第2話 願いを叶えるアナトミー⑧
モナリザっておばさんだよね
あの後、運よく襲撃もなく、白井さんは元気に起きて病院に向かっていった。命を狙われていたくせにぐっすり眠ったらしい彼は「仕事があるので」と言って東遠大学病院に向かった。理論上狙われることはないから大丈夫とは言ったけれど、切り替えの速さがすごい。
一方私たちは、神景会に向かった。もちろん協力を要請するためである。特に一度騒ぎを起こしてしまっている病院に再度向かうのは、今回は協力者がいるとはいえ難しい。神景会に所属している医者や看護師に、調べてもらうほうがリスクは低いだろう。もちろん、内容は可能な限り伏せて、だが。……龍禅院さんが、その辺りの忖度をしてくれている。彼女は裏表が激しいが、それは裏を返せば相手によって対応を変えることができる柔軟性があるということだった。
相変わらずの漂白された日光、それはたとえ曇りの日でも、雨の日でも変わらない。特殊なガラスを通って窓から照らされる光はいつも白かった。光すら変えていくようで、私はこの施設が嫌いだった。今もきっとそうだ。
アポイントメントの時間になった時、信者の一人が姿を現した。
「お待たせしてすみません、もう少々お待ちいただけますか」
「大丈夫ですけど、何かあったんですか?」
龍禅院さんが時間に遅れるのはとても珍しい、初めてかもしれない。
「それが……」
「あらあら透子ちゃんいらっしゃい!」
信者の言葉に被せるように、龍禅院さんの部屋から出てきたのは天蓮景様だった。
「よくきましたね、あ、この人が根崎さんと高田さん?はじめまして」
「こんにちは、あの、龍禅院さんはどうされたんですか?」
「それが持病の腰痛が悪化したみたいでね、今整体師の資格を持っている人に診てもらっている所なの」
そう言う教祖様は背筋も伸びていて、全くそういう様子は見えない。たしかにおばさん然とはしているが、少なくとも龍禅院さんの「姉」らしくはみえない。しかし、今まで姿を見せなかった天蓮景様が、こうして私たちを迎えるようになったのは、どうしてなのだろう。
「はは、あのばーさんも年齢には逆らえないみてえだな」
「根崎」
高田さんと根崎さんのいつものやりとりに、ふと、天蓮景様が動きを止めた。彼女が顔を上げる、笑みの形で整えられた表情は真っ直ぐ二人を見つめた。
「あら……あらあらあらあら」
「っ、んですか、天蓮景……さん」
はい、はいはいと彼女は呟きながら二人に近づき、柔らかな手指で二人の手に触れる。されるがまま笑みを保っている高田さんと、高田さんに当たることも気にせず手を大きく振り払って天蓮景様の手をはたきおとす根崎さん。信者の人が思わず何か口を出そうとしたところを、彼女が制した。
「……これは神山のところの技ね」
「……!」
「……香織ったら、いったいいくつ隠し事をすれば気が済むのかしら……ま、いいか、村上さん」
はい、と従ったのは後ろにいた信者の人だった。瞳の中に怒りを隠そうとしていない。
「一時の感情に流されてはいけませんよ。あなたの修行のためにも、このお二人を大礼拝堂にお連れして」
「は?何言ってんだババア」
「礼拝の参加は、部外者でも自由だから安心してくださいね。お話は、透子ちゃんから伺います。高田さん、【お願いします】、いいですね?」
「!……は、い……」
突如彼女が言った言葉は別に不自然さを感じさせない普通の言葉、しかし高田さんにとっては違う。
「っ、俺はごめんだぞ」
「別にいいですよ……じゃあ村上さん、高田さんだけお連れしてください、もちろんその後はぜひこちらの活動などのお話もなさってね」
「!」
根崎さんも気づいたようだ。彼女は、わかっていてやっているのだと。高田さん一人では、神景会の勧誘を断ることは難しい。私は、てっきり天蓮景様は龍禅院さんの傀儡なのだと思っていた。主な活動は、すべて龍禅院さんの手で行われたものばかりだったからだ。でも、そうではないのかもしれない。
「……あら?あなたもいらっしゃるんですか」
「外部の人間の出入りは自由なんだろ?え?」
根崎さんは村上さんと口論をする態勢を取り始めている。高田さんは、無言でついていった。
「なぜ二人を別の場所に?」
私は天蓮景様に連れられて龍禅院さんの部屋に通された。
「神山のやり方はうちのやり方とは相性が悪いんですよ」
神山、とは神愛、神忌の技術……通称「双覡(そうげき)」を創設した、神山神社の神主の家系のことだろう。根崎さんと高田さんの師匠が、そう言った名前だったはずだ。
神愛とは、文字どおり神に愛される者だ。時々いるだろう、やっていることは大したことではないはずなのに、妙に人から好かれる人。運の良い人、憎めない人が。高田さんはいわゆるそれだ。そういう人を、儀式のために教育したものが「神愛」となる。そして根崎さんはその逆。何をしたって憎たらしいのに、そこにあの嫌な言動が加わる。きっと殺意を抱かれた事も少なくないはずだ。その二人と相性がよくない、とは。
「かーおーりーちゃん、具合はどう?」
だからこの発言に違和感をおぼることに一歩遅れた。
「姉様!」
疑問はこの一言で散ってしまった。姉様?
