料理の敵はマイナスエネルギー

 ある夜の十時頃、珍しくお客がいったん途切れ、チーフがやれやれと客席に腰掛けロンピーを吹かした直後に、突然上から物音が聞こえてきた。何か重たいものを置いたような図太い音である。その直後、ドシドシドシと、なにやら人が歩いているような音が続く。


「な、なんすか、この音は。二階にお化けでも住んでるんとちゃいますの」


「あ、せやっ、言うの忘れてたわ。ほんまに人が住んでるねん」


「なんで。あんな魔境に住む人がいるなんて、きっとただならぬ者に違いない」


「そんなことないでぇ。ごく普通のおっさんや。松田さんと言うてな、空本くんのお母さんの、ほら、これやわ」


 チーフは親指を立てた。


「ええっ、うそでしょ。空本のおかん、気は確かですか。あいつん家はすぐそこなんですよっ。この店の二階に自分の男を住まわせるなんて正気とは思えない」


 空本のおかんとチーフは古くからの知り合いで、その縁があるから空本はここに勤めることができたし祐介もチーフと知り合えたわけだが、祐介がバイトしていた三年前まで空本のおかんは殆ど顔を見せたことがなかった。たぶん祐介と顔を合わせづらかったのだと思われる。


「そやねん、最近またちょくちょく店にきてやるよ。で、ある時にこの人を上に住まわせてやって、って頼まれたんや。まぁややこしい商売してるわけやないやろうし、かまへんかなと思ってな」


「え、何の仕事してるんですか、流れもんですか」


「なんやパチンコ屋の向こう側にある産廃工場で仕分けの仕事してるらしいわ。どこの人間かは知らんわ。空本君のお母さんの客でもあるからその辺は大丈夫やろ」


「そんなんダメでしょう。あそこ堅気やないですやん。そもそもほんまに働いてるんですかね。最近は見た目はよくても、中身が嘘八百の詐欺師みたいなんがぎょうさんいるし。というか、よくもまぁあんな危ない部屋に住みよるな」


「ちょっとクセのあるおっさんやけど悪人やないやろうし、空本くんのお母さんが言うことやから」


 空本のおかんはいわゆる保険レディーだが、見た目はウルトラ怪獣のピグモンと瓜二つ。別に見た目がどうこうというわけではないが、界隈では昔から男癖が悪いことで知られているような人なのに、チーフはなぜかすぐに鵜呑みにしてしまう。今さらどうすることもできないだろうが、祐介はとにかく嫌な予感がしてならない。


 レジの周辺に所狭しと貼ってあるメモ書きに目をやった。


「もしかしてこの松田と書いてあるのがそうですか。めちゃくちゃぎょうさんツケたまってますやん」


 ツケとはその場で現金で頂くのではなく、月末などにまとめて集金することを指す。通常は高給なクラブやラウンジなどの飲み屋がよくやるシステムだが、『北京飯店』でもツケは常態化していた。もちろん常連客に限る話だが、総じてツケを行うのは酒をよく飲む客である。つまりだらしない連中ばかりで、半年も未納とか、下手をするともう来なくなった客の分まである。このメモの中で最も数が多いのが、松田のおっさんであった。


「これ、絶対踏み倒しますよ。今までそんなヤツ何人もいましたやん。これは間違いなくどこかで逃げるパターンですわ」


「まぁまぁ片山君そんな目くじらたてんでも。この上に住んどるんやから逃げようはないって」


 のんきにエロ漫画に目を通すチーフ。一気に昔を思い出した。ツケ返済に毎月五〇〇〇円を払うも、徐々に注文数が増えていき、いつしか月の合計が七、八〇〇〇円になり、それでも五〇〇〇円しか払ってくれないので、結局ツケが増え続け、ある頃に店に来なくなったかと思うと、今度は「パーラー171」の向こう側にある二十四時間営業の食堂に通いだした近所のおっちゃんとか。ツケが三、四万円もあるのに、平気で引っ越していってしまった裏の長屋のおばちゃん。チーフが保証人になって逃げられたことが何度かあったが、そのうちの一人もツケをする常連客だった。


「チーフ、そもそもこのツケシステム自体がどうなんですかね。すべてとは言いませんけど、だいたいにおいて今までツケをしてきた人は、ろくなもんやなかったですやん。車や住宅のローンならわかりますけど、こんな中華屋の金さえも払えんようなヤツは排除したほうがいいと思うんですけど」


