第2話 願いを叶えるアナトミー⑨

その足音はゆっくりと


「龍禅院さん、木下さんに案内させたのって、意図的ですか?」

「は?何の話だい?」

 彼女は私がそう声をかけると訝しげにそう言った。……ちょっと疑っておいて良かった。やっぱり、彼女が仕組んだわけではなかったのか、よく考えれば、この人は人間関係に関してはちょっと疎いところがあるから。

「あいつは真面目だし、仕事も丁寧だから、私の周りの世話も頼んでいるんだよ。何か気に障ったのかい?」

「いや、全然……そんなことは、それより、実は今回はですね、東遠大学病院で……」

 コール音。

「……悪いね、もう少し待っておくれ」

 着信が来たようだ。龍禅院さんが電話をとる。また待つのか、いや電話はしょうがない。

「……はい、はい、なんですって?」

 そしてその声色が変わる。どうやら、私はまた話をする機会を奪われたらしい。

 ……しかしそこまでは予測できても、電話を切った龍禅院さんの言葉には対応できなかった。

「……蛇蝎男が発砲したらしい」

「はい?」

 それは、それが意味することは。

 ……いくら根崎さんであっても、無闇矢鱈に拳銃を取り出すわけがない。

 つまり、神だ。

 しかしなぜこのタイミングで?……いや、今は考えている暇はない。準備は何もできていない。今できることは、とても少ない。

「っ龍禅院さん、この施設に武器は」

「ちっ、あんたらには見せたくなかったんだけどねえ!」

 そう声をかけたときにはすでに彼女は何かを用意していたようだった。預かっていた根崎さんの銃だけではなく、小型の拳銃を三丁ほど持ってきていた。

「他には」

「あるわけないだろう!護身用で手一杯だよ!!」

「すみません!」

 しかし弾は相当あるみたいだった。私はそれをなるだけ回収する……正直、護身用ならここまで弾はいらないと思うけど、あえて突っ込まない。

「じゃあ、私はこれを二人のところに……」

「……いや、残念だが、あんたは逃げるんだね」

「なんでですか!」

「時間切れだよ」

 そこに入ってきたのは、私が最も嫌いな人。真面目で仕事が丁寧らしい男は、龍禅院さんの評価の通りだった。彼は会議室のドアを明け放って言う。

「っ!龍禅院様!と、えりなちゃん?!と、ともかく緊急事態です!避難してください!!」

 彼は誠に憎たらしいまでに誠実な人であった。


 私は彼に抱えられている。

「や……だ!離して!!」

「そんなこと言ってる場合じゃないんだよ、えりなちゃん」

 彼は私を抱え、龍禅院さんの前を守りながら、急いで裏階段(龍禅院さんの部屋にあった隠し階段だ。私も存在を知らなかった)を駆け上がっていた。

「何があったんですか」

「不審者が侵入して、礼拝堂の中で発砲したもようです……私は天蓮景様から命を受け、お二人を逃すようにと……」

「天蓮景様は?」

「まだ中にいらっしゃいますが、警備員たちが迅速な対応を……」

 その瞬間、龍禅院さんの動きが止まった。聖職者としての顔に、一本のヒビが入るのを見た気がした。

「なんですって?」

「ですから……」

「それは、天蓮景様を置いて逃げろと?」

 それは修羅のような顔だった。今まで私も、龍禅院さんの様々な裏表の姿を見てきたが、こんな顔は見たことがなかった。永遠の信仰も冷めるような、いや逆に畏怖を覚えてしまうような、そういう顔をしていた。私を抱えた男がこれを見ていなかったのは、幸いだったのだろうか否か。そして龍禅院さんは和服の裾を持ち、壁に手を突きながら来た道を戻り始めた。

「お、お待ちください龍禅院様!」

「その子を上へ、私は戻ります」

「しかし龍禅院様無くては……」

「馬鹿をおっしゃい!」

 それはいっそ清々しさを感じるほどの喝だった。

「天蓮景様の死は我々教団全体の死を意味するのですよ!私の命とどちらが大事かなど比べ物にもなりません!私は天蓮景様の盾となってでもかの方をお守りしに行かねばなりません」