「姉様、私は大丈夫です、すっかり良くなりました。それよりも何かご無礼はございませんでしたか、私昨日は結局何も」
「大丈夫だってもう、あなたいっつもそうなんだから」
「しかししかし天蓮景様」
「お姉ちゃんって呼んでってば」
「姉様」
さっと頭の中で言葉を整理して、状況と現状を把握して、なんとかかんとか、一つだけ解ったのは、この天蓮景様は色々と確信犯だということ。多分、この短い時間の会話で分かった限り、人に一杯食わせた後さらに二杯、三杯食わせてこちらが目を回しているところで「おかわりいかが?」って言う人だ。似たもの姉妹か?厄介なのは龍禅院さんだけで十分だよ。……いや、龍禅院さんより厄介そうだなこの人。や、やだ~!
私はこの会話にいたたまれなくなりすぐにでもこの小さな体を隠してとっととこの会話を聞いていなかったことにしたかった。
「……元はと言えば姉様のご要望に私が答えられぬのが全て悪いのです。その上年も重ね……」
願い叶わず、私室だったらしい扉から、一瞬だけ顔を覗かせた龍禅院さんは、白いワンピース状の寝巻きをきていた。だが私の姿を認識した瞬間、扉が閉じられた。閉じる勢いが強すぎて、ドアの端に布の裾か挟まっている。
「……なんでアンタがいるんだい」
「と、通されたからです……」
当の天蓮景様はニコニコと笑っている。その笑みは整っていたが、どこか子供じみていた。
「……天蓮景様のお言葉なら仕方ありません」
そして龍禅院さんの言葉にはいつもの覇気がない。いや覇気というか、闘争心のような野心というか……。
「急いで支度をするから、もう少し待っておくれ」
「裸で来てもいいじゃない、女の子同士なんだし」
「え」
「では」
「冗談よ」
……いつもの百倍聞き分けの良い龍禅院さんが怖い。
「じゃあ待ってるわ。私、礼拝の時間まで透子ちゃんと一緒にいるから」
「申し訳ありません天蓮景様」
「お姉ちゃん」
「……姉様」
天蓮景様のすごくいい笑顔に既視感があって、はっとした。根崎さんを揶揄ってる時の龍禅院さんの顔と、そっくりそのままだった。どうやら、彼女にとっての標的は、根崎さんではなく私らしい。か、勘弁してくれ。根崎さんを助けなかったバチが当たったんだろうか……いや神的に、あの人が庇われるとかはちょっとありえないので、多分、ただ私の運が悪いだけだろう。
「かわいいでしょ、香織ちゃんって」
そう言いながら天蓮景様は出された紅茶を飲んだ。気が重い。
「かわいいでしょと言われましても……」
確かに、今までにない一面が見れたところはあるが、別に知りたいとか言ってない。
「だってあのまま五十年ですよ……もう六十年かな、ずーっとお姉ちゃんって呼んでって言ってるのに、なかなかそうしてくれないんです。姉様って言わせるのにも随分かかりました」
天蓮景様は世間話を続けている。私は、早く龍禅院さんと合流して、本題について話したい。というか帰りたい。この人怖い。なんか知らない間にやばいところに首突っ込んで頭落とされそうな感じがする。
「私たちね、離されて育ったんですよ」
扉を見つめる目が優しい。いや、いいんですよ昔話とか、そういうの、いいんで。お祈りでもなんでもいいから高田さんの手を握って根崎さんの嫌味が聞きたい。
「異母姉妹でね、うちは元々母体となっていた宗教組織があって、そこから分離して、今の形になっているんですけどね、そこから離れた理由があって。というのも、私はそこの後継となるように育てられていたんですね、でも、彼女はそうじゃなかった。私の召使になるように教育されてきたんです。それが、本当に嫌でねえ……姉妹なのに上下があるなんて、おかしいじゃないですか。そもそも、人はみんな、本来平等であるはずなのに」
「……平等という割に、あなたや龍禅院さんは崇められているように見えますが」
「あら、猜疑心が強いのね、それは、信者の皆様がしていることで、私たちが強要しているわけじゃないんですよ……それに、あまり人を信用しないのも、よくないんじゃないかしら、特にあなたみたいな子供のうちは……」
彼女はもっともらしいことを言っている。しかし、これまでのことや、噂などを耳にすれば、疑うのは自明の理で……。
「お父様が嫌いなのはわかります」
ガツンと頭を殴られたような気持ちになった。
「今、なんと?」
「木下さんとは、親子ですよね?似てないから最初わからなかったわ」
彼女の笑みは深い、深く、美しく、一種の引力めいたものがあった。
「私もね、親のことは苦手だったから……あなたと似たようなこともしたし、それで別の道を歩んだ」
「……。」
「誰かを嫌いになるのは、誰かを好きになるのと同じくらい、人間である以上、当然のことです。ただ、嫌いだからと言って、攻撃してはいけないわけで……あなたはその点、私よりずっと良い子ですよ」
じわりと胸に染み入るものがあった。それはかつての私の記憶だ。彼女は母のような顔をして、私に語りかける。それは非常に魅力的な空気だった。記憶の中の母親が今目の前に現れて語りかけてきているような、一種神秘的な心地すらした。
「あなたは香織と似た所があるわ」
「……。」
「何か、困ったことがあったら、いつでも頼ってくれていいのよ」
私は、息を吸って、吐く。そして、
「……お気遣いくださりありがとうございます」
とだけ言った。
「……そう、でも、無理はしないでね」
「お待たせいたしました。佐々木さん、時間がかかってしまいもうしわけありません」
「いえ」
龍禅院さんが出てきた時、そのやわらかな空気は霧散した。
「では、失礼いたします」
「はい、私も礼拝に向かいます、今日は色々とごめんなさいね」
「いえ……」
彼女はゆっくり歩いて行った。やはり、龍禅院さんの姉には見えない。
先ほどの話の、どこまでが本当で、どこまでが私を懐柔するための方便なのかはわからない、が、悔しいことに、彼女に興味を持ってしまったことは、確かなようだった。彼女が教祖としての才能があることは、確からしかった。
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