第2話 願いを叶えるアナトミー⑤

思い込みの悪夢をずっと信じていたかった


白井side


「というところですかね」

「なるほど……」

「……あまり驚かれませんね」

「一夫一妻制だけが、家族の形態ではないですからね」

「さいですか……」

 彼女は深くため息をついた。彼女の中の常識では、あまり受け入れられなかったのだろうか。そういえば、父親がそこの出身と言っていたから、何か悪い思い出でもあるのかもしれない。

「いやうん、自由よ、自由、基本人がどう生きるかなんて……それに、私とはもう一切関係ないことなので、忘れます。そういうわけで、白井さんも気をつけてください。また「神的災害」が発生する恐れもありますし。特に神景会本部の方には近づかない方がいいかと」

「わかりました、わざわざありがとうございます」

「……ところで、渡辺さんの容体は?」

 彼女の言葉に、額の筋肉が収縮するのを感じた。

「……慣れていると言っていましたが、正直、心配はつきません」

 彼女は妊娠している。これで五度目の妊娠だそうだが、今まで一人も子供ができたことはないという。そして、彼女が今まで生きてこれたのは、一重にこの「妊娠」のおかげだったという。

 神愛、神忌という存在に関しては、俺がここで働くことになったとき、透子ちゃんの口から注意事項や、気にしなくてはならない点、かれらの特性について、教えてもらった。特に神愛については、最初の「神に愛される」という端的な説明だけでは、神忌と比べると随分楽そうだという印象を抱いていたが、むしろ、それは壮絶の一言に尽きた。

 神々は、我々を素材としか思っていない。我々が珍重する食べ物を手に入れたり、ペットを飼ったとしても、人間と全く同じようには扱わないように、神愛は神々にとって都合の良い形でしか愛されない。

 渡辺さんは、はどんな状況にあっても、ほぼ傷一つなく生き延びる。なぜなら、彼女は優秀な母体だから。今まで産んできたのは、すべて神の子だ。渡辺さんは神愛だ。それも、ここが設立された当初からいる。彼女の周りに危機は訪れない。彼女がいる場所を可能な限り避けて、彼らは我々に手を出してくる。だが、万能ではない。所詮は、気を使ってもらえる程度にすぎない。だが、彼女が拠点にとどまっているだけで、彼らは背中の危険を感じなくて済むのだ。その代償が、これだった。

「なにせお腹はいくら大きくなっても、その中身は空洞にしか見えないので、状態がわからないんですよね……渡辺さん自身も、気丈に振る舞ってはいますが……」

 逆子なのか、きちんと大きくなっているのか、そもそも一人なのかすらわからない出産は恐怖だろう。さらに一度、腹の中で目覚めた子供が、彼女の腹をむりやり引き裂いて出ようとした事もあったとまで聞く。今後も似たようなことが起きないとは限らない。

「ただ、最善を尽くします」

「本当にそう言っていただけると心強いです。渡辺さんも、かかりつけのお医者さんができただけで、負担が減ると、言っていましたから」

 腹の中で育て、体調を崩し、生みの苦しみを味わっても、渡辺さんから出てくるものは毎回形容し難い異形であり、生まれた瞬間に空気に溶けるようにして消えていく。そう語る透子ちゃんの目は、虚空を見つめていた。

 ……三井が、死んだことは、よくないことだった。それは今でもそう思える。だが、彼が最期に言ったように、ジン対に当たるのは、違うことなんだ。それを、気づいていなかったらと思うと、ぞっとせざるを得ない。俺は、身勝手だから。身勝手な俺を、最期まで踏みとどまらせてくれている。

「……では、今日のところはこのくらいにしておきましょう。薬局、行くの忘れないでくださいね」

「はーい」

 最後くらい、子供らしくしようと思ったのか、そう素直に返事をする彼女は、間が抜けているというよりは、どこか虚しさのようなものを含んでいた。


「隼人」

 彼女が俺を呼んだ。

「大丈夫、ちゃんと休んでる?」

「休んでるよ」

 清花も医者だ。彼女は、親のコネとは離れたところで研修医時代を過ごし、ここに来たのだという。そして、藤田院長との関係性を指摘されないためにわざわざ母親の旧姓を使っている。……そんなことをしても、昔から彼女が院長の娘だというのは公然の秘密だったらしいが。「な、な、知ってて付き合ったんじゃねーのかよっ!」というかつての三井の声が、浮いて、消えて。