「……!では私も」

「天蓮景様のお言葉に逆らうおつもりですか!!」

 言っていることは無茶苦茶だった。だって彼は、私と龍禅院さんの命を預けられたのだから。しかしそれは言い返せない気迫となってコンクリート張りの階段の中に響き渡った。彼からすれば、それは福音に聞こえるのだろうか。

「私は、私の意思で天蓮景様の元に向かいます。木下、あなたが咎められることはありません、お行きなさい」

「ですが」

「行きなさい!!」

 そのまま龍禅院様は階段をゆっくりと下って行った。私はただ、動かぬ木下の上で、茫然としていることしかできなかった。


 広場は騒がしかった。

「まだ人が中に……」

「だが中に入るのは……」

「天蓮景様は?!」

「っ、行かなきゃ」

 私が向かおうとすると、そばに立っていた男が私を止めた。

「だめだよ、心配なら他の人が向かうから、えりなちゃんはここで待っていて」

 彼は私に目線を合わせた。両肩に置かれた手は強すぎもせず、かと言って逃げる余裕はなさそうに思えた。私の頭の中に様々な言葉がぐるぐる攪拌される。能力、正体、本名、おねだり、やり方は悪いものからいいものまでよりどりみどりだったはずだ。なのに。

「っ、さわらないで!」

 私は思いっきり彼の手をはたき落としていた。私が明確に彼への拒絶を表したのは、これが初めてだった。それは彼にとっても驚くようなことであったらしい、

「え、あ、ご、ごめん」

 可哀想なくらいに動揺した彼に、それでも嫌悪感が勝る。そしてできたチャンスに体は勝手に動いていた。

「あ、待って!」

「来ないでってば、嫌、きもい!!!」

「ちょっと……っああ!!」

 力の入ってなかった大人の体を突き飛ばし、建物の中に走った。無我夢中だった。後ろから騒ぐような、バタバタとした音が聞こえるが、私はそれを無視して、全部全部なかったことにして、階段を転がるように登って行った。

 

 妙に冷静な私が頭の奥にいて、自分に対してため息をついていた。いくらでも方法はあったはずなんだ、能力のこととかをもっときちんと言うとか、それでも、あのときああして走り出さずにはいられなかった。

 私の中の私が再度ため息をつく。明らかに最適解ではなかった。彼は罪悪感に苛まれて私を追おうとして、それを誰かに止められて別の子の避難を優先させていた。よかった、あの場で追いかけられていたら、私はいずれ追いつかれていただろう。

 大礼拝堂を目指しながら、私は携帯電話を取り出す。何も準備できていない中での襲撃だ、神ではない、半神とは言え、今回は正直勝ち目が薄い。神愛と神忌などの力は貴重だ。確かに、ときには市民の盾となって戦うことも重要であるが……ここで犠牲になれば、また1から育てなければならなくなる。今養成されている神愛、神忌は、こちらに来るには若すぎる。

 コール音、今回は仕方ない、ひとまず撤退しなければ。高田さん、出てくれ。コール音、コール音、コール音……つながらない、だめだ。私は息が肺から無くなってしまうんじゃないかと思うくらい、全力で走った。

 二人が行ったの大礼拝堂は、三階だったはずだ。階段を必死で登る。エレベーターなんて悠長なことは言ってられないが、私の小さな体は階段でももどかしかった。一段一段が、昔と違って高くて、スーツの中のポケットに入れた、拳銃と弾薬が重い。早く、はやく、あの部屋へ……。

 大礼拝堂は、劇場と教会の礼拝堂が合わさったような内装をしている。真ん中のステージのような場所に祭壇があり、傾斜がついた周囲の席のどこからでも教祖様の姿が見えるような作りになっていた。だから一見すると、それは劇場のようにも見えた。パンとサーカス、なんて言葉があるくらいだから、その演出重視の作りは、いろいろな意味で理にかなっているのだろう。

 はやる息を抑えに抑えて、静かに扉を開いた時、その祭壇の真ん中には、一人の男性がいた。彼は、さも自分が主人公であるかのように、演壇の上に座っている。周りには血溜まり、十数人ほどの人間が、倒れていた。彼らは手や足を怪我したり……ヘタをすれば、切断されている者も多く、しかしその切断面は生々しいのに、その割に出血量が少なかった。彼らは形容し難い声を上げながら、ずるずると床を這い回る。ほとんどが、まだ息があるようだった。さらに端には人だかりが。彼らも逃げ遅れたのだろう、その中から、若い男性が前に出て、奥にいる人たちを守ろうとしている。そこには、天蓮景様の姿もあった。龍禅院さんは……そのそばに、体を無理やり捻られたような、不自然な姿勢で倒れ伏していた。悪夢のようだった。現実だと信じたくないような光景だった。しかも、その上、ステージに立つ男の顔は。

