第3話 デイアネイラの指切り①

虚の中にて

佐々木side


 それは世界中が同じ色なのではないかと錯覚させるくらい真っ赤な夕焼けの中でのことだった。低い轟音が腹の奥まで響いて、灰色の鉄筋コンクリートの壁が粉を吹き上げ轟音を立てながら崩れていく。ここは見慣れた市役所の古い建物のはずで、本来薄汚れたクリーム色の床の黒いシミの位置から一箇所だけ足りていない丸椅子のことまでわかる十年来付き合った職場のはずだった。なのに、まるでどこか異世界に飛ばされたような気持ちになった。

 オレンジの色を吸い込むほど赤黒い血の海と、崩れた壁と床でサンドイッチされた同僚がいた。彼女の眼鏡はどこかに吹き飛ばされ、コンクリートの粉まみれになった頭の下の顔は泣きながら前に手を伸ばしていた。俺は無傷とはいかないまでも助かっていた。彼女が伸ばした手の先には携帯が転がっていた。

「ぁ………ぁ……」

 既に端末は半分潰れて、とても使えるとは思えない。さっき、もう一人の同僚は、さっき彼女を前に押し出すように突き飛ばした。彼は、瓦礫のもっと奥の方に沈んでいる。家では子供が一人で留守番をしていると言っていた。一瞬、ためらった。彼女の手元にその潰れた使えそうにないケータイを持っていってやるべきか、自分の命を優先させるべきか。

 でも悩む時間はなかった。鉄筋でかろうじて支えられていたらしい大きな瓦礫が、灰色の石の山を滑り降りたからだ。重い石は彼女の頭を覆い隠して、血の海を広げた。そして飛び散るピンク色の……。


「っ!は、はぁっ……はぁ……」

 目の前にある景色が錯覚で、今まで見ていたものが現実だったような感覚……夢の残り香を感じながら、私は少しずつ冷静になった。明るい天井、細長い蛍光灯、触り慣れないシーツ。見覚えのない景色に頭がぼーっとしていたが、あたりを見回して記憶を辿ると、そばに男が座っていた。真っ赤な夕日が窓の外の低いビルも住宅も全て照らしていて、全てを燃やし尽くしているかのようだった。それを背にする男は真っ暗闇から現れた悪魔のようにも、後光を背負った神のようにも見える。

「!佐々木さん…!佐々木さん!」

「……はぁ……は……」

 男は静かにこちらに腕を伸ばすと、何かを握った。

「どうされましたかー?」

「佐々木さん、お目覚めになったみたいです」

「あ、はあい、ありがとうございまぁす」

 きっと、ナースコールを押してくれたのだろう。そして彼はスマホを取り出して、部屋を出て行った。

「……。……」

 頭が、痛い。

 自覚をした途端にその意識は風船のように膨らんで、私は思わず額を押さえた。だが腕からのびる見慣れた点滴の管が視界に入って、私は腕を戻す。何もないことを確認した上で再度左手の方を額に持っていくと、ざら、と慣れない手触りのものが、顔にあることに気付く。これは……動く……布、包帯かな……。

「渡辺さんが、すぐ来るとおっしゃってましたよ」

 戻ってきた彼、本田さんがそう告げた。彼は椅子を、壁際に寄せて、大きな体を縮こまらせるように座った。丸々とした体は、小さな椅子の上でもバランスを崩すことはない様だった。

「どうして、ここに?」

「三日ほどお目覚めにならなかったので、お見舞いに」

「そんなに?一体何が……あっ、たか、高田さんは!」 

 その時静かにドアが滑る音がして、白衣の男が入ってきた。

「……よかった、佐々木さん、目が覚めたんですね」

「っ、白井さん!高田さんは……!」

 彼の私を見る表情はあまり変わらないが、なぜかどこか呆れている様に見えた。白井さんは私の隣にいる本田さんに会釈する。すると本田さんは会釈を返し、何かを察した様に「では僕はこの辺で」と言って席を外し、病室の外に出て行ってしまった。見送った白井さんが、ほう、と息を吐く。