「新しい仕事始めたって聞いたから」

「市役所のやつな」

 彼女は押し黙った。

「……前、あれだけ市役所のことでどうこう言ってたのに、なにがあったのよ」

「……仲直りしたんだよ」

 面食らったような顔をされた。なんだよ、言葉の通りだよ。

「仲直り?」

「ああ」

「え、何それ……珍しいわねあなたがそういう言葉使うの……で、あー、何で争ってたんだっけ」

「まあいいんだろ、それは……で、どうしたんだ」

 ……俺は彼女に神のことも、三井のことも話したくなかった。いや、例え他の人に話したとしても、彼女にだけは隠し通せたらと思っている。三井がいなくなった今、彼女までいなくなってしまうようなことがあれば……。

「ああ……その、言うべきか迷ったんだけど、あなたも関わりがあったからさ」

「なんだ」

「美杏ちゃんが、今朝運ばれてきたのよ、事故で」

 美杏?

「だれだっけ」

「えーっと、ほら……三井くんの患者だった子。あなたも何度か、挨拶したことあったじゃない……ほら、お葬式の時にもいたでしょ」

 三井、の言葉にさっきの言葉がまた頭の中を反射して駆け巡る、知ってて付き合ったんじゃねーのかよ、知ってて、知ってて……彼はその後笑っていた。だめだ、あまり思い出すべきじゃない。俺はもうずいぶん長いこと、、自分が冷静ではないことを察していた。もう克服したつもりでいても、人間の感情の波は引いては押し寄せて、知識でわかっていても、どうしようもないことがある。

「覚えてないな」

「……そう。いや、私も途中までわからなくて、処置に参加しようとして、顔を見たら思い出してね……彼女、三井くんのこと、随分慕ってたから」

 俺はそこで、ようやっとはじめて、俺たち以外に三井のことを惜しんでいた人がいたことを知ったような気持ちになった。当たり前のことなのに、なぜかようやく安心できたような、自分の中に刺々しく湧いていた猜疑心が少しだけ軽くなった。記憶を辿る。どの子だろう。長髪の女の子?それとも背の低い子?ああ、三井にきければ一発でわかるのに。一度、会いたいなと思った。でも、その子も死んでしまったのか。なんだ、三井の周りでは人が死ぬみたいなジンクスでも産むつもりなんだろうか神は。いや偶然だ。変な確率が当たった時にすら理由を付けたがるのは人間の悪癖の一つだ。

「あ、そうだ二十三日の夜って空いてないかしら、例のチケット、とれたんだけど」

「ごめん、今はあまり、行く気になれないんだ」

 いや、ここは無理にでも行くべきなんだろうか。三井の一件以来、環境を変化させすぎている気がする。だが、ジン対との連携は三井の遺言だ。それに、俺は神だの仏だのとは無縁に生きてき過ぎたせいで、そちらのことについて知らなすぎる。

「……ねえ、何か、できることあったら、言ってね」

「……ああ」

 

 救急搬送された彼女の顔を、見ればわかるだろうか。彼女がどんな人だったか、三井がどう接していたか。俺は何とかあれから、情報を頭の中で反芻して、いくつか思い出した。三井の一番古株の患者で、検査の関係でいまだに付き合いがあるのだと話していた気がする。病院の廊下で母親と一緒に軽く立ち話をしているのも見たことがあるはずだ。でも顔がわからない。電子カルテを開いてみると、河田美杏、二十五歳と書いてあった。先天性心疾患のある子だった。

 事故、車の前に、突如彼女が飛び出してきたらしい。どうしてそんなことをしたのだろう、三井のあとを追うつもりだった?馬鹿な、それはいくらなんでも親しすぎる。いや、しかし、俺だって三井の全部を知ってるわけじゃないんだ。というより、俺は三井のなにを知っていると言えたのだろう?