 ……かつての自分そっくりそのままだったのだ。

「ごめんなさい」

 そう言って艶めかしく足を組んだ。手を顎に乗せて神経質そうに唇に触れる様は、記憶の中の男の指と同じなのに、入るものが違うだけで、冗談のような非現実性を保っていた。

「他人の空似なの、まさかこんな、あなたたちが知っているくらい近い時代に生きてた人の容姿になっちゃってたなんて思わなくて……あーもう二度目よ、やんなっちゃう」

 そんな風に誰かのような男は言いつつ、自然な手つきでポケットから手鏡と口紅を取り出すと、丁寧にそれを唇に塗り付けた。それがあまりに異様な光景で、皮膚の下の冷や汗が全身に噴き出す。

「……あ、また間違えた、男は口紅はしないんだった」

「その姿をやめろ、虫唾が走る」

 声は斜め前から聞こえた。客席の真ん中に立つ根崎さんが、銃をむけている。

「……ほんっと失礼なやつ、突然撃ってきた上に、名乗るってこともしないんだ」

「てめえみたいなバケモンに名乗る名はねえんだよ」

「……むかつく」

 男が跳躍した。いや、跳躍と言っていいのだろうか、ただ、ともかく、大きな大人の体が飛び上がったかと思うと、次の瞬間には、根崎さんの元へ……だが客席の中をバク転することで、根崎さんは彼の攻撃を回避した。だが二撃目が既に根崎さんを既に捉えていた。それを、近くにいたらしい高田さんが引き寄せ回避。

「……失礼いたしました。私、高田、こちらは根崎と申します」

「そう、よろしく、礼儀正しいのは好きだよ」

 さも当然のことのように彼は答えた。歪な方向に首を捻っている信者の首を、片手でつい、と元に戻しながら。手持ち無沙汰に、皿の上の料理を整えるが如く。まだ息のあるらしい彼女は口の端からぶくぶくと泡を垂らしている。

「はぁ、にしても、やっぱり同じ半端者でも、ずいぶん感覚が違うんだ。似た人間が近場で死んでるんだったら、普通配慮するでしょ。じゃなきゃこんな空気にならなくて済んだのに」

「……一旦、その姿をやめてくださいませんか」

「あ、そうだね、冷静に話そっか」

 彼の輪郭が歪み、溶ける。次の瞬間には、見覚えのない女が立っていた。

「あー、この姿やだけどしょーがないよねえ、あーやだやだ」

「もう一つ、お尋ねしてもよろしいですか」

「なあに」

「これから、あなたは一体何をする予定ですか?」

「……うーん、食事、かなあ」

 それはとても真っ当な答えではなかった。

「ちょっと量が多いから、小分けにして冷凍したりするとは思うけど、食べるよ」

「なにを、ですか」

「ここにあるもの、ほら、もったいないじゃん」

 ドッペルゲンガーの食人鬼はそう言って高田さんに笑いかけた。

「……もったいない、とは」

「いやね、どうせなら、食べちゃおうかなって、どうせいずれ誰かのお腹には入るんだし、早い者勝ちってことで」

「……なる、ほど」

 高田さんは無理やりうなずいたようだった。これは……おそらく半神だ。人と話し、しかし人の枠から逸れている。しかし彼らの存在は、神よりも珍しいはずだ。神の一面が、人間に認識されることを嫌うが、肉体を捨てられない半端者である半神は、普段は隠れていると。では、彼、いや彼女は、東遠大学に現れた半神と同じ……?

