挫折、骨折、紆余曲折

 年が明けて、ますます祐介は仕事に励む。数々の仕事の中でも、特に浅賀の工場のバイトはいい稼ぎになっていた。一時間働こうが八時間働こうが、一回で一万円もらえるのだ。


 生活費は母親に依存。自分が働いた金をすべてバイクレースにつぎ込んでいた。が、悔しいことに、いまだにレースで予選通過したためしがない。サーキットを走ることは楽しくて仕方がないのだが。


 洋一は走りの能力の高さを数多くの国際A級ライダーたちから認められつつも、整備力と資金力の乏しさから、意外にも戦果を出すことができず国際B級止まり。一方の空本はさすがのセンスでわずか二年で国内A級まで上り詰め、国際A級も夢ではない段階に来ていた。


 バイクレーサーになると決めた高校三年の夏から、早三年が経とうとしていた。


 昭和六一年四月。大きな節目がやってくる。


 祐介は鈴鹿サーキットでの練習中に激しく転倒し、左手首を圧迫骨折、左足首が亀裂骨折してしまったのだ。三重県の病院で詳しい検査を受け、書類を手渡され地元の大阪の病院へ行くように促される。大阪へは空本が車で運んでくれた。


 レースの世界は骨の二、三本くらい折れるのはむしろ勲章みたいなもの、と言われる。だが、それは国際A級レーサーなどトップレーサーでの話。


 病院のベッドの上でロックダウン状態となった祐介は、否が応でもこの三年間の足跡を振り返るほかなかった。銀行のクレジットローン、消費者金融、高利貸し、彼女、何人かの同級生からも借金し、今まで注ぎ込んだ金は五〇〇万円以上。気が付けば一つ年下の彼女も高校を卒業し、別に彼氏を作って離れて行ってしまった。借金していた友人たちも、少しずつ距離を置きだしていた。


 そして母親は、松葉杖にギプス姿の祐介を見て泣きじゃくる。もうとっくに限界を超えているではないか。入院している間、ついに心までもが折れてしまった。


 十日後、退院したのはいいが、困ったのはトイレである。病院では洋式トイレ。だが、当時の住宅はまだまだ和式が当たり前だった。


 扉を開けたまま、動かせない左足をトイレの左奥にめい一杯放りだし、右足だけでしゃがみ込んで、両手で水道管を握りしめながら用を足す。当然ウォシュレットなどない。右手で水道管を握り、左手でちり紙を取り、左足太ももにガサガサとこすり合わせてから尻をふく。その後、スパイダーマンのようにして両手で壁を抑えながら少しずつ立ち上がる。


 まさかトイレがこれほど大変なイベントになるとは。その無様な格好と自身の非力さを情けなく思えた。


 祐介は一人、仏壇の父親の遺影を見つめる。そして、じわじわと涙が込み上げる。


「がむしゃらに生きてきたけど、もう疲れたよ。もう少し楽に生きてってええかな」


 昭和六一年八月、その日は祐介二一歳の誕生日であった。

 

 しばらくが過ぎ、何とか動けるようになってきた。浅賀から電話が入る。


「動けるようになったんやったらちょっと顔を出さんか。まもなく、ただの町工場から株式会社にする予定で。そろそろ移転するからこの場所も見納めや」


 当時の浅賀は、共に独立した先輩から独り立ちし、同時に枚方から茨木の実家近くに工場を構えていた。それを今度は実家にある納屋を立て替えて、新たに株式会社にするというのだ。


 祐介はスクーターに松葉杖を載せて、ゆっくりと十五分ほどかけて浅賀の実家に向かう。浅賀の実家は『北京飯店』から三、四〇〇メートルほどの距離。


「おぅ、祐介、なんとも情けない姿やのぅ」


「まぁな」


「新しい会社を見るか。こっちへ来いや」


 すでに納屋は取り壊され、三〇坪ほどの広さの建物ができていた。事務所用の机と椅子だけが三、四セット無造作に置かれてあった。そこに腰掛け、二人同時にタバコに火をつける。


「その恰好、まるでマンガやな。俺が代表して笑ったる」


「うるさいって。来週には手も足もギプスが取れるから。そうなったらまた徹マンしようや」


「そやな。それはそうとどうや、これでいよいよ俺と一緒に仕事する気になったか」


「いやいや、俺の気持ちは変わらんて。絶対に夢をあきらめない。でも、ただ……レーサーは諦める。悔しいけど。そしてお金が欲しい。借金もかなり溜まってしもた」


「そうやろ。やっと受け入れたか。自分がレーサーになれると本気で思うなんてほんまにお前はアホや。考えてもみろ。お前は身長一七五センチもあって筋肉質で体重も重たい。瞬発力だけで平衡感覚なんてあらへんやろが。空本を見てみ。あいつは身長一六五センチの小型で、体重も相当に軽い。猿みたいにすばしっこくて、昔から自転車も自由自在に乗りこなしよる。どこからどう見てもお前にレースのセンスはない。マジの話で」


「悔しいけど俺もそう思った。空本は筑波サーキットでコースレコードを叩き出して、国際A級ライダーたちからも注目の的や。でも、俺はどれだけ整備の勉強や練習を重ねても、結局一度も予選を通過できなかった。万年ノービス。いや完走すら一回しかないからそれ以下や。必ず転倒するかバイクが整備不良で壊れてしまう。神経がすり減ってもう歯がボロボロや」


「その怪我もお前の整備不良が原因か」


「いや、これは違う。決定的な物を見てしまったんや。あるレースの練習初日、知人伝いに俺らより二歳年下の子を紹介されて、そいつに鈴鹿サーキットのラインどり(基本的な走るライン)を教えたってくれと言われて。で、三週走っただけで、わかりました、ありがとうございました、なんて言うんや。そんなアホなと、そのラインどりを覚えるのに俺で三か月かかったのに。で、その後、今度は俺が後ろを走っろうとしたら、なんと一コーナーから二コーナーにかけてドリフトしながら曲がっていきやがった。三コーナー過ぎたころにはそいつの背中は見えなくなっていて、後を追おうとした俺はそのまま六コーナーで激しく転倒してしもたというわけや。ちなみにその子が乗っていたバイクは人からの借り物でタイヤも中古。その子は次のレースで、いきなり予選トップの優勝という快挙を成し遂げ、雑誌で緊急特集が組まれたほど今人気急上昇中や。他のスポーツと比べて、これほどに才能の差がはっきりとする世界もない」


「それは神の啓示や。傷が浅いうちに気づいてよかったやんけ。これからどうすんねん」


「うん、来月空本と一緒に鈴鹿サーキットへ行って、お世話になった人たちに挨拶してくる。洋一君にはもう話した。その後のことはまだ考えられへん。ただ、言えることは、夢を求めて生きていく、ということだけは前とかわらん。その上で金もがっぽりと稼ぎたい。夢をあきらめてお金だけ、という生き方はやっぱり俺には考えられん」


「ふふふ、なかなか言うやないか。ま、何をするか知らんけど身体が完治するまでの間ゆっくり考えろ。それはそうと、とりあえずお前に一つ相談があるんやけどな」


「なんや突然、浅賀から相談なんて気持ち悪いって」


「いやな、今度立ち上げる会社のロゴマークをお前に作ってほしいと思ってるんや。お前って昔から絵やデザインがうまかったやろ。その才能を少しでいいから俺のために使ってくれへんか。どうや、やってくれるか」


 理由もわからず一気に胸が熱くなった。やばい。この思いはいったい何なんだ。


 祐介は声を震わせながら黙って頷くので精いっぱいだった。

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