 一瞥しただけでエロ漫画に目を通し続けるチーフ。


 無数のメモの中から、祐介は一つ気になる名前を見つけた。


「チーフ、ここにある道山さんてあの道山さんですよね」


「あぁ、そうや」


 昔からの常連客の一人で、東京に本社がある上場企業に勤めるエリートサラリーマンである。チーフより歳は上で、見た感じで四〇歳くらい。初めて会ったのは祐介が高校二年の頃。当時は月に一、二回程度のそれほど濃度の濃い常連客ではなかったが、とても印象的な人だった。若い頃に工場の火災事故に遭い、顔半分に火傷の痕があってその部分だけ髪の毛がない。


 祐介と道山は少しずつ会話するようになり、やがては気軽に話せるような間柄に。祐介がレーサーを志している時には、道山が勤めるFRP工場でバイトをしていたこともある。当時はとても気さくでいい人であった。


「なんで道山さんがツケてますのん。そんなしょっちゅう来られてるんですか。あの人ってビールは飲んではったけど、そんな感じやなかったと思うけど」


「そうや、特に最近は毎日のように来て飲んではるわ。なんや奥さんと洒落にならんほど仲が悪くなってしもてるみたいで。ちょっと荒れ気味でな。何度か他の客と言い争いになったこともあって。いっぺん、知らん客とつかみ合いの喧嘩をはじめよって、外に放り出したこともあるわ」


「ええっ、そんなに荒れてるんですか。やばいんちゃいますの、このツケも」


「大丈夫やろ~。あのおっさん、金はもっとると思うで」


 噂をすれば何とやら。夜十時半、道山が店にやってきた。客は他に二、三人が店内にいた。ガラガラッと重たいアルミサッシを開けた瞬間に、まさかの祐介の存在に気づき、その場で立ったまま目を丸くしてこう言い放つ。


「なんやお前、久しぶりやないか。また白衣を着てるところを見るとついに店の跡取りを決めたということか」


 他の客が一斉に道山の方を見る。


「いらっしゃいませ、どうぞ、おかけください。大変ご無沙汰してます」


 コーラの冷蔵庫前の席にゆっくりと座った。


「おいおい、いらっしゃいませなんて言われたら気持ち悪いやんけ。ほんま久しぶりやのぅ。そろそろ事故でもおこして死んでるころやと思ってたけど、ちゃんと生きとったな。あれ、なんかお前、顔や髪形がえらいすっきりしとるやないか。ちょっと見ん間にあか抜けて。ここでなにをやっとんねん」


「ええ、まぁ、修行です。料理をきちんと勉強させてもらおうと思って。レースは三年やって挫折しました」


「ついに料理か。ほらな、俺が昔言うた通りやないか。お前にレースなんかできるわけがない。はじめっから素直にこの道に入っておけばよかったんや」


「そんなことを言われても、当時は必死でしたから。でも、なんやわかりませんけど、あれよあれよで飲食の道に入ったというか、引き戻されたというか」


「まぁなんでもええわ、お前の顔を拝めたことが今年唯一のラッキーや。何はともあれおかえり。ほな、酒ついでくれ。おまえの分と」


「えっ、生ビールちゃいますの。いきなり酒ですか」


「うるさいわ、余計な事言ってないではよう入れんかい」


 こうして復帰&再出発の乾杯をしていただいたわけであるが、よく見れば道山の格好が何だか変である。以前はスラックスに白いシャツ、ネクタイ、時に上着姿できちんとしていたはずだが、この日はネクタイもせず、シャツもズボンもよれよれでなんだか疲れた感じである。背中を丸めてコップに口を尖らせる姿は、まるで慢性アル中だ。


 注文は一杯三五〇円の酒と七〇〇円の叉焼。以前は飲んでも生ビール中を一杯。料理は辛子炒めやウズラの旨煮など一品ものばかりであった。『北京飯店』でいう叉焼とは正確には煮豚である。チャーシュー麵用の具材として仕込んだものを、つまみとして出しているのだ。


 厨房に戻った祐介は、豚肉に撒いてあるタコ紐をほどき、厚さ二ミリ程にスライスしていく。仕様部位はモモの赤身肉だ。その後、キュウリのヘタを取り、中華包丁で叩き潰し五センチ幅にカット。それをボウルに入れて、チャーシューの煮汁、酢、粉末胡椒、ごま油、少々の塩とうま味調味料を加えて軽くもむ。平たい皿の中央に味をつけたキュウリを載せ、そこにチャーシューのスライスを円状にたてかけ、最後にキュウリをもんだ汁を上からかける。これは『北京飯店』のつまみとしては、餃子に次ぐ人気メニューであった。 


