第3話 デイアネイラの指切り⑤
ヘラクレスとメディアの同窓会
本田が目を開けると、見覚えのない傘付き電球が揺れていた。
「おはよう」
黒いイブニングドレスを着た女性が、テーブルセッティングをしながら言った。
「……なんと言っていいのか、わからないな」
「余裕ね?私としては、騒がない獲物は嬉しいけども」
彼女は丁寧にカトラリーを用意している。銀色のナイフやフォークは良く磨かれていて、曇りひとつない。本田はテーブルの上に転がされていた。自分の下に冷たくて丸い感触があることから、ここがおそらく皿の上なのだろうと言うことがわかった。自分が乗っても割れない皿があることにも驚いたが、まあ、彼女ならできなくはないのだろう。真っ白なテーブルクロスがしかれた四角いテーブルもまた、自分の様な巨漢が乗っても潰れない程度の強度はある様だったが、身動ぎするとミシミシ、という小さな音が響くので、おそらく木製なのだろうと思う。自分が寝っ転がっても問題ない程度の大きさのあるそれは、最期を迎える場所として、病院のベッドよりは同じか少し劣るくらいだろうか、と感じられた。本田は髪をかき上げながら、呟く。
「いやあ、だって……もう、二十年ぶりに、なるのかな」
……その言葉を聞いて、女の綺麗な眉間に一本の筋が入った。インテリアのない部屋の中で、上からの光に照らされている彼女はスポットライトを浴びる女優の様にも見える。
「……かわいそうなあなたに教えてあげるけど、この姿はあくまで仮のもの、誰かと間違えているんだとしたら、ご愁傷様ね。まさか、そのためにわざと捕まったの?かっわいそう」
「大丈夫、ほとんどのやつは君を見てもかつての君と同一人物とは思わないさ」
「話を聞きなさいよ!」
振り上げられたカトラリーが本田の掌を貫通する。まっすぐに力がかかったそれは、一滴の血飛沫すらあげずに、テーブルと彼の手を固定する。骨は砕け、筋にはミシン目のようにフォークの穴が空いたが、醜く肉をため込んだ男はぼうっと前を見ていた。重力のほうが重いとでも言わんばかりで、その目は揺れない。
「……変質者の才能があるのね」
女は席に着いた。激昂したのが咎められたのか、癇癪を起こしたことを恥ずかしがる女の子のように細い腕を立てて本田から目を逸らした。
フォークを左手から抜き取り、自分の盛り付けを気にする豚の丸焼きのような恭しさで、本田は皿の上に座り直す。
「提案があるんだけど」
「自分の立場わかってるのあんた」
「わかってる。料理として可能な限り礼儀正しく振る舞ってるつもりだよ、口調はお互い既知なんだから許して欲しいけど」
「そうだけどそうじゃない」
「もしかしてネクタイゆがんでる?」
「歪んでない。さてはあなた、頭沸いてるのね?」
半分神と呼ばれる彼女にとっても初めてのことだった。まさか料理としての礼儀正しさを説く人間がいるとは。命乞いをするか、命乞いをするか、あるいは知恵を巡らせてこちらを騙そうと余裕ぶって、でも足の筋を切り分けられて命乞いをするか、死にたいと言って連れてこられた時にはちょっと嬉しそうにしてたくせに、いざナイフを入れたらぎゃあぎゃあ言って命乞いをしたところしか、彼女は見たことがなかった。だから生きた食事を捕らえた時、面倒になって首筋をつっついて動けなくしてしまうことも多かったのに。
「まあいいや、ともかくこれは君の食をより楽しくするための提案だ。君にとっても有意義な話だと思うよ」
「言っとくけど、今食べる分だけ切っておいて、それを食べる間あなたを生かしておくとかそういう話は無駄だからね。これでも私よく食べるのよ。あなたくらいなら一日で全部いただけちゃうから」
「うーん、似てるけど違うな。君は鮮度の高い人間の肉が好きだろ」
女は目を細めた。やっぱりそうか、さて、この男の希望をどう砕けばいいだろうかと。こいつは肉の皮が厚いのか面の皮が厚いのかまるでなんでもないことのように振る舞っているけど、所詮は死ぬのが怖いだけだろうし……。
「だから僕の致命傷を避けて少しずつ食べていったほうがいいと思うんだよ」
しかし男が提案したのは、想像の百倍馬鹿な話だった。
「……本気?」
自分の苦しみを伸ばすつもりか?それとも、生きてれば大丈夫なんてお花畑な脳味噌してるのか。……この男は死ぬか死なないかギリギリのところにいるのが、どれだけ苦しいことなのか知らないくらい、馬鹿なのだろうか。それとも、生きていればなんとかなる、と思うほど楽観的な思考をする人間だっただろうか。
「本気に決まってるだろ、信じられない気持ちはわかるけど」
「そりゃそうでしょう」
「そういう積もる話も含めて、食べながらしていこう。このままだと死ぬぞ?僕は」
無理やり引き抜かれたフォークの穴から血が溢れて、グローブのような手とアイロンのかかった綺麗な袖口を赤く染めている。放っておいても失血死しないような傷口ではない。本田は自分の背後に置かれている薄口の小さなワイングラスを持ち、掌から溢れる血を注ぐ。それは電球の光に揺らめいて、まさにそのグラスにふさわしい色合いをしていた。
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