第2話 願いを叶えるアナトミー⑦

たまに来る夜のひとつ


佐々木side


 高田さんがコンビニから帰ってきたみたいだ。扉が開くとともにコートをかける音がする。

「おかえり、お疲れさま、白井さんどうだった?」

「特に変わりはなかったよ」

 彼はゆっくりと部屋の扉を閉めた。

「いやごめんね、護衛お願いしちゃって」

「大丈夫だよ、ちょうど買いたいものあったし」

「そう?……ってずいぶんまあ大きいものを買いましたね」

「まあね……ていうかさ、白井さん肝座りすぎてる気がするんだけど、あれ、いいのかな……?」

 高田さんはそう言ってちゃぶ台のそばに腰掛けた。確かに、白井さんには狙われていることをもう少し自覚して欲しいとも思うけれど、案外あれはあれでちょうどいいのかもしれない。下手に意識をしすぎるほうが、よくないものは寄ってくるものだから。

「いーのかなといいますと?」

「無理してるんじゃないかなって」

「うーん、そうは見えないけどなあ」

「そう」

 彼はそう言いながら、日本酒の瓶を開けた。と、言っても腕を動かしたわけではなく、私からすると、勝手に瓶が空いたように見えるのが不思議だ。しかし、コップに注がれたそれが、なにも支えのないまま、彼の口元に持っていかれるのも、高田さんが水と変わらない感覚で日本酒を飲むのにも、私はもう慣れていた。

 今日は、高田さんのところに行くか、根崎さんのところに行くか迷ったのだけれど、ひとまず今日は高田さんの方に行くことにした。私はよく二人のどちらかの部屋に泊まる。ほら、子供のうちって、どことなく人恋しくなるじゃない、なるよね?うんうん大丈夫。まあ根崎さんには追い出されることもあるけど。

 私は高田さんの背中に回り、ハーネスで固定されている両腕を取りはずす。

「ありがとう」

「洗濯しとく?」

「いや、自分でやるよ」

「いいって、たまには甘えてよ」

 ハーネスは布製なので、時々中性洗剤を使って洗う必要があった。いや、高田さんの場合は毎日やる必要がある。でも、彼にとって洗濯は割と重労働だから、できる限り手伝ってあげたい。というのも、同時に二つの方向にしか、物を保持、動かすことができない、つまり物を持ちながらスポンジを挟むとか、石鹸を手のひらに出す、みたいなことができないから、工程の一つ一つがかなり遅くなってしまうのだ。肉体としての手が無いというのは、思ったよりも厄介だ。木製の手も、普通の手ほど器用じゃないし、濡れてカビが生えたり、ネジが緩んだりすることもある。だったら、私が手伝う方が彼の負担は少なくて済む。彼は「じゃあ遠慮なく」と言ってテレビを点けた。そういえば、彼が見たいと言っていたドラマの放送時間だった。


 サスペンスドラマの結末は「実は同性愛者だったからばれなかった痴情のもつれ」という結果で終わった。最近、こういう結末多いな。まあ面白かったからいいや。歯を磨いて、シャワー浴びて、身支度を整えた。ウサギの模様がたくさん入ったピンクのフワフワのパジャマを「最新モードよ」とキメポーズで見せたのが受けたのはよかったな。高田さんったら歯磨き粉吹き出しながら笑うんだもの、それを見て私も笑っちゃった。

「消すよ」

「うん」

 電気も消した。あとは眠るだけだった。

 ……腕のない高田さんは新鮮だ。彼は普段から自分の手が不自然に見えないように努力しているから、こうして何もないのが逆に不自然に見える。同じ布団に入ってはいるが、実は腕がない高田さんと、根崎さんは幅が同じくらいで、私が一人追加されても十分に余裕があった。いつも、高田さんの方が体の幅が大きいから、この違和感のなさが面白いような、そうでないような。

 ……私は、さっきからずっと聞きたかったことを聞くことにした。

「ねえ、腕、痛いの?」

「……まあ、少しは」

 彼はそう言って寝返りを打った。触れて欲しくないのだろうか、いや、ここは聞いておいた方がいい。

「少しだけ?昼も、なんだか腕を摩ってるように見えたけど」

「透子ちゃん」

「いいよ、前の名前で」

 普段、私は佐々木透子という名前を用いているが、私にはもう一つのかつての名前があった。普段は面倒さと周囲への配慮から、透子の方の名前で統一してはいるが……彼は私がそう言うと、唇を真一文字に引き延ばした。私は彼から笑顔が消えたことに少しほっとしていて、あまりの本末転倒さに面の皮を引き剥がしたくなった。

「……いや、外で呼び間違えちゃったらまずいから透子ちゃんのままで……」

「あはは、そんなこと、前も言ってたねえ」

 私はうまくできているだろうか、かつての私みたいに……。高田さんに、かつての小さな善輝君の面影はほとんどない。でも、そんなはずはない。人の根本は、さして変わらないものだ。

「じゃあ、透子でいいからさ……どんな感じに、痛むの?」

「……。」

「話して、今は、言っても大丈夫だよ」

 私は彼に免罪符を渡した。それがただの紙切れであることは私が一番よくわかっていたけれども。

 神は私たちをきっと見ているだろう。どんなに呪術だ警備だなんだで私たちがどうこうして身を守ってプライベートを確保しようとしたところで、彼らからすればままごと遊びみたいなものだ。

 ……神愛としての教育がどんなものか具体的には知らないものの、基本的に、「言うこと」を許さないように教えられていることはわかっている。だからこそ、私は「話して」と言った。大丈夫とも言った。それが必要だと思ったから。

「……まだ、腕があるのに、それが締め付けられているみたいな感じがするんだ、特に左腕が」

 私の身体は小さすぎて、彼と同じ布団に入ると、胸しか見えない。

「左が一番怖かったから」

「はじめてだったしね」

「それも、ある。それもあるけど……」

 彼の言葉を待つ。彼の鼻先が、頭の上にあるのを感じる。

「……、……あの時のことを、思い出すと、無いはずの手から血の気がひくんだ……」

「うん」

「ごめん、なさい、こんな……」

「謝ることじゃない。良いんだよ、言ってくれて」

 私は布団から少し這い上がり、彼の首に腕を回した。幼い頃、母にこうしてもらうととても安心したから、多分私もこうしたほうがいいんだろうなと思ったのだ。それに、彼は他人にすがる腕を持っていないから、私から行くしかない。

 高田さんは、静かに息を整えていた。

 声も上げないで、彼は静かに、息を整えていた。

 私は彼の頭を撫でた。ずいぶん大きな頭になったものだ。いや私が小さくなっただけか。

「……ごめんね、ごめん……」

 彼はやっぱりなにも言わなかった。こわい、こわいよ……しにたくない、しにたくない、左腕をなくしたばかりの時、そう言って彼が魘されていたのを思い出す。彼はもうその時の恐怖を克服したとばかり思っていたが、きっと、そうではなかったのだろう。私に気づかれないように、誰にも気づかれないように振る舞っていただけで。

 そのまま彼は眠った。子供の高い体温は、侮れない眠気を誘う。彼が少しでも良い夢を見てくれることを祈って、私も目蓋を閉じた。

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