 半分人間で、半分神であるらしい彼女は、素直に頷く高田さんの頭を撫でた。

「いい子ね~物わかりのいい子も好きだよ~、でも大丈夫!ひとまずは、殺さないから。みんなまだ息があるよ」

「つまり、我々は」

「ん~、とりあえず、収穫しちゃう」

 いつの間にか、彼女の手には、細身のカッターが握られていた。小さくて、とても人を傷つけられるようには見えない。だが。振られた腕は女性のものとは思えない速さと重さで、高田さんの方に振り下ろされた。

 ……高田さんの義手の上腕には鋼鉄のプレートが仕込まれており、これを使うことで緊急時には銃弾からも身を守ることができる……半神がカッターから繰り出す突きを、高田さんが右手で受け止めた。安物のカッターとは思えない鋭く重い一撃は、木製の義手に受け止められ、食い込みその動きに隙を与える。しかし、高田さんは他者を傷つけられない。彼は神も災難も人間も、受け入れることしかできない。それが神愛というものだ。彼は穢れから最も離れた人間でなければならないのだ。

「根崎!」

 だから彼は義手の左腕を根崎さんに差し出した。根崎さんはそれを掴み、ひねる。高田さんの手首は簡単に外れ、中からむき身のコンバットナイフが現れた。根崎さんはそれを瞬時に抜き取り、彼女の腹に向かって突き刺す。だが鈍い音とともに根崎さんの一撃は弾かれた。風貌とは正反対の力で彼女は高田さんの体を引き、彼の右の義手をカッターごと握り込み、盾代わりに使ったのだ。

 しかしさらに二撃、三撃と連続で振り下ろされた根崎さんのナイフ。その一撃が、なんとか彼女に当たる。真っ白な彼女の腕がぱっくりと開き、とめどなく血が溢れた。実体があるという、何よりの証拠だった。半神の彼女が反撃としてカッターを振りかざすも、それは高田さんが阻止する。傷のついた木製の腕は段々と食い込みが増し、彼女の刃を鈍らせる。

 私は息を潜めながら、龍禅院さんから渡されていた銃に弾を込めていた。オートマの、見たことはない種類の銃だ。私はできるだけ見えない場所に移動しながら準備を進める。相手は半神だから、私の隠密能力も半分しか効かないと考えていたほうが良い。どこからができて、どこまでができないのかは不明だ。侵入はできたので、おそらく視界には写っていないのだろう。だがそれが、もしかしたら半径何メートルまでなら認識されないのかもしれないし、五感の一部が働かないでいてくれているだけで、聴覚では私のことがわかるかもしれない。だが、わからない中で下手に動くのは自殺と同じだ。

 私は立ち上がった。目の前では、高田さんがすんでのところで半神のカッターを受け止め、根崎さんが銃を構えて撃つ所だった。発砲音、肩に命中。よし、ならばここで二人に気づいてもらえればあるいは……。と、いうところで。

「えりなちゃん!早く逃げて!!」

 それは善意だった。人だかりには、保育士の鈴木さんの顔が。信者であり、善良であり、子供のことを考える人の、叫びのような祈りだった。普通そうだ。目の前の不審者の視界の中に映る子供を、認識していないなどと思うはずがない。おそらく、意識をたまたま失っていた女の子が、朦朧と立ち上がったように、見えたのだろう。

 目の前に黒いものが広がった。それは、振り飛ばされた高田さんの背中だった。

「っ!!!」

 七十キロ近い男性の体重が、全身にのしかかる。衝撃と共に、全身を殴打する。

「……っ、透子ちゃん?!」

「だいじょうぶ、だいじょうぶだから」

 口に出した大丈夫はとっさに出た言葉だった。正直現状がよくわかっていなかった。視界は点滅し、体の奥から嫌な音がした。ただ、口から大丈夫と言う言葉がついて出ただけのこと。

「あ、ぐぁあああ!」

 さらに根崎さんが礼拝堂の床に転がった。彼の腹には、深く、異常なまでに深く、彼女のカッターを握った手が刺さっていた。

「あたった」

 ……私の油断だ。血の気が引いた。高田さんが何か言っている。

 私のミスだ。見えていなければ大丈夫だろうと、思って、普通の人に、どう映るか考えなかった自分の落ち度だった。ばか、ばか、大馬鹿、神には映らなくても、今の私はもう普通の人には見えるんだ。しかも、ああ、普通の人にとって、私はただの子供。そのバイアスを忘れていた。私は口で大丈夫と言い続けた。そして頭では、次にとるべき行動を考え始めていた。でも頭がまとまらない。一瞬で形勢は不利から絶望に変わった。私のせいだ。高田さんの硬い片方の腕が、私を抱えている。彼はきっと自分を責めているのだろう。そう言う人だから、そういうひとだから。

