第3話 デイアネイラの指切り⑦

食事は続く

 結果として、彼女は本田の提案を飲んだ。そもそも、悲鳴をあげて暴れ回らない食材を、わざわざボロボロにする必要はない。きっと彼と同じく命乞いをしない獲物がいたとしたら、彼女は同じことをしているだろう。別にこの男の提案があったなかったは関係ない。

 上等なスーツはすでにかなり汚れてしまっている。無理やり止血した左腕だが、それでもやり方があまり良くなくて、まだ血が漏れ出ていた。

「……もう一度聞くけど、本当に生きたまま少しずつ食べるわよ」

 瞬間、指が一本切り落とされる。さすがの本田も一瞬眉をしかめたが、深く息を吐いて、落ち着きを取り戻した。

「……思ったより優しいんだな、神っていうのは。それとも半分ある人間の要素がそうさせているのかな」

 本田はテーブルの上から、椅子の上に座り直していた。ちょうど半神とは対面で座るような形となり、彼女に血塗れの腕を差し出している。

「バカ言わないで。神は合理的な生き物よ。恨みつらみなんてされたらたまったもんじゃないから言ってるだけ……グチグチ呪われるくらいなら、死んだことも気づかれないうちに首を切り落としたほうがマシだもの」

「……それは合理的なのか?」

 男のいぶかしげな声色に、女が笑った。

「冥途の土産に教えてあげるけど、恨みのこもった素材っていうのは扱いづらいの。食べてもまずいし、効率も悪い。古代の神がどうして素材でしかない人間たちに恩恵を与えてたと思う?自分が死ぬ代わりに何かが与えられるなら良いって、生贄も納得して、安らかに死んでくれるからよ。高位の聖職者や、子供が生贄にされることが多かったのも同じ、責任のある人間は自分の命よりも他者を優先するし、子供は死も道理も理解してないから、高い確率で良い素材が取れるの」

「ふうん、それは、勉強になったよ」

 皿の上で少しずつ分解されていく左手を眺めながら、本田はそう答えた。尋常ではない痛みと恐怖が彼を襲っているはずだが、指先一つ動かされることはなかった。

「でもだからわかるわ……あなた、ほんとに私を恨んでないのね……とっても美味しい……」

 女は綺麗に血と肉が舐めとられた骨や爪すら丁寧に噛み砕きつつ、そう恍惚と呟いた。頰は紅潮し、浮かべられている笑みは、それこそ絶世の美しさがあった。

「私、こんなに美味しいお肉食べたの、はじめてかもしれない……」

 彼女は思った。これが、神を受け入れる人間の味。もう食べることはできないと言われている至高の味覚。かつてのこの肉の味が忘れられず、人を食わなくなった神がいるというのも、納得がいく。もちろん、かえって質の低い素材の需要が高まったところもあるけど。

「それならよかった。自分の肉がうまいかまずいかは、さすがの僕にもわからないから」

「私も食べるまでわからないわよ、でも……そうね、今の私は、かなり機嫌がいいわ。あなたが死ぬまでのおしゃべりとお芝居くらいには、付き合ってあげる」

 女は左手を食べきり、次にパイの中身を確かめるようにフォークとナイフで器用にスーツだけを切り裂いていった。しかし、切り裂かれた袖の下を見て、今度は女の手が止まった。そこから覗いたのは、見慣れた皮膚ではなく色鮮やかな文様だったから。

「へえ……あなた、ヤクザだったのね」

 そこに現れたのは見事な和彫の刺青だった。しかし彼女からすれば、それも料理の美しい彩りの一つに過ぎない。

「いや、これはただの趣味だ。どこかに属してるわけじゃないからね。ところで、刺青の入った肉の味は変だったりしないの?」

「問題ないわ。むしろ、目も楽しめて最高」

 そう言う女の姿は心からの喜色に染まっているかの様だった。

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