そう、俺は盗みが一番嫌い

 昭和五九年四月、いよいよ会社勤めが始まる。が、それが町の小さな個人企業だということはわかっていたつもりだが、実際に中に入ってみると想像以上のズッコケ工場だった。


 会社の国道側は一応ガラス張りで新車をなんとか三台詰め込むも、裏側は鰻の寝床で、奥は日の当たらない機械屋敷。仕事の内容はひたすら洗車と車検。一か月経っても売れたのは中古車だけで、新車が売れる気配はまったくない。


 肝心のレース活動は昔に四輪チームがあっただけでもう何年も前に解散したという。従業員は十二、三人ほどで、シャコタンとタケヤリマフラーに興味はあっても二輪はアウトオブ眼中。二〇歳代社員は不在で、最若手が三〇歳過ぎ。中心となるのは四〇~五〇歳代でベテラン揃いかと思えば、実はほとんどが中途採用。そして何より、女性が社長さんの奥さんとその親戚の六十歳代の事務員さん二人だけというのがさびしい限りだ。新規就職者は祐介一人だけであった。


 慢性渋滞の国道イナイチを車で通うのが重苦しくて仕方がない。このままいると自分がダメになってしまう気がして、わずか三ヵ月で退職してしまった。


 その後、手当たり次第に仕事を探し、昼夜を問わず働きまくる。ペンキ塗り。塗料製造工場。電話帳の配布。ケーキのデコレーション。餅屋。『北京飯店』の常連客が勤めていたFRP成形工場。洋一の親友の闇稼業である裏ビデオのダビング。浅賀が経営していた溶接工場などなど。


 年が明けて一月下旬。この時は、空本が勤めるバイクショップと、同じ小野原センター街の酒屋、それぞれ週二日ずつかけもちでバイトしている時期だった。


 ある日、朝から酒屋でバイトの予定で、いつも通りに一〇時前に店に入った。すると酒屋の店主がこちらへついて来い、と言いだす。店主は三〇代前半。小柄な体格で今まではとても気さくに付き合っていたのに、この時は神妙な顔つきをしている。いったい何事かと祐介は思いながら、隣のスーパーの階段を上がっていくと、そこにセンター管理事務所があった。店主について中へ入っていくと、大きな机の向こうに肌が土色のヒキガエルみたいな顔をした中年男が座っていた。その隣には銀縁眼鏡をかけたバーコードヘアーの細身の中年男が立っている。


「あ、はじめまして。片山と申します」

 祐介は意味もわからず反射的に挨拶をする。


 するとヒキガエルが酒屋の店主に語りかけた。

「やっぱり間違いないようですわ。漬物屋の従業員も八百屋の女将さんも見たと言うてます。でも若い子のやったことやから、今回に限り特別に見逃すようにしますから」


 隣に立つバーコードが、酒屋店主に近づきこう話す。

「先ほど話した通りに、よろしくお願いします、お疲れ様です」


 店主は軽く頭を下げ、祐介の背中に手をやり、二人ともその場を出る。通路を歩きながら、違和感のある祐介は店主に話しかけた。


「いったいなんですの、これ」


「ん、大丈夫。これで丸く収めといたから」


「何が。何のことですか」


「片山君には悪いけど、昨日付けでうち辞めてもらいたいねん。バイト代は今度渡すからもううちには顔を出さんように頼むわ」


「はぁ、ちょっと待ってくださいよっ。いったい何のことですか。なんで僕がクビにならなあかんのですかっ」


「ちょっと片山君、大きな声を出さないようにっ」


「何を言うてますのっ。今まで一生懸命やってきたじゃないですか。なんですか突然」


「まぁまぁ、俺はわかってるから」


 二階の通路から一階に下りる階段の前で、祐介の背中を押して早く降りるように促す店主。


「触るなっ。なんでやねんっ。何があったっていうんですか」


 祐介が大きな声を張り上げ振り向くと、店主は渋い顔をして、小さな声で事の成り行きを話し出した。


「もう、わかってんねん、片山君が盗んだってことは。玉子の特売日あるやろ。前回の時、片山君が何回かお金をポケットに入れてたっていう情報が入ったんや。同じこと前々回の時もやってたと。あっ、ええからええから、俺は信じてるから。でも、向かいの漬物屋も八百屋も見たらしい。わかってる、誰にも口外せんから大丈夫や」


 特売とはセンター街の数店が持ち回りで開催するスーパーのイベントで、月曜の夕方三〇分のみ、玉子を中心にその時々の特価品を販売するもの。祐介は店主に頼まれ、それがバイト時間対象外にもかかわらず、ボランティアで今まで何度か参加したことがあったのだ。


「なんのことですかっ。俺、良かれと思って手伝っただけやのに、なんでそんな話になるの。ちょっと待ってください。俺からヒキガエルに直接説明しますから。ちょっと手を離してくださいっ」