「あー時間かかった。さて……まずは、彼かなあ、やっぱり、逃げられちゃったらやだし」

 彼女はカッターを握りなおしつつ言った。彼女がそれを振るって根崎さんの血を払うと、その簡単な動きだけで全ての血と脂がカッターから振り払われた。明らかに物理法則を無視している。そしてゆっくりと、彼女は近づいてくる。

「高田さん、逃げて、逃げて」

「でも」

「たのむ、たのむから、逃げて高田さん、それで、おうえんを、いや、もう、だめだ、ごめん、【お願い】逃げて」

 どこまで口にできていたのだろう。どこまで冷静だったのだろう。私は思いつく限りのことを言った。

「……っ、わか、りました」

 ……私を、抱えていた暖かさが、消えた。

「あ!ちょっと待ちなさい!」

 そこに倒れていた根崎さんが半神の足元にすがり付き、その白い脚にナイフを突き立てた。待ってましたと言わんばかりの獰猛さでニヤリと笑った。

「っ、この」

 半神がカッターを突き立て、根崎さんの悲鳴が響く。彼女は何度も何度も、それこそ害虫を駆除するみたいに念入りに、根崎さんの体を穴だらけにしていく。あきらかな急所を刺されても、根崎さんは息があった。肺に血が混じり、不気味な音を立てている。しかし息があるならと言わんばかりに、根崎さんものたうつ。ああでも、段々と彼の動きが鈍くなってきた。もしかしたら、彼女は根崎さんだけでも殺すつもりなのかもしれなかった。だめだ。それは、でも、今できることがないのはすでにわかっていた。私のミスが少しだけあったチャンスを逃したのだ。でも、ああ助けなきゃ、助けなきゃ。逃げて、根崎さん。君がそんなことをする必要は。


 ……その時、突然部屋の空気が変わった。理屈にならない生き物が、ピタリと動きを止めるような、大きな変化が起こった。それは例えるなら、祝福だった。でも私たちにとっては、祝福ではない。

「っ違う!だめ高田さん!!」

 部屋の空気が清浄なものに包まれている。さっきまで漂っていた燻る血の匂いが、どこからともなく流れてきた冷たい空気によって押し流されていった。私はこの感覚を知っていた。私が……私が、死にそうになったときにも、同じ風が吹いていた。

「違うの!そういうことじゃない!!」

 何が起きたのかはわかる。高田さんが祈ったのだ。渡辺さんが神の子を孕む代わりに安全を手に入れられているように、高田さんもまた加護を得ている。それは彼の祈りは必ず聞き届けられる、という加護。

 彼は特別神に愛された人間である。なぜなのかはわからない、理屈もない、ただ、そういう風に生まれた。そういう才能があった。でもそれだけならば本当にそれだけの話だ。それ以上の意味はない。しかし彼はこの市に生まれ、この道を選んでしまった。

 半神は何かを感じ取ったのか、つ、と上を向いた。目の前の血塗れで今にも噛みつかんばかりに睨みつける這いつくばった根崎さんには目もくれず。彼の蛇のような目にも、何かと通じている半神の姿が写っている。しかし彼も動こうとはしなかった。いや、動けないのかもしれない。だとすれば……。

「っ高田さん!!」

 私は振り向いた。何かが崩れている、何かが話しかけている。静寂の中で何かが蠢いている。空気の中で踊り回る何者かがいる。いるということだけわかった。それしかわからなかった。私は走り出そうとする。平衡感覚を失っている体は、立ち上がろうとするだけで激痛とめまいが走り、倒れてしまう。胸が痛い、肋骨が、折れているのか。でも、這いずって扉に向かう。違うの、違う、私が望んでいたのは、あなたに祈りを強要させることじゃない。

 彼の祈りは聞き届けられる。必ず。彼は神に取り合われるような、愛された人間だ。そんな彼を特別気に入って、独り占めしたいと思うような神がいたんだと思う。かつて高田さん本人が話してくれた、昔の話、彼が実戦に投入されてまだいくばくも立たなかった頃に、彼に取引を持ちかけた神がいた。わざわざ人の言葉を使ってまでその神が持ちかけた提案は「願いを一つ叶えるごとに、五体を一つずつ神に捧げる」というものだった。彼はそれを飲んだのだ。だから彼の腕はない。

