第四幕 料理人ロード
「料理している姿が格好いい」
九月中旬。ようやくギプスが取れた祐介は、ボサボサ頭を奇麗に刈り上げにして、生きる道を模索するかのように、スクーターに乗って近所を走っていた。すると、一本の電柱に貼られた「スタッフ急募」の紙が目に入り、思わずスクーターを歩道に停める。
「簡単な調理の仕事。時間応相談。↓」
その矢印の五メートル先に三階建ての洒落た建物があった。ベージュ色の壁で、一階に幅三メートル、高さ一.五メートルほどの大きな窓がある。すぐ横に五〇センチほどの鉄の彫刻が掛かり、何か文字が書かれてるが何語かわからず読むことができない。どうやら高級カフェかレストランのようだ。
何かに憑かれたようにふわぁっと店の扉を開けて入っていく祐介。するとコーヒーのいい香りが立ち込めており、顔も体系も南沙織(一九七〇年代に活躍した黒いストレートヘアーの美人歌手)にそっくりな女性がこちらを見た。
「いらっしゃいませ。あれ、お客さんじゃないのね。何かご用ですか」
「ええ、外にスタッフ急募ってあったので」
「あ、そのことなら上の事務所に行って下さい。厨房の裏側に階段がありますから、中から、さ、どうぞ」
催眠術にかけられたようにすんなりとカウンターの中へ入り、厨房を超え、勝手口を出て階段をトントントンと上っていく。すると、そこに四面の広大なテニスコートが現れ、目が覚めた。
「うわっ、しまった、俺がこの世でもっとも嫌いなテニスやっ」
反射的にその場から逃げようと思うも出口が分からず、きょろきょろと辺りを見回していたら、隣にあった事務所らしきところからミニスカート姿の女性が出てきた。
「いま喫茶店から連絡がありましたけど、面接ですよね」
いきなり「面接」といわれて腰が引けたが、その女性の声と足があまりに綺麗で、再度催眠術に。
「でも、あいにく今は支配人が外出しておりまして。お時間のお約束をしてもいいでしょうか」
「あ、はい」
事務所の中へ呼ばれ、女性がメモを手にしたその時、どこか奥の方から大量の鍵をぶら下げたような金属が擦れ合う音が聞こえてきた。チャラチャラ、ジャラジャラ。
そして突き当りの白いドアがガチャン。向こうからまるでハロウィンのコスプレかと思うような、真っ黒なひらひらの衣装をきたマツコデラックス似の大きな女性が現れ、ミニスカ女性の前までやってきてこちらを凝視。
「あなた何の御用。ん、面接。うちで働きたいの」
あまりの矢継ぎ早の口調に戸惑う。
「ええ、まぁその、何と言いますか」
「じゃあこっちのソファに座って。ちょっと聞きたいことがあるから」
そう言ってハロウィン・マツコはドカッと向かいのソファに腰を落とし、肩に背負っていたバッグの中をごそごそとやりだし、二冊の本を取り出した。よく見ると血液型と星占い、四柱推命の本である。
「誕生日はいつかしら。ふむふむ。血液型は。ほぅ」
ペンを人差し指と中指で挟みながら、慣れた手つきでページをペラペラとめくっていく。
「うぅん、合格ね」
「えっ」
「あなたは私が探し求めていた子よ、間違いないわ。すべてお見通し、これが教えてくれてるの」
と、ボロボロになった二冊の本を手にもって、得意げに目を見開くハロウィン・マツコ。
「じゃ、あなたの身長と胸周りを教えて。ふぅん、百七十五センチの九〇センチ。大きいわね。何かスポーツでもやってたの。水泳。いいわね。ウェストは。はぁ七〇センチね」
早口な上、時折笑みをこぼすのが実にスリリング。不安一杯で緊張していたら、ノートをパタッと綴じてこう言った。
「来週の月曜からね。岡村さんとコンビで働くのよ。さっき下にいたあの彼女。あなたは選ばれし人だから大丈夫。シャツとスラックス、靴、そしてネクタイを用意しておくから。時給は七〇〇円から。よろしくね」