 ICカードを通して、地下二階の冷たい部屋に向かう。遠いとはいえ知人だから、手だけは合わせておきたいという旨を伝えると、快く霊安室に向かう許可は出してもらえた。「お前って見た目より情にあついよな」と言われたのは、なんとなく癪に障ったけど。……三井に言われてたら、どうとも思わなかったんだろうな。あいつは俺のこの予感を笑うのか、それとも「まあそういうこともあるよな」と付き合ってくれたりするんだろうか。わからない。確かめる術もない。

 馬鹿みたいだな、俺。考えれば考えるほどドツボにハマることがわかっていながら、このザマだ。あいつは死んだんだ、確かに、あいつの死に顔はなかった。焼け焦げた両足だけだ、遺っていたのは。でも、確かにあいつは死んでいるんだ。じゃなきゃあんな遺書は残さないだろう。そう、それに透子ちゃんも見たと言っていたじゃないか。たとえ伝聞でしか知らないのだとしても……。そこで立ち止まる。自分が思ったよりもあいつの死を信じられないでいることを。既に半年が経過しているのにかかわらず、まだまだあいつが戻ってくるんじゃないかと、本当は生きているんじゃないかと、思おうとしている自分がいることがおかしい。そういう風になる患者の遺族はたくさん見てきたが、自分に降りかかると、思ったよりも対応できない。

 息を吸って吐いた、こういうとき、人がこういう感情に陥ったとき、まずすべきなのは、自分の感情を冷静に受け止めることだ。散らかった部屋に何があるのか認識できないと、どこに何を片付ければ良いのかわからないように、まず俺がすべきなのは、俺の心に何があるのか考えること。さっき、悲しいと思った、他に、信じられないという気持ち、そう、信じられない。まさにこの角を曲がって、扉を開いたら、霊安室で患者を看取る三井がいるような……。

「あ、白井、お前も来たのか」

 ……そう俺に声をかけたのは三井だった。

 彼は、霊安室で、女性の遺体を見ていた。

 三井が、目の前にいる。

 死んだはずの三井が。

 息ができない、さっきの瞬間に、俺が死んでしまったみたいだった。だってそうじゃなきゃ、そうじゃなきゃこいつがいるわけがない。

 ぎし、と頭から軋むような音がした。

「………?!」

「おいどうしたんだよ、そんな鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔をして」

 彼は彼のままはにかみ笑った。古い患者の遺体を前にして、彼女が死んでしまったことが悲しいという空気を背負いながら、あの時のあのころそっくりそのまま笑って見せた。

「彼女は……前も話したように、俺の一番古い患者だったんだ」

 割と冷静にそう言う様はまさにあいつそのものだった。少し不格好に見える自分で巻いた包帯も、白衣のポケットが文庫で膨らんでいるのも、これは……幽霊か?病院では時々怪奇現象が目撃されることがあるらしい。俺はそんなの徹夜しすぎた人間の幻覚だろうと思っていたが、これは……。とそこまで考えてはたと気づく。いや、気づいてしまったという方が正しいのかもしれない。気づかなければよかった、よくある不思議な出来事の一つだと、名前を付けずに受け入れていればよかったのだ。だが俺はもう既に、これの名前を知ってしまっている。

 かみさま、頭の中で浮かんだその言葉は、憎悪と共に、祈りみたいな響きを含んでいた。

「……み、つい、本当に三井、なのか……?」

 ……とっさにとったのは、知らないフリだった。それが本当に正しいのかもわからない、ただ、知らない方が良いと俺の中の何かがささやいた。だから言葉を失ったのがまるで失った親友をまた見かけたからだと、全力でそう演じた。嘘をつくときに出る体の咄嗟の防御反応を知識と理性で必死に抑えて、恐怖を三井にまた会えたという安堵と喜びに変えた。

「お、お前、生きて……!」

「お、おい、どうしたんだ急に」

 幸いにも、相手は完璧だった。掴んだ腕の感触から、体から立ち上る匂いまで、完全に三井そのものだった。だんだんと演技は体に馴染んでいく。ああ、本当に三井が帰ってきたみたいだった。むしろその方が現実的だった。俺にとっては神がいることよりも、あいつが死んだことの方が非現実的だ。

