第1話 出来損ないのサラマンダー⑥
消耗品の人間性
三井は考えていた。月明かりだけが照らす寝室で。むしろ考える以外のことができなかった。だって本を読むには光量が少なすぎる。
真っ暗闇のなかにいて、なにもしないでいても、三井は寝ないでいることができた。三大欲求をかなりコントロールできるのが、自分の強みだと思っていたし、現にそれはかなり役に立っていた。もしかしたら、それすら神の采配なのかもしれないな、と思うと笑える。一体、人間が人間の意志だけで選んできたものが、今までの世の中でどれだけあったのだろう。
違和感を覚えることが、今までの人生でなかったわけじゃない。でもそれは、すごく些細なことばかりで、今思えば「あれも変だったよなあ」と考えてしまう程度だ。もしかしたらその違和感すら思い込みで、間違っているのかもしれない。本当に何もわからないもんだ。
星が少ない。この小さい窓から一つ見えるだけでも良い方なのだろう。包帯が少し減った手のひらを月にかざしてみると、やっぱり指が欠けている。できなくなったことを頭の中で連ねそうになって、かぶりを振った。
一度目の火災の時、やめたはずのタバコが燃えたと聞いて、正直動揺した。やってない、という言葉をかざすには信用もなく、俺の人生終わったなと思った。小児科医がタバコの不始末で火傷って、印象が悪いにもほどがある。
でも、こうして続けられた。なぜかはわからないが、運が良かったことは確かだ。白井は俺のせいじゃないと言い張ってくれたし、院長先生は「以後気をつけるように」としか言わなかった。前原さんは皮肉を言いながらも同情してくれたし、何より子供たちが、僕を怖がらなかった。
あれはどうしてだったんだろう。院内の子供達がお見舞いに来てくれた時、僕は恥ずかしさやら居た堪れなさやらで、正直顔をあわせたくなかった。きっともうここを離れることになるだろうと思っていたし、何より彼らに怖いと言われることが目に見えるようで。なんだか彼らからクビだと宣言されるような、そんな気持ちになっていたんだ。
でも、あの時、あの時誰が言ったんだろう。
「先生、ミイラ男みたい」って、ああ、本当に思い出せない。「三井先生がミイラ先生になった?」「ミイラ男だ、せんせえミイラ男!」「やっべー!」「先生がおーってして! がおー!」そんな話になって。何も気にしないで、彼らは僕のベッドに乗り上がろうとしてきた。
彼らは一度決めてしまった感覚に従う。だから、最初にミイラだと言った誰かの言葉のおかげで、僕はミイラ先生になったんだ。別に僕がどうしたとか、何をしたってわけじゃなかった。ただ彼らが、救ってくれたのは、確かだ。
ああそうか、と思う。子供は神様に近いっていうのは、こういうことだったのかと。彼らの行動は人によっては気まぐれで、全力で、時々災害のように感じることがあるけど、でも確かに必要なものだ。彼らは自然そのものなのだ。人はそれに従い、時に少しだけ軌道修正しようとする。だが主体は彼らなのだ。
月が雲で隠れたのか、欠けた指が闇の中に同化して消える。僕は目を閉じた。まぶたのひきつる感覚だけが、僕の肉体があると認知させてくる。でもそれだけだった。それは僕にとって、怖いとか、恐ろしいとか思うような類のことではない。
……覚悟が、決まった。決まってしまった。
隣の部屋にいる白井のことを考える。あいつは、きっと今でも起きているんだろう。ごめん、と思った。思うだけにとどめるのが、少し難しかった。
聖職者、使い捨てタイプ
「まさか最後にあなたの方から受け入れてくださるとは思いませんでした」
私は言った。ただ、「やっぱり」となっても決定を覆すことは出来ない。もう後戻りできるようなことじゃないんだ、これは。それでも聞いてしまった、これはただの私のわがままだった。
「はい」
それなのに彼が答えたのは、予想通り以上に予想外の言葉で。私は問い返すことすら出来なかった。思いつくのは紋切り型の言葉ばかりで、文房具屋で百円で手に入ってしまいそうな程陳腐だ。
「難しく考えなくていい。僕は自分の意思で、死ぬって決めたんだから」
「……あなたが決めようと決めなかろうと、きっとあなたは殺されてます、私たちに」
「……それでも、いい、んだ」
どうして、彼はそんなことが言えるのだろう。なぜ、こんな目に遭ってまで。私は問いかけた。うまく質問できていたかは、怪しい。
彼の微笑みは死を前にして随分穏やかだった。私はそれに、一種の人ならざるものの風格を感じた。……いや、しかし……神々しいと、呼ぶべきではないんだろう。