 店主は逆戻りしようとする祐介の手をつかんで離さない。それを振り払おうとする祐介。そこに長靴をはいたスーパーの店員が通りがかり、店主が手を緩めた瞬間、祐介は事務所へダッシュした。すると店主が必死で追いかけてきて、事務所の前で祐介を羽交い絞めにする。


「あかんっ、あかんって片山君っ」


「いや、あかんのはあんたらや。何を言ってるかまったく意味が分かりませんっ」


「もうええんや。決まったことやから。どうにも話は変わらんって」


「何を勝手に決めとんじゃっ。俺から説明するっ、説明を聞けって」


「今のまま終わらせるのが一番ええんや。やめとけ、片山っ」


 まったく想像もつかないことの連続に、一気に身体の力が抜けてしまった祐介。店主が祐介の手を引っ張り、すみやかに建物を出る。悔しくて、情けなくて涙も出ない。


「いったいなんでそんなことになるんですか。俺を信じてもらえないんですか。前々回の特売日から今まで俺のことそんな風に見てたやなんて。昨日まで笑って話してたじゃないですか」


 すると店主の顔がさらに曇った。


「実はわしらわかってんねん。店の金も時々抜いてること。毎週片山君が入った日だけレジの金が減っとる。しかも五〇〇〇円とか、一〇〇〇〇円とか区切りのいい額ばかり」


「噓でしょ、もう何を言うてるかまったくわかりませんっ」


「ええってもう。悪気はなかったことはわかってるから。バイクレースのためにやったことなんやろ。片山君のことみんな心配してるから。今やったらまだ間に合うから」


「バイクレースにお金がいるのは事実ですけど、金を盗むなんてことは絶対にないっ。俺は人のものを盗むのが一番嫌いなんです。レジを触ったこともないし」


「もう嫁はんとも話がすんでるから。さ、もう帰り」


「いやですっ。僕が奥さんに話しますっ」


 そういって祐介は階段を駆け下り、事務所とスーパーの入る建物横にあった酒屋へ駆け込む。そこに五歳の可愛い娘を足の間に挟みながら椅子に座る奥さんがいた。


「あ、奥さんっ。なんでか知らんけど僕が金をとったと思われてるみたいなんですよ。なんでこうなったかよくわからないんですけど信じてもらえますよねっ」


 すると奥さんは娘の頭を両手で抱え、視線を下に落とし、手で祐介を追い払うようにしてこういった。


「特売だけやのうて、うちの売り上げに片山君が手を出していたこと前から知ってたから。もう二度と来んといて。この周辺にも入ったらあかん。顔も見たくない」


 あれほどに今まで仲良くしてきていた娘も背中を向けたままだ。今日もいつも通り働くつもりできたの。晴天の霹靂とはまさにこのことだ。


 祐介は助けを求めるかのように、仲良くしていた向かいの金物屋へ向かうと、そこの店主がちらっと祐介を見た瞬間、目をそらして店内へ入っていった。その隣の『北京飯店』社長のうどん屋へも顔を出す。すると社長が不在でパートのおばさんが忙しそうにしている。悪いと思ってその場を後にし、今度は空本のいるバイクショップへと向かった。


 そこにいつも通り、バイクを外へ並べて店内の掃除をする空本がいた。堰を切ったように状況を説明すると、空本が顔をゆがめてこう言った。


「なんじゃその話は。祐介、絶対やってないよな」


「当たり前やっ、俺が今まで人のものを盗んだことあるか」


「確かに、中学の時もみんなが万引きすると言ってもお前だけは拒んでた」


「そう、俺は盗みが一番嫌いなんやって」


「ちょっと待っててくれ。昼過ぎにもういっぺんこれるか。俺、店があるし、その間におやじさん(バイクショップ主人)にもなんか知らんか聞いてみるから」


 空本を待つ間、同じセンター街でも酒屋やスーパーがあるエリアには近づかず、入口付近の書店や食堂あたりをぶらぶらとする祐介。今まで挨拶していた顔見知りたちはみんな目をそらしていく。この信じ難い惨状に、いたたまれない気持ちになった。


 歩いて五分の所に『北京飯店』がある。しかし、午前中は多忙なため、こんなややこしい話をしに行くわけにはいかない。何度もため息をつきながら、自分のバイクを停めてあるセンター街の駐車場をうろうろとする。


 自分の居場所を喪失した祐介は、仕方なくバイクにまたがり、あてもなく北の山のほうへ向かって走りだした。


 そして高校時代に友人たちとよく走りに来ていた、サニータウンという新興住宅街に向かう山道へと入る。この道は以前、各地の走り屋たちが勝負に訪れる有名な道だった。ここで競い合うことの楽しみを知り、祐介はバイクレースの道を目指すようになったのだ。


 バイクレースは勝敗の結果が明確に出るところがいい。相手が誰であれ、早いか遅いかだけなのである。必要なのは、バイクの性能と度胸とセンス。祐介にとってバイクレースは、金や女性といった華やかさだけでなく、そういう潔さも魅力に感じていた。