話の半分くらいは意味が分からず、この店はいったい何屋さんなのか。よくわからないまま、新たな仕事が決まってしまった。
週明け、緊張しながら祐介は指示された通り、面接を受けた事務所へ入っていく。
「あ、おはよういございます。さっそく今日からですね。支配人がとてもあなたのこと気に入ってましたよ」
女性のミニスカートと美しい声によって、不安な気持ちが一瞬で吹き飛び、衣服と靴、ネクタイを預かる。
「少し説明しますね。ネクタイは夜のみの着用です。昼間は純白のシャツで一番上のボタンも閉じてください。スラックスも二着ずつ入ってます。靴はワンセットで、できれば店の出入り時に履き替えるようにしてください。男性は髭を必ず朝剃っていただいて、耳が見えるショートヘアー限定。あと、基本的な言葉遣いは岡村に教えてもらってください。彼女と片山さんは相性が抜群なんだそうですよ。はい、それでは頑張ってくださいね」
新しく始まった店は『アクア』という。『北京飯店』からは想像もつかないほど、何もかもが透明でエレガントであった。
営業時間は午前十一時から夜十一時まで。売りは神戸の名門コーヒー店が焙煎するコーヒーで、注文ごとに豆を挽いてペーパードリップするという当時では稀少な本格スタイルだった。他にもフレッシュのソフトドリンク、ドイツ系のワイン各種、クロックムッシュや焼きたて卵のサンドウィッチ、手造りケーキ、国内産を使ったビーフピラフなどフードメニューもひと手間が利いていてどれも人気があった。
週末は二階で定期的にフラメンコパーティ。テニスクラブに通う有閑マダムのワインパーティなどが派手に開催されていた。そのたびに特別なパーティ料理を準備するわけだが、最初はバイトだったので先輩の手伝いをするにとどまっていた。が、途中から祐介がリードをとることになり、内容もピンチョスやカナッペ、キッシュや魚料理などとどんどん広がり、パーティごとに色合いや盛り付けもアレンジしていくようになった。
この店に何か目標や夢があったわけではない。良いも悪いもなく、知らない間に時が過ぎていくといった不思議な感覚だった。やがて料理が常連客の間で評判を呼び、入って半年ほどが経った頃に支配人から「あらためての話があるから」とお呼がかかる。
「あなたはこれから正社員として働いてくれるかしら。ボーナスもだすわ。それで夜間にプロ育成の学校へ行っていちから学ぶのよ。それを終えたら店長にしてあげるから」
社員や店長になることなどどうでもよかった。ただ、その流れに身を任せて働き続けていただけだ。店を経営していたのは大阪に本社を置く二部上場の商社。福利厚生はしっかりとしており、ちゃんと給料やボーナスももらうことができた。そして、支配人の指示通り、夕方からは学校に通うことに。喫茶、洋食、中華の各コースを選んだ。
やがて、祐介はバイトスタッフのある女性が気になりだす。彼女はひとつ年上。いつでも眩しい笑顔で、振り返るたびに腰までの長いストレートヘアーが靡くのを見るとドキドキしてしまう。ある夕方、祐介は夜のパーティの仕込みに追われ、汗だくになってフライパンを振っていた。すると、彼女はワイングラスをきゅっきゅっと吹きながら、いきなりこんな言葉を放つ。
「祐介君って料理しているときが格好いいよね」
とんでもない発言に心臓が飛び出そうになりつつも、なんとか平静を装い料理の手を動かし続ける。が、彼女は天使のようなスマイルのまま、さらに続ける。
「いや、ほんとよ。料理している姿が素敵だと思う」
胸が高鳴り、目が泳ぎだした祐介は、おどおどしながら声を搾り出した。
「そ、そんなアホなこと言わんといて。料理なんてオカマのする仕事やから」
すると彼女はグラスをカタンと置いて、真顔で祐介の顔を覗き込むようにした。窓からの木漏れ日をバックに揺れる長い髪がきらきらと眩しい。