「気に障るとは思うのだけれど」
「え?」
「僕は、さ、やっぱり君を、大人としては見ることができない、ごめんね」
「はい? いやいや、小学生ですから、普通ですよ、普通」
「ど、どっちなんだ君は……ほんとに……まあ、それなら、いいんだけどね」
彼は曖昧に笑った。無邪気な子供みたいな顔ばかりしている人だったから、こんな顔をすることそのものが、意外だった。
「話を戻すと……だからね、君がそうして辛そうな顔をしているととても困るんだ」
その言葉に、私はゆっくりと顔を上げる。焦げて色の濁った瞳は、恐ろしげなのにどうしてだろう、確かに優しかった。
「してます? そんな顔」
「してるように見える」
思えば、彼と二人きりで話すのは初めてだった。
「辛いのはむしろあなたの方でしょう」
「それがね、思ったより受け入れてる自分がいるんだよねえ」
はははは、と彼は乾いた笑いを漏らした。目元には紫色のクマが滲んでいる。
「いやね、これが、僕の役割だって言うんなら、なるほど、確かにって思うところがどっかにあるんだよ」
「人のために死ぬことがですか?」
随分殊勝な人だ。
が、三井さんが穏やかな気持ちで死ねるのだとしたら、それは、それは彼自身の意思ではなく、神の意志だろう。神だって、暴れないで死んでくれた方がいいに決まっている。あといい加減、しびれを切らしてきてもいるのもありそうだ。ただ、人間からすると神の意志なんてものは、自然現象、災害、あるいは運とあまり変わらないものだから、妙に受け入れられたような気がしているだけ。
……それに、関係ないと言われればそれまでだけど、三井さんが良くても、白井さんはどうなるんだろう。あの人は、三井さんに死んでほしくないはずだ。先延ばしをすると言って、あんなにホッとした顔をするくらいなのだから。正直、いまここで彼を手にかけるのが、本当にいいのか、今でもわからない。
三井さんから「白井には内密でサクッと僕を殺っちゃってくれない?」と聞いた時には本当に耳を疑ったものだ。それが、真剣そのものだったから、もっと驚いたけれど。
私は目を伏せた。今、優しく微笑んでいるだろう彼の顔を直視できなかった。
「違う、僕はどっかの誰かのために死ぬんじゃない」
考えるのはよそう、と思う前に、三井さんは言った。私は彼の目をもう一度見た。白く濁った瞳が、一瞬真珠を連想させた。
「じゃあ、なんのために」
「君たちを生かすためだ。前に君たちが言ったように、延命治療、医療行為だね。医者として本望さ」
「いや、変わらなくないですか」
「全然違う……大人と子供じゃね」
彼の声はほんの少しだけ、震えているような気がした。彼は窓ガラスに手を当てた。彼の死に場所として選ばれたのは、全面コンクリートに耐熱、耐久ガラスの窓がついた部屋。あまりにも殺風景だ。本当はもっと、協力的になっていただいた分、相応の対応をしようと思っていたのに、彼が、ここのような場所がいいと、言ってきた。
欠けた人差し指、中指、薬指からは、まだ体液が滲んでいる。
「いいかい、知っているかもしれないけど、大人の役割というのはね……大人の役割の一つはね、子供を守ることなんだよ。もちろん君たちはそれに責任を感じる必要はない……今までずっと、ずっと昔から大人という役割の人たちはそうしてきたんだ。それが、人間の生き方のひとつなんだ。世の中が良くなって、それを意識しなくなっていっただけで」
閉じにくいであろう目を閉じて、彼は小さく息を吸って、吐いた。
「今起こってしまう僕のことはいい。未来の君たちに、同じことが起こらないように、頑張って欲しい」
「……それは」
それは、それは確かにそうなのだけれど、そうなのかもしれないけど。
「言いたいことは、わかりました……」
……ここで彼の言葉を否定する必要はない。死んでくれると言うのなら、それでいいはずだ。私はそれ以上考えちゃダメだ。役割を、役割を、果たさなきゃ。
もう一度、彼の目を見た。曖昧な微笑み。
「……わかった。じゃあ君に大きな呪いを残そう」
「呪い?」
「そうだ。僕の怨念、無念全部まるっと君に押し付けて、大いなる呪いを残してやる、はぁ!」
何言ってんだこの人。
「これからは……君が僕になる!」
「は?」
「君の魂に、僕の魂を移した。だから君はこれから先、自分の命を僕のものと同じだと考えなきゃいけない。大変だね、もう君の命は君だけのものじゃない。滅多なことじゃ死ねないし、何より、幸せにならないといけない。幸せになるのは大変だぞ~結構難しいぞ~」