 叉焼をテーブルへもっていくと、酒が既に尽きていた。


「最近はこんな時間にきてはるんですか。普段やったら風呂入ってる時間とちゃいますの」


「まぁな。最近は忙しいんや。ほら、趣味も幸せもない、仕事だけのないサラリーマンやからのぅ」


「エリートが何を言うてますの。なんや奥さんと喧嘩してるって噂を聞きましたけど、道山さんがまたなんか細かいこと言ってるんじゃないですか」


「なんや、お前になにがわかるんや、いつから俺にそんな偉そうに上からものをいうようになった」


「いえ、そんなつもりで言ってるんやないですって」


「どうせ俺はただの勤め人や。小さな幸せを片隅に抱きながら生きてきたのにこのざまや」


「なんのこっちゃ。立派なエリートじゃないですか」


「ふん、自由に生きているお前には絶対にわからん。どんな会社であろうが、サラリーマンなんてなんの力もない。片山はええよ、お前はまだまだ若いし、自由やし、いつも幸せそうな顔をしてやがる。ほんまお前が羨ましいわ」


 そこにいいタイミングでチーフが割って入った。


「ほいよ、エンザーキー(鶏の骨付き唐揚げ)あがり」


 祐介はカウンター越しにそれを受け取り、他のお客に差し出し、逃げるようにして厨房に戻った。


 最初は久しぶりだし、お世話になってきたので、なんとか話を合せようと思ったが、ここまでネガティブではしんどい。道山が客席からこちらを凝視していることに気づきながらも、無視してチーフの顔を見ながら話をする。


「おっさん、かなりぐれとるやろ。あれな、奥さんがそこの大病院の看護師長になってからやねん。なにやらすごく忙しくなってしもうたとかで、夜はヘタすると道山さんより遅いし、当然そんな時は飯は作ってもらわれへんし。それでうちに来る回数が増えたまでは良かったけども、今度は給料が奥さんのほうが上になってしもたとかで。元々かなり気の強い奥さんらしいねんけど、自分はせっかく上場企業に勤めているのにそれを超えてしまったことで、ますます自分の立場が弱くなってるというわけや」


「なるほど、男の顔が丸つぶれって感じですね。でも、奥さん家に帰ってくるのが遅かったら、自分はゆっくり羽伸ばせるんちゃいますの。給料かてぎょうさん稼いでもらった方が楽なような。結婚生活がどういうもんかよくわかりませんけど、チーフを見てたらそんな気が。だってチーフはよく裏ビデオ観たいのにまた嫁はんがべったりとおって観られへんかった、なんてことよく言うてましたやん」


「いや、わしと一緒にしたらあかんて。道山さんは、ただただ真っすぐに働き続けてきたほんまのエリートや。趣味なんて探す暇もないやろし。楽しみは二人の娘さんがすくすくと育っていくのを見ることだけやったはずや。それがここにきて嫁はんが家不在で、稼ぎはあって、中学に入ったばかりの娘は思春期でお父さんを嫌いになりだして。それはなかなかつらいところやで。最近はパチンコへ入り浸るようになってるようで、171だけやのうてなにやら駅前の店にも行きだしてるらしい」


「そうか、いい企業に勤めていることが必ずしも幸せやないんですね」


 するとまた客席から声が飛んできた。


「片山っ、片山っ~。何を隠れてひそひそやっとんじゃ。久しぶりなんやからはよこっちこんかい。酒や、俺は客やぞ、客が注文しとるんやないかっ」


「はいはい、道山さん、お待たせしました」


 祐介は冷蔵庫から一升瓶を取り出し、並々とコップに注ぐ。


「あぁやっぱりお前は酒を入れるのもうまいのぅ。表面張力までいきよる。うれしいわ」


 そういって道山は背中を丸めて口をコップに近づける。


「道山さん、そんなにぐれんといてください。最近は仕事をさぼって駅前のパチンコ屋にまで行ってるとか。酒を飲んでは愚痴ってばっかり。昔みたいに憧れの大先輩に戻ってください」


「ふん、お前はまだまだ青いいうとるやろ。そのうち俺の気持ちがわかるわ。チーフに入れ知恵されて偉そうなこと言わんと、お前は酒を入れてればそれでええねん」


 道山は男のプライドを守れないという理由だけでここまでぐれているのだろうか。先から厨房へ戻るたびに呼びつけられての繰り返し。祐介はあらためて料理の勉強をしに来たというのに、これでは裏町の泥話の聞き役になってしまう。