 腕は一本ずつ取り上げられた。なら次は、足だ。

「やめて、ねえ、やめてってば……!」

 わかってはいた、ここから後戻りするはずもないこと、こんなところでがなり声をあげたところで、わがままを言ったところで、意味がないということを。根崎さんは虫の息だ。意識が途切れ始めて、口に入った血を咽せて吐き出すこともできずにただ泡立たせている。このままでは死ぬだろう、いや、何もしなければ、彼は死ぬ。ここから救急車を呼んで、運んで、治療したところで死んでしまうかもしれない。なのに半分の神様はまだ彼に敵意を向けているのだから。でも根崎さんも失うわけにはいかない、今私たちの部には神忌は根崎さんしかいないし、まだ誕生日のお祝いも渡せてないし、それに彼は、彼は、それに、でも。

「……とんだ反則技ね、全く」

 彼女は、半神は……何かと話し終えたらしかった。明らかに不機嫌な顔をしていた。そして彼女が手を前にやるような素振りを見せると、誰かの手に顔を覆われるような感覚がして……。


 惨劇は消え去っていた。噎せ返る血の匂いも、根崎さんの詰まったような呼吸も、ねじれたまま震えるいくつかの肉体も、私のめまいと痛みも、何もかもが消え去って、ただここには平和な礼拝堂があった。端で小さく固まってその場をやり過ごそうとしていた信者たちも、皆倒れ伏していた。

「あー、もう。そういうのあるんだったら初めから言ってよね、反則でしょ」

 私たちには未知の技を散々使ってくる理不尽な災害は、そう言って長椅子に座った。私は怪我のショックからか、気絶している根崎さんの元に寄り、その肩を抱えた。傷はなかった。でも氷を抱えてるみたいに冷たい。正直、私が抱えて素早く動けるはずもないが、できるだけ早くこの場から離れるに限る。彼女は恐ろしいものだ。今、触れてはならない。牛の歩みで根崎さんを引きずりながら、私の意識は高田さんに向く。フラッシュバックするのは、彼のおかげで私が生き延びたこと。

「ちょっと、何も言わずに出て行くことないだろ、せめて挨拶くらいするのが人間の礼儀じゃないの」

 何が礼儀だ、言いかけた言葉をゆっくり、ゆっくりと飲み込む。

「……失礼します。部下を、探さなくてはならないので」

「怯えなくても、もう襲わないよ、今回のことでは。止められちゃったもん。流石に私でも、神様には逆らえない」

 彼女はどこからかタバコを取り出した。火はなぜかもう付いている。それをひと吹かしすると、すぐに「まっず!」と言って握り潰してしまった。そして「はあ~クソウザい上に持ってるものまで悪趣味なんて、終わってるじゃん」とボヤき、立ち上がる。

「いーい?今回は引くけど、次会ったら解体して冷凍庫に保存してゆっくりおいしく食べちゃうんだから」

 抵抗する子豚に言うみたいな声だった。彼女はそのまま根崎さんを抱えた私の鼻をくい、と押すと、ヒールを鳴らして部屋を抜けていった。そしてそれすら夢か幻だったかのように、次の瞬間には消えていた。


 高田さんを、すぐ近くの階段の踊り場で見つけた。そこは地下の中で一番近い窓がある場所であった。窓から暖かな光が漏れて、彼に降り注いでいる。それを振り払えたらどんなにいいだろうと思った。でも、根崎さんを抱えたままでは私はここを登ることができなかった。根崎さんの身体は、怪我が治ったはずなのに驚くほど冷たくて……。

 根崎さんの下敷きになったまま、わあわあ泣いている私が発見されたのは、それから三十分後のことだった。冷静さを欠いて、混乱の極みの中で、ただどうしようもできず泣いていた私は、今思うと恥ずかしいくらい不可解で、どうしてあんなことをしてしまったのか、冷静にスマホで連絡を取るとか、一度二人から離れて上に人を呼ぶとか、できたはずなのに。ただ私が、そうさせてはくれなかった。小さな体には私の癇癪は大きすぎて、抱えきれなかった。


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