変わるものと変わらぬもの

 昭和六二年、三月。


 三度目の『北京飯店』は、週四日ある料理クラスの後の夜十時頃から深夜一時まで、それと現本職『アクア』が非番の時は一日通しで、というサイクルで入ることになった。


 初日の朝九時頃、まずは米三升を洗う。以前から米は一度に二升か三升を洗うのがパターンである。四升炊きと三升炊きのガス炊飯器が二台あって、朝は四升炊きで三升を炊くのが通例だ。炊飯釜の大きさは直径五〇センチほど。厨房が狭いので、勝手口の外までホースを引っ張って米を洗う。


 米を研ぐ、という表現があるが、昔は汚れや糠が多く入っていたのでそれを洗い落とすためにそんな表現が生まれたそうだ。今では精米技術が飛躍的に進み、通常の米は優しく混ぜながら汚れを落とすだけでいい、と料理クラスで学び、実際に検証し食味テストをしたことがあった。


『北京飯店』はプロパンガスを使用しており、スピーディにおいしく炊ける。三升を二〇分で炊飯し、一〇分ほど蒸らし、合計三〇分で炊きあがる。営業が始まる十一時の四〇分ほど前にスイッチを入れる。


 それにしても勝手口付近は今までボットン臭が漂いまくっていたのに、今日はほんのわずかしか臭ってこないのはなぜなのか。


 チーフに尋ねるとトイレを最新鋭のものに新装したというのだ。まずはユニットそのものが錆び錆びのブリキ製から綺麗なプラスティック製に。そしてピストルタイプの水洗機と、排水口に弁がついた便器を設置。時代はすでに水栓で当たり前。未だ汲み取りシステムのままであるが、近代文明の仲間入りを果たせた感じが十分にあった。


 よく見ると他にも新装したものがいくつもあった。黒電話がプッシュフォンになっている。前者はダイヤルを回し、ジリジリという音と共にゆっくり戻るのを待って次の番号を回すものだが、後者はボタンを押すだけでかけられる。また何軒かの番号を記憶する機能もついておりボタン一つでかけることもできるのだ。利器というものはどんなものでも基本的に時間短縮されていくもののようである。


「ふふふ、子機もついとるんやで。レジの隣に置いてあるわ。これでもう出前を取りこぼすこともない。すごいやろ」


「こんな五、六坪しかない店舗で子機なんていりませんやん」


「何を言うてんねん。こんな便利なもんあらへんで。実はもう一個子機があって二階に置いとんねん。宴会が入っても追加注文をしっかりと聞けるというわけや」


「え、まさか二階も改装したとか」


「いや、してない。でも、ゆくゆくは二階もきれいにしたいと思ってる。カラオケも置いて若い女の人にも楽しめるようにしよう思うとる」


「よく見たらテーブルも変わってますね」


「そうや。先週末に入れ替えたところや。お客の一人に解体屋がいてて、どっかの居酒屋が潰れたとかでもってきてくれたんや。前のテーブルはもう板の表面が剥がれてボロボロやった。一新してめちゃ気持ちよくなったやろ」


「大衆中華といえばあの朱色がええんやと思うんですけど。なんや椅子まで居酒屋風の木製のに変わってるし。前の朱色のビニールが張られたパイプ椅子はもうお釈迦ですか」


「あれは回転させるたびにキーキー言うて。油さしてももうあかんかった」


 どれを見ても、前のままでよかったのでは、と思えてしまうわけだが、チーフにとってはポジティブなことばかり。やはり店の備品や設備というのは必ず劣化していくわけであって、いつかは新しく入れ替えていく必要があるというわけだ。


 客席の掃き掃除と拭き掃除を済ませ、お昼の弁当に入れるためのキャベツのケン切りに取り掛かる。サクサクサク……。


「ところでこの中華包丁、今まで何も気にしたことなかったですけど、もしかしたら菜切り用とそうでないものがあったりするんですか」


 通っている料理クラスではわざわざ素材に応じて使う包丁を使い分けていた。そういえば鶏の解体のときに使うのは違う形状の包丁だったはず。今まで祐介は何も考えずに、常にまな板の上に置かれていた包丁を使っていただけであった。


「お、気づいたか。大きく分けて三つある。ひとつは今片山君が手にしてる長方形のものでちょっと薄くて軽め。それが菜切り用や。で、もうひとつはそれよりちょっとだけ厚い中厚タイプで、まぁ野菜、肉どちらでもかまへん。酢豚や豚の赤身をさばくときに使ってるのはその中厚や。で、丸の解体や唐揚げ用の肉など骨を割る際に使うのが一番重くて分厚いやつ。ま、ほかにペティナイフも使うけどな。あと、めったに使うことないけど、ほら、先がやや細くなってるのあったやろ、あれは魚用。でも、うちでは魚を使うことがないから新聞紙に丸めてしまったままや」


 最も分厚い包丁を持たせてもらうと、先まで使っていたものと刃の長さは二〇センチほどとほぼ同じなのだが、確かに重みが全然違う。


「こわっ。こんなもんミスったら指の一本や二本すぐに飛びますね。ヤクザもこれでやったら痛みがましだったりして」


「ほんまにイってまうで。注意しながら使わんと。でもな、それくらいやないと骨が奇麗に割れんのや。潰れてしまうと食べづらいやろ」


 そんな話をしているうちに鶏屋が朝の配達にやってきた。今まで何度も見てきた鶏ガラと丸(姿のまま)であるが、今は細かいところまで見いってしまう。日頃から二つの籠で運ばれてきて、ひとつは丸が入っている。丸とは羽毛を剥ぎとり、頭部を落としただけの鶏の姿そのままのもののこと。そしてもう一つの籠がガラ。前者は肉となり、残りをスープとし、後者はすべてスープの素材とする。『北京飯店』のスープは澄んでいて表面に黄金色の脂が浮いている。これぞ店の血液であり骨である。