「いやいやいや」
「僕は来世だか天国だかで君のことをずっと見ていよう。君があんまり不幸なようだったら、祟ってやる」
……実は、それはちょっとシャレにならない話だった。人が生前に残した想いは、神が汲み取って使い回す可能性がある。それは本人の意思とは違い、宣言したことがその通りになるので、ツンデレを拗らせて恨み言を言って死んだ女性のパートナーが、後日ほんとに死んだなんて事例もあるのだ。しかも……神にとって嘘とは、言った本人がどれだけ本気で言ったかに比例する。彼の目は呆れるほどに、マジだった。
「君には僕の魂をコピーアンドペーストした! だからこっちはゴミ箱行きでも大丈夫!」
「……」
「いやー助かって良かったな! 僕! なによりだ!!」
彼にとって、小児科医は、きっと、天職だったのだろう。それが今は、何よりもありがたかった。
「もーえろよもえろーよー炎よもーえーろー」
笑いながらこんな歌を歌うものだから、あまりにも不謹慎すぎて、少し私のほおがヒクついたのを、彼は見ていただろうか。
「ひーのこをうずまーきーてーんまでてらせー」
「こんなとこで歌うなんて、前代未聞ですよ」
私は最初、もっと苦しくない死に方を提案した。どうせ死ぬなら苦しくない方がいいに決まってる。なのに彼は「神の御心のままに燃えること」を選んだ。
死体を調べれば、少しは役に立てるだろと、彼は言った。そんなことを言う人は初めてだった。
「ん? だって僕死ぬわけじゃないもん。ちょっと刺激的な経験をするだけ」
「そうでしたね」
私は笑った。彼に引き出してもらった笑いだった。自然に笑えている事実が、私の胸をムカムカとさせたが、コーヒーのせい、ということにした。
部屋には、いつ神が来てもおかしくない。それらが来やすい環境を整えた。この絶好の状況下で、三回も邪魔された神が反応しないはずはなかった。
決着は三十分で着いた。
コンクリート張りの部屋の中、彼の指先が光り始める。それはゆらり、ゆらり、ぐしゃりと歪んで、炎が上がり始めた。途端に彼が痛みで呻いた。歌が途切れる。部屋の真ん中で、立ち尽くしたまま彼は自らの指先を見つめていた。ロウソクのように皮膚が溶け出し、中から力を失った骨がほろりと落ちた。思っていたよりも、燃焼が早い。もしかすると彼は人ではなく、何か神様の特別製だったのかもしれない。
肩肘はブルブルと震え肉体の本能が神の意志に抗おうとしているかのようだ。それでも唇は、歌の続きを型取り続けていた。焼けつつある呼気が、時々赤い炎を膨らませるので、まだ、一応息があるのだとわかる。
火が強まった。一気に燃え広がり、彼の全身を包む。歌はもう見えない。ついに膝が落ちた。炎の真ん中で、光に照らされ肉体が焦げ付いていく。炎の中でぐあ、と口が開いたようだった。それが叫びだったのか、別の何かだったのかはわからなかった。考える間も無く次の瞬間にその体は床にどっと倒れてしまい、地面に顔を伏せたまま、ぷっつり、何も動かなくなってしまった。
爆発しそうなほどの大きな炎が、十分ほど上がり続けていた。人影が崩れ、部屋が煤けて、煙がたまる。そしてゆっくり、ゆっくり炎が消えていった。思ったよりも、ずっと、ずっと早い終わりだった。最後、膝から下の両足だけが、なぜかコンクリートの床に残される。
……本当は目をそらしているべきだった。この身体と精神に、変な負荷はかけるべきじゃない。私の健全な成長に影響するだろう。それでも、死を選んだ彼が、何を思って逝くのか、見てみたかった。彼の意思がなくなる瞬間まで見て、得たのは「割とあっさりなんだな」という冷めた感情だけだった。これなら、見ない方が良かったかもしれない。このまま眠れなくなっても困る。
私は後ろを向いて部屋を出た。きっと高田さんが待っている。私が彼の死ぬところを直視していたと聞いたら、きっと高田さんは驚いて、そのあと怒るはずだ。根崎さんは嫌味を言うだろう。渡辺さんは心配するだろう。今の私は小学生だから。
……だめだ、冷静で、いようとすればするほど、涙が溢れてくる。私が泣いてるわけにはいかないのに、この体は億劫だ。理性が効きづらい。神はいつだって理不尽だ。そんなこと、知っているはずなのに。
しばらく、部屋の隅で涙が止まるのを待った。できるだけ早く、早くと思うたびに何度も何度もせり上がってきて、一時間もそのままでいた。
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