「三井、よかった……よかった」

「……何だかよくわからんが、俺は大丈夫だよ、どうしたんだよ」

 例えるなら、悪夢から醒めたような安心感だった。べったりと不快で、どうしてもこちらを現実と思いたくなるような安心感。


「トラックに撥ねられた、というよりは轢かれたって感じだって聞いてる」

「そうだな、脊椎も粉々だし、内臓の損傷も激しい。むしろしばらく息があったのが奇跡に近い」

 だってこいつは俺が思う十倍も二十倍も確信を持って三井だ。偽物どころか、夢だとも言えないくらいあいつだ。

「飛び出したそうだ」

「……そう、なんだ」

 彼は静かに手を合わせた。俺もそれに合わせる。即興の演劇をしているみたいだ。演じるのは大根役者の俺と、神懸かった役者。この空間に違和感を覚えれば、多分ただではすまないんだろうなと思った。でもそれ以上に心地よかった。こんな異常事態に心から安心している俺が、異常だった。あれは悪い夢だった、本当はなにも起きていなかったんだ!そういう安堵が全身を薬で無理やり眠らせていた時のようにドロドロに理性を溶かしていく。

「……重い心臓病でさ、彼女、走るってことは、よっぽど何かあったのかな」

 彼は死体を覆っていた袋のファスナーを丁寧に閉めて、棺の蓋を持ち上げた。俺も端を持って手伝う。彼は俺が手伝うそぶりを見せると、彼は困ったような顔をして笑った。

「ありがとな」

「別に、当然だろ」

 夢は続く、霊安室を出ても。俺が見ていたのは、どちらが夢だ?

「……実はさ、さっきお前が死ぬ夢をみたんだよ」

「は?!突然なんだそれ、縁起でもない」

「葬式まで出てさ、清花に心配されて、ライブにも行く気なくしてたんだよ」

「おいおいお前からオタク趣味抜いたら人間性ゼロになっちゃうじゃん、こっわ」

「なんだよそれ」

「俺が本に火つけ始めたらどう思う?」

「核の炎の暗喩か?」

「スケールがでけーーよ!まあでも、そういう感じだろ?」

「違いない」

「いやぁ、でもなんか、そんなに心配してもらったと思うと照れるなあ」

「……そうでもないぞ、どうせ夢だろうって思ってたからな」

「……あー……」

「なんだよ」

「気付いてないの?」

「は?」

「お前、泣いてるじゃん」

 ……漫画や、小説の中だけだと思っていた、自分が泣いていることに気づかないだなんて。そんなの劇的に悲劇を演出するためにある表現の一つでしかないと思っていた。

「え、うわ……うそだろ」

「いやこっちだってびっくりだよ……なんだよ、そんなに俺がいないのは辛かったか?」

「……ああ」

 三井が隣を歩いている。ビニールの床に、いつもの足音が響く。本当にいつも通りだ。

 三井、俺は、お前が死ぬ夢を見たんだよ、全身火だるまになって、足だけ残して死ぬ夢を見たんだ。足ってなんだ、何かの比喩か?フロイトの性のアレか?時代背景違いすぎるから違うよな、ははは。笑ってくれよ、何度も笑ってくれ、全部嘘だって、思い出させてくれ。三井、そんなことは起きてないって俺に言ってくれ、神も仏も百鬼夜行も全部いなくて、俺が生きている世界はかつてのまま変わらないでいると、そう言って聞かせてくれないか。子供に戻ってしまったみたいなんだ、まだ昨日見ていた悪夢が本当に起きるんじゃないかって、肥大した想像力が囁いてきて不安なんだ。あとでどんなに馬鹿にしてもいいから、みんなに言いふらして、からかったっていいから、だから、これが、もう一度、夢だって教えてくれないか。

 浮かぶ言葉はなにも口から漏れることはない。それはただ頭の奥を旋回しては消えていった。あまりに感傷的すぎて、あまりに滑稽すぎて、あまりに……非現実的だったから。

「……白井」

「…、……なんだよ」

「白井……」

「だからなんだって」

「これは夢だよ」

 それは……それはなんだったんだろう。今思うと、俺は神に憐まれるほど、酷い顔をしていたのかもしれない。ただその時はそんなこと思っていられなくて、ただ、去っていったはずの寒い恐怖心が一瞬で指の先まで舞い戻ってきたのを感じていた。

「ごめん……いや、まさかこうなるくらいまで思われてた人だったとは思わなかったというか、いや、当然かもしれないけどね、良いことだと思うよ、人間だしね?」

「な……に、言ってんだよ、三井」

「あーもう、見てらんない。ほら、もう返してあげるから、ね?今日見たことは忘れて、誰かに言っちゃダメだよ?全部夢だから、そう、全部夢……今まで見たのは、ただの幻……」

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