 今から酢豚用の豚肉を仕込まなければならない。ロース肉やモモ肉のスジ周りをきれいにさばいて下味をつけて二度揚げするのである。チーフが作るのは今まで何度も見てきたが、今日は自身がやらせてもらうことになっていた。


 叉焼を少しずつかじりながら、酒はすでに四杯目となっていた道山。


「おい、片山っ。こっちへ来い。酒や、酒を注げ」


 チーフが呆れた表情で道山を見る。豚肉を切り始めた祐介は、包丁を置いて、仕方なく客席へ向かった。


「道山さん、もうそれ以上はやめといてください」


「なんやとっ。いつから俺に指図できる立場になったんや。俺はお前の恩人やろ。ま、ちょっとだけかもしれんけど。酒入れへんのやったら自分で注ぐぞ」


 コップを片手に冷蔵庫の扉を開けかけたその瞬間、チーフが遮るように声を上げた。


「こらっ、おっさんっ、ええ加減にせぇよ。勝手に注いだら二杯分つけるからなっ」


 さすがにチーフに言われると、椅子に座りなおすしかない。祐介が仕方なく道山のコップに酒を注ぐ。


「はい、今日はこれまで。道山さんにはたくさんお世話になりましたから、もう一杯だけ。でも、それ以上はやめといてください。できればパチンコもやめたほうがいいと思います」


 すると道山は祐介の腕をぎゅっと握って思い切り引っ張った。


「なにこらっ、ちょっとここに座れ」


「いたたたっ、嫌ですっって。仕事中やし。他のお客さんにも迷惑です」


「なんやとっ~。ほんまにどいつもこいつも俺を馬鹿にしよってから。もう俺の行く場所はどこにもないやないかっ」


 一瞬店内が静まり返った。


 道山は顔を紅潮させ、目は完全にぶっ飛んでいる。今までは酔っても切りのいいところで引き上げていたのだが、最近は他に客がいても、このように声を荒げたり、酷いときは他の客に絡んだり、とにかく居座ることが多いという。せめてエロ漫画でも読んで過ごしてくれたらいいのだが。


「ようわかった。もう誰のことも信じへん。俺なんかどうなってもええわ。仕事を辞めて嫁はんとも別れたる。それでも足らんかったら死ぬ。これが今の俺にできる最大の行動や。嫁はんにこれ以上馬鹿にされてたまるかっ」


「死ぬとか仕事を辞めるとか、何を言うてますの。あんなええ会社、誰でも入れるわけじゃないでしょ。それに奥さんがうっとおしいんやったらとっとと離婚したらええですやん。離婚したら堂々と次いけるわけやから。色んな女性と仲良くなれて、人生何度もおいしい、てか。こんなええことないのとちゃいますか」


「お前は若いからそんなことが言えるねんっ。俺みたいに歳食ってしもたらもう終わりや」


「いや、そんなん自分で言うたらあきませんわ。歳行ってるなりに若いもんには負けない何かがあるでしょうから」


「俺なんかおらんほうがマシやと何度も言われてる。娘からも見限られてしもうてる。ここまでなったらもう仕事へ行くのも家に帰る理由もあらへん。ほら、酒もう一杯」


 チーフはロンピーを吹かしながら大きく息をついている。


 高校時代にお会いしたときは未知の大きな人だと思い、後には心強い大先輩だとちょびっとは尊敬していた人だけに、その急な没落ぶりがとても気の毒であり、腑甲斐なく見えた。この後も道山は何度も祐介を呼びつけるが、チーフが帰るように促して、なんとか店を出て行ってくれた。


 十二時になろうかという頃。客は見たことのある長距離運転手とタクシー運転手が二人。店のサイズとアンバランスなほどの大きな換気扇が、ゴーーーッと低い音を立てながら店内にたまった重たい空気を外へ吐き出す。


 チーフはロンピーをゴミ缶にピンと弾き捨て、豚肉に下味をつけ、片栗粉をまぶしだした。いつものようにきびきびとしたリズミカルな動きに戻っている。どれだけ空気が重たく澱んでも、瞬時的にスイッチが入るのがすごい。


 祐介は心身ともに重たくなってしまい、なかなか仕事モードに戻れない。肩を落としながらチーフが肉を揚げる姿を傍観するので精一杯だ。ネガティブパワーに負けていては、料理はできない。

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