 チーフがさっそく丸の解体に取り掛かろうと、外の倉庫から丸いまな板を持ってきて作業台に置いた。昔は丸太を輪切りにした分厚いまな板の上で作業していたが、保健所の指示で、今は抗菌のプラスティック製に変わった。ここに水洗いした丸を一羽ずつ置いて解体を始める。チーフにお願いして、一羽見本を見せてもらい、その後自分がやらせてもらうことに。


 まず、尾っぽを切り取ってから背中の真ん中に切りめをいれ、ひっくり返してモモに刃を入れる。そこに指を突っ込んでばきっと割きながら最後の皮を刃できりとる。次にクビの皮を切り、胸の真ん中に切りめをいれ、肩というか手羽の上部の筋を切り、指を突っ込んで割る。胴体のムネ側を外し、その両脇にあるササミの筋を抜き取る。その後、手羽とムネ肉を別ける。


「このムネ肉とササミが鶏の天ぷらや辛し炒め、うま煮になるわけですね」


「そうや、丸からとった新鮮な鶏肉は、とても柔らかでしっとりしとるんや。淡白なのに香りもあるしな。そういえば片山君、鶏の天ぷらが大好きやったな。今度作らせたげるわ」


「うわ、覚えてたんですね。ぜひ教えてください」


 モモや手羽の部分は、中華包丁でダンッダンッと骨ごとやや大きめに割って、別の容器に入れて唐揚げ用とする。最後は残った胴を流水で洗い、ガラとあわせて、直径八〇センチ、深さ一メートルほどの大きな寸胴鍋の中にいれる。


 ここからがスープの仕込みだ。水を少しずつ入れ、同時に火にかけるのだが、最初は弱火。そしてガラがひたひたになるまで水を入れたら、今度は青ネギと生姜、卵の殻を入れる。卵の殻を入れることで濁りを取ることが出来るとチーフは言う。


 温度が上がり、しばらくするとアクや屑が浮きあがってくるのでそれをこまめにオタマで掬い取る。スープが完成するのは暑い時期でざっと六時間ほど、寒い時期ならプラスもう一、二時間はかかる。その日の昼間の分を朝に仕込んでいたのでは間に合わない。だから今仕込んでいるスープは今晩からの分だ。


 スープについては前々からよく「沸かすな、触るな」と言われてきた。なぜか。


「それは澄んだスープをとるため。沸騰させたり、混ぜてしまうと、濁ってしもてアクが混ざってしまう。せやから、煮出してからしばらくはアクを取り続け、その後は触らずにちまちまと煮続けるんや。すると六時間ほど経ったら上面に鶏のゼラチンが浮かんでくる。これがテカテカと輝いて透き通った黄金色のスープができるわけや。こういうの中華の世界では清湯(チンタン)スープという。高級店になると、これと干し貝柱などの戻した汁などを合わせて使うこともあるんや」


「そういえば、ここ数年はラーメン専門店が増えて、何でもかんでも入れまくったどろどろのスープが流行ってますやん。特に若いお客は濃いのがいいみたいに言いますけど、そういうスープは作らへんのですか」


「あれは中華料理やない。うちは大衆食堂やから高級なことはやらんけど、一応は北京料理やからな。清湯スープは北京料理の基本中の基本や」


 今までどちらかと言うとエロおやじの印象のほうが強かったチーフだが、実はちゃんとした中華料理の職人だった。


 鶏の仕込みを終えたら、あとは各食器を拭きなおして作業台に並べていき、トマトやキャベツの千切り、業務用既製品のマカロニサラダや漬物などを用意。浄水器から汲んだ水をウォータークーラーに注ぐ。一〇時半にはほぼ準備が整った。


「おお、やっぱり片山君がおったら仕事がスムーズや。暖簾出すまでまだ三〇分あるわ。コーヒーでも飲もうか」


「また隣のくそまずい酸化ブレンドですか」


「いやいや、最近はこれや。ほら、高倉健がCMに出てる、ネスカフェ・ゴールドブレンド。こっちのほうがよっぽどうまいし安上がりや」


「おおっと、まさに”違いがわかる男の”コーヒーですね。隣、いまだに純喫茶って看板に書いてます。純っていったいどういう意味ですか。不純喫茶があるとか」


「さぁて、中華以外のことはわからんわ。とりあえずあのマスターは純には見えへんけどな」


 チーフが麺をゆがくための大きな寸胴に入った熱湯にお玉を突っ込み、マグカップに注ぎ入れる。


「はい、どうぞ」


 一口コーヒーをすすって、ロンピーに火をつけ、勝手口の外を眺めるチーフ。


「ふぅ~。そうや、あの、田上君て覚えてるか」


「あぁはい、あの使いもんにならん子ですね」


「あの子な、組に入ってしもたわ。あれから一度店に戻ってきたかと思うと、すぐにまた辞めて。で、忘れた頃にふらりとやってきて、組に入ったんやと挨拶に来た。もう堅気やなくなるから、迷惑を掛けたらあかんので二度と来んようにします、って言ってた。心配したとおりになってしもたわ」


「そうでしたか。あれで務まるんかな。あの世界こそ、知恵と行動力が不可欠なんとちゃいますのん」


「どうかな。その組が自分の居場所を作ってくれた、と言ってたわ。なんか苦笑いって感じやったけどな。でも、蒸発したり自殺せんかっただけましや。もうなんでもええわ。元気でやってくれてたらそれでええ」


 有線のスイッチを入れるとモノラルスピーカーから矢沢永吉の「チャイナタウン」が聞こえてきた。

「この町を行~けば~ お前との~思い出が~風のように頬を打つ~♪」

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