 それが今は、体験したことのない気持ちの悪い、狐に抓まれたような状況にある。


 午後一時過ぎ、センター街の駐車場に戻り、休憩に出てきた空本と二人でセンター街の中をゆっくりと歩きながら話す。


「さっきおやじに聞いたら、なんや祐介のことをたまたま聞いたって言ってたぞ。数週間も前から、祐介が酒屋のレジや特売の金に手を出してるっていう噂が広まってたらしいわ」


「なんでそんなデマがセンターに広がってしまうんや」


「ほんまやで。俺にもさっぱりわからん」


「とりあえず、その根源の酒屋にいってもう一度説明してみよう。俺から声かけてみるから一緒に行こうぜ」


 バイクショップから一〇〇メートルほど離れたところに酒屋はある。空本が先に店の中を覗くと、店主は配達に出かけているようで、奥さんともう一人のバイトの竹本がいた。竹本は祐介たちと同い年で、センター街からもっと北部の違う校区の出だった。身長は一八〇センチ。髪型はこざっぱりとした七三分けだが、狐目で銀縁眼鏡をかけている。肩はやせているが腹だけがぼっこりと出た二十歳過ぎとは思えない中年体系だ。


「あのぅ祐介がお金盗んだなんて噂が広がってるようなんですけど、こいつなんもしてないのになんで疑われてるんですか。変な評判を広めてるの誰なんですか」


 すると奥さんはちらりと空本を見ただけで、すっと奥の部屋へと消えていった。竹本はまったく無視して、何度も指を舐めながら顧客の台帳をペラペラとめくっている。


「おい、お前なんか知らんか」


「はっ、俺。俺が知るわけないやん。片山が金を抜くところを奥さん何回も見たってよ。それだけやで」


「は、そんなもん、抜いてもないのん見るわけがないやろ」

 前々から竹本のことをどうも気に入らなかった祐介が思わず言う。


「俺に言われても知らんって。しゃーないやん、それが事実や。見た人もいてる。残念やな、もうセンター街に顔出されへんのやから」


「そんなあほな話があるか。おばちゃんっ、おばちゃんっ、どこへいった」

 空本の声もむなしく、その後奥さんが表に出てくることはなかった。


 外に出た空本は今度は社長のうどん屋へ向かう。

「あ、おばさん、こんちは。なんか祐介が酒屋や特売の金をとったなんて噂が広まってるようなんやけど、あれって誰が広めてるの。デマやから信じんといてや」


 パートのおばさんが祐介を一瞥してこう応える。

「そうなんや。まさかなとは思ってたけど」


 次にその隣の金物屋へ入ろうとしたら、また逃げられてしまう。そして今度はスーパーの中へ。祐介が金をポケットに入れたと言っている八百屋と漬物屋だ。


「あのバイク屋のもんですけど、特売日、こいつ金抜いてないですから」


「あぁあの話ね。私はみてないねん。うちのパートさんが見たっていうんよ」


「そのパートさんってどこにおるの」


「今日は休みやわ。またね」


 空本は舌打ちをしながら隣の漬物屋のほうに視線をやる。


「あの、バイク屋のもんですけど、祐介が特売日に金抜いたなんて言われてるんですけど誰が見たんですか」


 すると細身で小柄の初老の女性がでてきて話す。


「あぁ、ここのご主人が見たって言う話ですよ。今日はいませんけど。なんや吊るしてある笊にお金を入れるふりして、何回もポケットに入れてたって話ですわ。ほら、ここ特売会場の真正面やからものすごくよく見えるんですよ。だから間違いないのとちゃうかな」


 空本は祐介の顔を見る。必死で首を横に振る祐介。


「ないない、そんなこと絶対にない。そら癖でポケットを触ったことはあるかもしれんけど、金は抜いてない」


 そう言うと初老の女性がこう続けた。


「そうそう、お金を抜くのも癖のもんやから。知らん間にやってる、ということはあると思うで」


 再び祐介を見る空本。祐介はもう言い返す気力も失っていた。


 二人は外に出て、スーパーの裏側の歩道に座り込んで話す。


「悔しいな。いったいどうなっとんねやろ」


「でも、俺はお前のこと一〇〇パーセント信じてるからな。心配すんな」


 そう空本が言った途端、祐介の目から涙が溢れでた。嗚咽して言葉にならない。こんなに情けない思いをするのは生れて初めてだ。そして、こんな状況になっても自分を信じてくれる空本の存在が嬉しくてしかたがなかった。


 言葉にならない祐介を見て、空本も泣き出した。声を震わせながら言う。


「祐介、何があっても負けるなっ。お前はなにひとつ悪くないねんから。いつかお前の無実が分かる日が来るはずや。誰もお前のこと無視したとしても、俺とおやじはお前の味方やから、これからも毎週ここに来るって約束しろっ」


「わかった、ありがとう、空本…」


 その後、祐介は毎週二日、空本のいるバイクショップへバイトに出かけた。だが、依然としてセンター街の人々は祐介を無視し続けた。


「なんとしてでも、バイクレーサーとして成功してみんなを見返してやる。俺には空本がついている」


 祐介はそう強く思った。 

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