「祐介君ってわかってないのね。女は男の汗に惚れるもんよ。一所懸命に料理をしている姿は絶対に格好いいって」
一気に頭の中がぐっちゃぐちゃになった祐介は鍋の火を切り、腰に手を当てて彼女を見る。
「あのぅ、嘘いうたらアカンよ。男が料理してて格好いいわけがないやん。料理の仕事なんて男の仕事やないし。俺、ずっと恥ずかしいもん」
「祐介君はほんとに女のことをわかってない」
「そんなんわかるか。素敵って、それは男として言ってるわけやないでしょ」
「ふんっ、男としてよ。女としてそう思うって話よ」
「ええっ、うっそやん、そうやったんか……」
この瞬間、祐介の全身に長年をかけて刻み込まれてきた浅はかな男像が音を立てて崩れ落ちた。男たるものは、喧嘩が強く、スポーツ万能で、何事もタフで、そして金の成る仕事に就き、というマッチョ信仰だ。こんな厨房でちょこまかと動いているようでは男とはいえない、というわけだ。
ひと呼吸おいて彼女は再びグラスを拭きだし、祐介も鍋を再開し、しばらく無言の時間が続いた。そして夕方六時に彼女はいつものスマイルに戻って「お疲れ様っ」とだけ言ってバイトを終了し、店を出て行った。
七時からのパーティに向けてさらに追い込みをかける祐介は、頭の中が彼女の革命的爆弾発言で見事なまでに壊滅状態となっていた。
「料理をしている男が格好いいなんて話、生まれて初めて聞いた。まったく知らなかった。そんなところに女は惚れるんや」
それまでの日本は「男厨房に入るべからず」の考えがまだ色濃く残る時代で、男性はホテルや有名なレストランの厨房ならいても、町の小さな飲食店、特に喫茶店や今でいう洒落たカフェのようなところは女性の趣味という印象が強かった。ましてや祐介は、レーサーの挫折という屈辱感からまだ抜け切れていない。
「しかし、これは恥じなくてもええのか。いや、それどころか格好いいのか。そうか、そうなのか、あの人が男として格好いいと言ったんやからそうなんや。よし、俺は今日から料理の鬼になるっ。もっともっと勉強するでっ。そして、とことんうまい料理を作って、そして、いつの日かあの人を抱きしめて」
覚醒してしまった祐介はこれ以来、貪るようにして店の仕事と学校に情熱を注ぐ。学校では和菓子と洋菓子、日本料理、経営学、衛生法規などのコースも追加。そしてある時、特別講師を勤めていたある先生にこんな相談をする。
「あらためて一から料理を勉強したいのですが、なにからやればいいのでしょうか」
その先生は関西ではタレント的な存在で、テレビに出演しているだけでなく、実際に長年の間台湾料理店を営んでおり実践を熟知している方だった。
「そうやね、贔屓するわけやないけど、やっぱり中華がいいと思うね。中華は火や包丁の使い方がとことん多彩で、使う素材の幅もすごく広くて深い。ここから進んでいけばどんな料理にも通用すると思うよ」
「そうだったんですか、中華料理がそんなにすごいものだったとは」
中華と聞いて思い出さないわけがない。
「よし、チーフにあらためて修行をお願いしよう」
このところ顔を出していなかった『北京飯店』へ行く。そして怪我をきっかけにレースの道を断念したこと、通りがかりの見知らぬ店に就職したこと、プロ育成の学校のことなど堰を切ったように話しまくった。
「そんなわけで、あらためて料理を学びたいと思ったんです。お願いです、給料は要りません。だからとことん教えてください」
チーフはロンピーを思いっきり吸い込んで、こう言った。
「ほぅ、やっぱり料理の道へ行くことになったか。よし、うちでよかったらもう一度おいで」
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