「生きていらっしゃいますよ。でもまずは、あなたのことが先です」

「なんでですか、高田さんの方が……!」

「いいえ、あなたも重症です」

 何を言っているのかわからない。高田さんは足を失ったはずだ。いくら神の御加護があるとはいえ、彼は……。

「脳卒中で倒れたんです。安静にしてください」

「……。」

「覚えていませんか、病院で倒れたんですよ」

「……。」

 ……この体は、もうそんなガタがきていると言うのか。そんな、じゃあ私は、この子は……。

「佐々木さん、奇跡は、奇跡です。ずっと続く保証なんてどこにもない」

「……。」

「あなたの脳はつぎはぎなんです。それに体もまだ小さい。もっと自分を大事にしてください」

 その瞬間ピンク色の肉片が視界の後ろで蠢いたような気がした。それは生きることを拒むように震えて、私の頭から剥がれていくように思われた。

 ……これ以上、どう大事にしろって言うんだ。

 あの子たちに全て押し付けて後ろに下がっている私に、それすらやめて一体何ができるっていうんだ。誰かに代わってもらうわけにはいかない。これは最小限でなくてはならないことだ。知られてはいけない事象、あってはならない出来事。知った時点でこちら側になる。じゃなければ、私は、彼らにこんな仕事をさせたりはしなかった……。

 ……いや、それは言い訳だ。無力だったのを、子供たちに押し付けただけ。積み上げた石の山が、崩れて彼らに降りかかったように。危険な崖に、柵をこしらえなかったみたいに……。真島貴一の亡霊が、私にそう囁きかけてくる。

「佐々木さん?」

「……あ、えっと……お見舞いも、ダメですか?」

「まだダメです。もう少し先になってからにしてください」

「……はい」

 まだ絶対安静です、という言葉に頷くしかなかった。夕焼けが、だんだんと黒く染まっていく。燃え上がって、黒焦げになっていくかの様だった。今はもう、何も考えたくないのに、不吉な考えばかりが浮かんでいた。



白井side


 彼女にはああ言ったが、高田さんが平穏無事であるわけではない。精神的に参っている部分がどうしてもある。が、彼は気丈であった。

「白井先生、高田さんすごいんですよ、もう義足で歩ける様になったんです」

 前原さんが褒めるとは珍しい。だが確かに、驚異的な回復力ではあった。神様の加護があるのでも無い限り。

「両手と比べると楽でした、体重を乗せるだけなので……」

「もう!それができたらみんな苦労してないんですよ!」

 バンッと前原さんが強く高田さんを叩いても、彼は少しもよろめかなかった。元々成人男性がぶら下がっても微動だにしない人ではあったが、今はまだ療養中で体力も減衰しているだろうに。

「この分だと、退院も早くてすみそうですね……あ、前原さん、ちょっと……」

「はい、では高田さん、お大事に」

 前原さんはいつもより二割増くらいに高い声を上げて出て行った。高田さんは男前だからなあ、いつもよりはしゃいでらっしゃるようだ。

 ……これで、ようやく本題に入れる。

「加護は、ちゃんと発動したみたいですね」

「はい、ありがとうございます」

 彼は穏やかな笑顔を浮かべている。作り笑いにしては整いすぎていて、かといって今の時点で屈託なく笑えるのはおかしい、と頭の中にいる医者としての俺が警告してくる。しかしそれは、彼が神愛であるというだけで理由として成立してしまうのかもしれない。神愛、神に愛される存在。神がどんな感情を抱いているのかはわからないが、人間のことなら多少はわかる。彼はたしかに、執着されやすい人間だ。彼は誰も否定せず、ひたすら受け入れる。それこそ俺から見れば「それはどうなんだ」と思うことですら受容するのだ。しかもこの柔和な笑顔は、人の話を引き出すのがうまい。三井の話を初めて持って行った時も、この笑顔にやられた。初対面の人間に夢中になって話をするなんて、初めてだった。……三井のことを思い出した時、ふと、性格の悪いひょろっとした男の姿が頭に浮かんだ。

