ、いつも来てるのに何もないのは悪いからね」
「……何もってきたの?」
「セミの抜け殻」
「なんて?」
「ほら、この時期に残ってるの珍しくない?宝物にしてね」
「いらねーーよアホ」
「ぴんぽんぴんぽんぴんぽんぴんぽーーーーん!!」
「うるさい」
「ぴんぽん」
「なんで口でも言った?」
「このクソ寒い中一秒でも外で待機しないで済む方法を考えたら早く気付いてもらうのが一番だなって」
「前から思ってたけど君相当バカだろ?」
「ち、ちっげーし!成績トップ二十点中百点の天才だし!!」
「逆だから、逆、分母が。いや逆でもバカだ」
「ジュース買ってきたよ、入れて」
「段々遠慮がなくなってきたよなお前」
「ほら、振りたてでおいしいよ」
「振るなよコーラを」
「溢れたやつを机からズズッといくのがいいんじゃない」
「その感性は何?やらせねえよ」
僕は……今思うと、寂しかったのかもしれない。あれだけ不快だ不快だと思いながら、最終的には彼女を家にあげるようになっていた。当時の僕には、彼女以外の話し相手はいなかった。もちろん恥ずかしいからそんなことは言わなかったけど。家の前から、家の中に、そしてなんだかんだで一緒に遊ぶ様になって……いつの間にか、そんなルーティーンが一年続いていた。
最後の日は突然やってきた。
「ねー、じんこーくん」
「よしたかだって言ってるだろ」
「お父さんと、お母さんって、どんな人だったの?」
「……嫌な人たちだったよ、生きてた頃は尊敬してたけど」
それはもうお互いに雑誌を読みながらくっちゃべる位には仲良くなっていた頃のことだった。
「え?意外。じんこー君育ち良さそーなのに」
「良くない」
「礼儀正しいじゃん、お人好しだし」
「……暴力団員だったんだよ」
だから、素直になってもいいかと思ったんだ。素直な気持ちのつもりだった。
「……。」
「子供には色々言うくせに、自分達の行動は伴ってない。最底辺のゴミみたいな存在だよ」
だからこそ、耳を疑った。
「へえ〜、じゃあゴミの親子共々死んだほうが良かったんじゃない?」
……失礼なやつだとは思っていたが、まさかそこまでだとは思っていなかったから。もしかすると、わざとだったのか?わざとだったのかもな。
「は?」
「ほら、カエルの子はカエルでしょ。生きてる意味あるの?」
「僕は違う」
「じゃあ私のこと抱いてみなよ」
ただ、突然豹変した西村の言動はむちゃくちゃだった。
「は??」
「自分はクズでもゴミでもないんだったら、子供ができても怖くないでしょ」
「頭おかしいんじゃないかお前」
「何その言い訳、意気地無し」
西村が僕の服に手をかけた。僕は裏切られた、と思った。
「やめろ気持ち悪い!!!」
突き飛ばした彼女はそのまま転がって、頭を机にぶつけた。
「あっ……」
「……。」
「ご、ごめ…「帰るわ」」
……流石にやり過ぎたと思った。明日謝ろうと思った。でもあの日以来、西村がこなくなった。それで、学校にならいるだろうと思って、悩んだ末に……行くことにした。別に行くことに抵抗感があったわけではないし、それで謝って、嫌な思いをしたらまた引きこもれば良いと思っていた。
でも、久しぶりに行った学校には、西村はいなかった。
委員長だと言ったのは嘘だった。彼女は本田が学校に来なくなってから二ヶ月ほどして、同じく不登校になっていたのだ。教員は、僕が西村のことを聞くと、どうやらそれで知り合いだとわかったらしく、大量のプリントを渡してきた。それは彼女が持ってきたプリントの十倍はあった。それを唖然としたまま受け取ると、隣の席の誰かが言った。
「やめといたほうがいいよ、バックレちゃいなよ。西村さん家、ヤクザらしいから」
隣の席の誰かは心から僕を心配して言ってくれていたみたいだった。
後から知った。抗争が激化したことで、暴対法でただでさえ資金難に陥っていた組が、余計に己の首を締めることとなり、無理な金の回収を行ったこと。末端の組員である西村紘子の父親が「トラック運転手」から「薬売り」になったこと。彼女の両親が売り物の薬を飲んでいたこと。
彼女が僕の家に訪ねてきた理由は、ライトノベル的シチュエーションが起こったわけでも、先生が気を利かせたわけではない。ただ、彼女は本田仁孝という人間を利用したかったのだ。本田が誰かに一言言うだけで、自分の家が助かるかもしれないと言う淡い期待を抱いていただけだった。
走った。走って向かった。がむしゃらに。僕が逃げていた分を取り戻すために。でもそれは遠くて遠くて、たまらなく離れていて、しかも道に迷って余計訳がわからなかった。走りながらようやく気付いた、僕は自分が楽な方向に行く理由が欲しかっただけだ。そのための大義名分が向こうから転がり込んでくれたから、それにあぐらをかいて楽しく過ごしていただけだ。父親や母親と比べてどちらがクズか、考えなくてもわかるほうだ。父は慕われていた、多くの人に。両親がいなくなって、我が家に来ていた多くの人たちはぱったり家に訪れなくなった。追い返したのは僕だ。それすら憎たらしかった。
僕が彼女の家に初めて訪れると、そこには異様な気配が満ち満ちていた。暗い部屋と、錆び付いた階段と、傷だらけのドア。全部僕には初めてのものだった。扉は少し開いていて、そこから異常な生臭い匂いが漂っている。セミのけたたましい悲鳴が頭の中で反響していて、それに伴奏を付けるかのように扉の隙間をハエが行ったり来たりしていた。
その先には、蝿と共に腐肉を喰らう西村がいた。
漫画を見ているみたいだった。真っ赤に濡れた人間の頭を、骨も髪もものともせずにおいしそうに食べていた。大きな畳や古びて黄ばんだ壁には大きな血のシミがたくさん広がっていて、机にも床にも謎の肉片が飛び散っていた。僕に不躾なことを言ってへらへら笑っている西村も、笑うと部屋中に声が響く西村もそこにはいなくて、ただ風鈴の音を聞きながらスイカを食べるみたいに人間にかぶりつく女性がいるだけだった。明らかに気狂いの様相だった。しかし彼女がたった四口で人間の頭部を食べ切ってしまったのを見て、僕はこんな現実でないことが現実に起こってしまったことに呆然とした。そして、思わずその場で腰をついてしまった。
……西村がこちらを見た。
「に……にしむら……」
「……。」
真っ赤に濡れた西村の顔面の中で、唇だけが生々しく艶めいていた。西村はじっとこちらを見た。見ていた。笑っていた。
西日が強くなって、その瞬間、彼女の顔は見えなくなった。着ているのは制服だった。ほとんど破れていて、なのに全身が赤く染まっているせいでまるで半裸には見えなかった。
そして、西村はいなくなった。真っ赤でハエがひっきりなしに行き交う部屋意外、全部が幻であったかのようにきえてしまった。
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