第五幕 お金

松田のおっさんは疫病神だった

 二階に寄生していた、あの松田のおっさんはやっぱりどうしようもない男だった。そう、例の空本のおかんの愛人である。体系は中肉中背、顔はなかなかの男前なのだが、とにかくやることなすことすべてがしょうもない。


 まず、『北京飯店』入口のアルミサッシの扉を開ける音が日に日にうるさくなっていく。


 バシッーーーン。そしてこう言うのだ。


「ほんまにすべりの悪い入口やのぅ。客を迎える気があるんかい」


 そのたびにチーフは「ちっ」と舌打ち。たまに「もうちょっとやさしく開けられへんのか」と注意するのだが、いっこうに正す気配がない。他のお客が驚いて入口に目をやりつつも、松田のおっさんはぶっ飛んだ赤い目でチーフの顔を凝視したまま。どんな反応をするか試しているような動物的な目つきである。


 一応、餃子と焼きそばなどと人並みのものを注文し、食べ終わったらさっさと出て行くのだが、最近はトイレへ行って、客席側に戻らず勝手口から出て行くことが増えてきた。出入り禁止と書いているわけではないが、まともな人間ならそこが従業員専用通路であることくらいわかるはず。


 そして、店の外へ出て行ったかと思うと、今度は外から小窓越しに鶏の足をぴょんぴょんとさせるのだ。この鶏はもちろん店のスープに使ったもので、プロパンガスの横に三つ置いてある生ゴミ容器の中から、わざわざ鶏ガラゴミを探し出しているということになる。


 トイレ前の小窓は一七〇センチくらいの高さ。まるで人形劇のように延々とちょこちょこと動かしている。なぜ松田のおっさんの仕業であることがわかるかというと、一度犯人を突き止めてやろうと追いかけたことがあり、その際二階へ通じる扉を開けて走り去る松田のおっさんの後姿を見たことがあるからだ。何度注意をしても、このおっさんは懲りないどころかますますエスカレートしていくのであった。


 やがて、チーフと祐介が無視しだすと、今度は小窓からこちらへ向かって鶏の足を放り投げてくるようになってしまった。どうしてそこまでちょっかいばかりかけてくるのか。こんなにしょうもない愚行を繰り返す大人がこの世にいることに驚く。


「チーフ、いい加減あのおっさんを追い出しましょ。相当に気持ち悪い。完全にイカレテますよ。そのうちもっと悪いことが起こるような気がしてなりませんわ」


「そうやな。しかし出て行けとも言われへん。空本くんのお母さんの頼みやからな。いやぁほんまにまいるわ」


「空本のおかんの頼みなんて最初から聞かんでええと思います。いつまでたってもろくなことないですって。いい加減あのおばはんとも縁切ったほうが身のためやと思います」


「そうは言うても、わしはあの人から保険に入ってしもてるし、他にもたくさんの人を紹介してきたしな、切ろうと思っても切れるもんやない」


 地域密着型保険レディの呪縛である。


 そして、このような不気味な状態がしばらく続くうち、もっと悪いことが起こる。


 なんと二階でエッチをしだしたのだ。実は前からやっていたことだが、それは夕方の休憩時間や店を閉めた深夜に限られていた。が、ある頃から平日の夜の八時頃、店のゴールデンタイムに始めるようになってしまったのだ。


 厨房の換気扇の音が大きいため忙しいときは気付かない。が、途切れた瞬間にどこからともなく「ぎしぎし、みしみし…」と建物が軋む音が聞こえてくる。元々揺れる二階のこと。「地震か」と上を見回すお客もいるほど。そして徐々に聞こえてくるのだ。怪獣ピグモンそっくりの空本おかんの低い奇声。


「あ、あん、あぁぁぁぁ~ん」


 声は五分ほどで消える。が、困ったことに一時間後また始まるのであった。


 みしみしみしみし……「あっあんっあぁぁぁぁ~ん」


 最初は週一回。それが徐々に週三、四回。松田のおっさんもキモイが、空本のおかんはある意味もっとキモイ。


「チーフ、なんであんな変態を住まわせたんですか。空本のおかんは昔から男遊びが酷くて、まともに家に帰ってこないようなおばはんですよ。自分の欲求を満たすためにここの二階を借りさせただけですやん。こんなんやったら宴会場のままでよかったのに」


「まぁな、わしもここまで酷いとは思わなんだ。でも、なかなか宴会は入らんし」


「やっぱりあんな急階段でくっさいトイレで揺れる部屋、誰も借りませんね。あんな気色悪い人らに住まれるんやったら、僕らが雀荘としてずっと使わせてもらったのに」


「よっしゃ、近いうち出て行ってもらうように言うわ。嫁はんに言ってもらおう。松田のおっさんは、うちの嫁はんにだけはよう文句言わんみたいやし」


「それがいいですね。あと、ツケもいい加減に払ってもらったほうがええのとちゃいますか。松田のおっさん、溜まる一方ですやん。あいつは絶対食い逃げしますよ。チーフに甘えてるだけ」


 そう言うとチーフは勝手口の淵に片足を載せて、ロンピーに火をつけ大きく一服し、こう話しだした。


「ふぅぅぅ~。わしな、どうしても苦労してる人を見たら放って置けんようになるんや。わしが育った淡路島にも昔いくつかの飲食店があってな、そこには金のない人がぎょうさん食べに来てた。仕事のある人か、地元の人か、工事の日雇いかなんか知らんけど、お金がない人はみんなツケや。うどんや丼なんかのやっすいやっすい食堂での話やで。みんな小汚い格好してな、頭もボサボサや。あれ、ちゃんとお金払ってたんかな。食堂の経営者もきっとお金なんかなかったやろうけど、でも、もっとお金のない人たちがいっぱいいて。そういう人たちの面倒を見てたんやな。今はそんな人も店もまぁ殆どないんやろうけど。松田のおっさんは気色悪いのは確かやけど、もしかして苦労人かもしれへんで。空本くんのおかあさんがおらんかったらもう死んどるかも。人はいつどうなるかわからん。そら、大企業に勤めてたら安泰やろうけど、普通の人間はいつ落ちぶれてしまうかわからんで。そんな時に支えになるんが人やったり店やったりするんとちゃうかな。新地のクラブやあるまいし、うちなんてせいぜい一万二万のツケや。逃げられてもしれてるわ。それでその人が一時でも食えたらええのとちゃうか」


 田上の時以来の、まさかの斬新過ぎるその応答に祐介は絶句してしまった。


 チーフは続ける。


「まぁ、他人のことまで深いことはよう知らんけど、わしはいつでも持ちつ持たれつやと思ってる。今はこうしてお客さんがぎょうさん来てくれるけど、わしかてまたいつ凹むかわからん。お互い様やで。ある時払いでかまへん」


 昨年、できたという有線放送の歌謡曲専門チャンネルをチーフは気に入って店のお決まりとしている。以前は都はるみや北島三郎など演歌が中心で、時々松田聖子などというごちゃまぜのチャンネルだった。


 モノクロのスピーカーからは、ノリノリのダンシング・ヒーロー♪が聞こえてくる。この時の祐介には、いろいろなものが乖離してまったくつながらない。ただただ、戸惑うばかりであった。

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