「……そうだ、佐々木さん、ついさっきお目覚めになりました」

「!ほんとですか、よかった〜」

 彼は一安心と言った様にほっと息をつく。

「まだ安静が必要なんで、こちらには来れてないんですが、あと三日もすれば動ける様になると思いますよ。それと……」

「あら先生、こんにちは」

「渡辺さん」

 渡辺さんは、頻繁に病院に足を運んでいた。おっとりとした、不思議な美しさと気の弱さのあるこの人は、確かに高田さんと良く似た神愛だった。

「具合はどう?」

「もうほとんど元気ですよ」

「高田君は元気ね〜、さっき透子ちゃんの所に行ったのだけれども、まだ疲れてるみたいでね、寝ちゃったわ」

「そうですか……」

 やはりまだ体力が戻っていなかったようだ。本田さんは、おかえりになったんだろうか。

「……ところで、根崎はどうしてますか」

 まるで『知りたくて堪らなかった』演技をしているのかと、疑うほどの早さで、高田さんは渡辺さんにあの人のことを聞いた。彼は確か、一度もこの病院を訪れていない。

「ん〜あんまり変わらないわよ…強いて言えば、昨日おじいさんに灰皿投げて、始末書書かされそうになってたわ」

「書かなかったんですか?」

「逃げちゃったみたい」

 そう言うと高田さんがふふっと笑った。完璧な笑み。

「らしいなあ……、元気そうで良かった」

 らしいなで済ませて良いのかそれは。いや、良いのか、神忌だから。高田さんは満足そうな、どことなくホッとしたような顔をして、壁にもたれかかった。その言葉のどこに安心できる要素があるのかは全くわからないが……。

 俺はいまだにこの二人のことが掴めないでいた。根崎さんはあれ以来、一度もこの病室を訪れていない。それどころか、病院にすら来ていなかった。

「そうだ、高田君、何か買ってきて欲しいものはある?」

「いや良いですよ、申し訳ないです」

「こういう時くらいは甘えてちょうだい」

「……じゃあ、えと、ガリガリ君が、食べたいです」

「無欲ですね」

 俺が言うと、渡辺さんは色っぽく口に笑いを含んだ。

「違う違う、白井さん、高田君、ガリガリ君好きなのよ、そう言うと思ってもう買ってきたし」

「ありがとうございます。いやー、なんか、こういう時こそ食べたくなるというか、あー生きてるって感じになるっていうか。元気出るんですよ」

「へえ……」

 その後、渡辺さんが買ってきたビニールの袋を開けた高田さんは、確かに嬉しそうだった。普段からニコニコしている人ではあるが、特にその笑みが深いものになっていると感じる。

「おいしーです、ありがとうございます渡辺さん」

「ふふふ、よかった」

 暖かい空気が流れている。神愛が二人、同じ病室にいるからだろうか。問題が起きないのは良いけども、と思いながら、包帯の状態などを軽く確認する。

「……ねえ、ほかに何かしたいこととか、元気になってから、行きたいところは?」

「え?そ、そう言われましても……」

「どこでも良いわよ。何なら市外だって」

 なぜかそこで、会話が途切れた。思わず頭を上げると、なぜか二人は笑顔で互いを見つめ合いながら、静止していた。

「?」

「……市外は」

「……いいの、ごめんね。あ、ていうか私無しでもいいのよ?それこそ、お小遣い渡すし」

「?」

「いやいやそんな、僕もうそんな年じゃ」

「私からすれば子供は子供だもの。それに、高田君や根崎君はもっと色んなものを見たり聞いたりした方が良いって」

 ……この二人ってどういう関係なんだ?まさか親戚?それとも親子?確かに似ていると言われれば……。

「……お二人は、血縁関係がおありで?」

「え?、あ、ああ!違いますよ白井さん。高田さんや根崎さんのご両親と私が既知なんです。だから子供の頃から知っていて、つい……」

「なるほど、だから親戚の叔母さんみたいな感じなんですね」

 すると渡辺さんがちょっとピクッとした。

「えーっと、その、ほら、渡辺さんは親しみがあって接しやすいというか」

 これにも反応する。なんだろう、女性だし、年齢の話に反応するんだろうか。でもさっきのは親戚のとつけたし、蔑称の意味でのおばさんという意図は含んでいないはずだが。聞き逃したのだろうか。

「……別にまだまだ渡辺さんはお若……」

「私が親戚だなんて、ね、よくないよね」

 ん?

「そ、そんなことないですから、渡辺さんはいつだって……」

「いや、高田さんには、高田さんのお父さん、お母さんがいるんだから、私があんまりね、勝手しちゃ悪いって」

「渡辺さん……」

 ……どうやら、俺の判断が間違っていたらしい。首筋が錆び付いて、動かなくなるような気がした。

「……ところで白井さんごめんなさい、話被っちゃいましたね、何か言いかけました?」

「……い、いえっな、なんでもないです」

 なんでもない、俺は、何にも言っていない。セーフだセーフ!何も起きていない。

「でもね、高田さんも、根崎さんも、もっと甘えてくれて良いんだからね!」

「いつも、ありがとうございます」

 きっとここに三井がいたら相当笑われてるよなあ……と思いながら、にこやかに話している二人を眺めていた。

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